ホーム  御住職の法話目次  御住職の法話(第202号)
 
  而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識は爪上の土よりもすくなし
 善知識・悪知識 

 本日は、皆さんもよく耳にされると思いますが、『善知識・悪知識』についてお話しをさせていただきます。

 【孔子の説く、プラスになる友・マイナスの友】
 私たちは、生きていく上で、良きにつけ悪しきにつけ、自分に縁がある周りの人びとより、知らず知らずのうちに多大な影響を受けています。
 そのため、孔子は付き合っていく友人について、プラスになる友人とマイナスになる友人を立て分け、「益(えき)者(しゃ)三(さん)友(ゆう)・損(そん)者(しゃ)三(さん)友(ゆう)」を説いて、友は選んで付き合っていくよう注意を促しています。
 益者三友とは、
 「直(なお)きを友とし、諒(りょう)を友とし、多(た )聞(ぶん)を友とするは、益(えき)なり」とあり、「直き」とは剛直な人物。「諒」とは誠実な人物。「多聞」とは博識な人物をいい、これらの三人を友とするのは利益となると述べている。それはこれらの友と交わることによって感化を受け、自らの人格を高めていくことができるからであります。
 これに対して「損(そん)者(しや)三(さん)友(ゆう)」とは、
 「便辟(べんぺき)を友とし、善柔(ぜんにゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり」(論語 世界古典文学全集四ー二六一)
とあります。
 「便辟(べんぺき)」とは、難しいこと嫌なことを避けたがる便宜主義者(べんぎしゅぎしゃ)、つまり根本的な処置をせず、間に合わせですますやり方をする人のことです。「善柔(ぜんにゅう)」とは人ざわりが良いだけの人間をいいます。「便佞(べんねい)」とは口さきが巧みで人の気に入るように立ち回り、しかも心のねじれている人をいいます。これらの三人を友とすることは、そこから学び得るものはなく、却って悪い影響を受け、損失を蒙っていくことになるので注意せよ、との誡めであります。
 このように世法においても、善友と悪友の縁があり、私たちは知ると知らざるとにかかわらず、これらの影響を強く受けながら生きているのです。


 【仏法で説く善悪二友の縁】
 そして、さらに信心をしていく上でも善悪の二友の縁があります。
 つまり、仏法では、仏道修行をしていく上で、私たちに善い縁を与えてくれる人を「善知識」といい、悪い影響を与える人を「悪知識」といっています。もともと「知識」とは物事に対してその名前や形や概念を知り認識することをいいますが、仏法においては、「物事の正邪を弁えて誤らせない人」、あるいは「正しく教え導いてくれる友人・同志・指導者」などの意味として用いられています。

 禅宗では参禅の者が師家をこう呼ぶようですし、浄土真宗では念仏の教えを勧める人、特に門徒が正しい法の継承者として門主をこう呼ぶようです。
 しかるに大聖人様は、『守護国家論』において、
 「設ひ仏菩薩たりと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや。」(御書一五〇)
と厳しく仰せであります。
 大聖人様の教えに照らしますと、爾前権経の禅宗や真言宗で指す善知識は、善知識では無いということになります。


 【法華経で説く善知識】
 この「善知識」ということにつきまして、『法華経』の「妙荘厳王品(みょうしょうごんのうぼん)」というところに、釈尊の経文の上においても明らかに説かれているのであります。これはどういうことかと申しますと『法華経』の「妙荘厳王品」に説くところ、浄徳夫人(じようとくふじん)という奥さんと浄蔵(じょうぞう)・浄眼(じょうげん)という二人のお子様が協力を致しまして、妙荘厳王(みょうしょうごんおう)という未だに邪法、邪師の邪義に執着して、つまりバラモンの外道の教えにいつまでも執着するお父さんを、現実に現世において教化・折伏をしたということが説かれているのであります。
 そのお父さんが、この正法の門に帰伏して、その上において、つくづくと自分の妻を思い、自分を正法に導いてくれた子供達の振る舞いに対して、歓喜している様子が、このように経文に説いているのであります。
浄蔵・浄眼の二人の子供は、
 「此の二子は是れ我が善知識なり。宿世の善根を発起して我を饒益(にょうやく)す」(開結六五七)
つまり、自分をこのように、妙法の功徳に溢れた境界に導いてくれた。その理由は我が家に善知識としてその子供が生まれて来たのだ。そのことが宿縁となって今日の自分があるのだということを歓喜して、「自分の子供は単なる我が子ではない。この正法の門に導いてくれた師匠でもあり、善知識でもあるのだ」と言って、我が子に対して父親が感謝の言葉を仏に述べているのであります。
 そこに「善知識」という言葉が『法華経』に説かれているのであります。


 【大聖人様の説かれる善知識】
 その善知識は丁度、妙荘厳王に対する浄徳夫人と浄蔵・浄眼の二人の子供が、大聖人様の御在世中の池上兄弟と、全く同じような状況でした。
 つまり、池上宗仲(むねなか)・宗長(むねなが)のお父さんの康光(やすみつ)が、二人の兄弟が大聖人様に付いて信心していることに対して、家督を譲らないとか、色々なことを言ってこの信心を止めさせよう止めさせようと奸計(かんけい)をめぐらしました。
 しかし、池上宗仲・宗長の二人の兄弟は一致協力して大聖人様の御指南を通して、やがて、そのお父さんをも教化・折伏していくのであります。
 その池上兄弟を大聖人様は『兵衛志殿(ひょうえさかんどの)御返事』に、
 「親父は妙荘厳王のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし 昔と今はかわるとも法華経のことわりは、たごうべからず」(御書一一八二)
と言われて、現世に親を導く孝養の子供の姿は、あたかも『法華経』に説かれる単なる子供ではなくして、善知識の振る舞い、善知識の真の孝養の道を尽くしているのだということを、大聖人は説かれておられるのであります。
 これは現世において家族を、父親を、両親を導いた人の例であります。
 それに対して既に亡くなった父母に対して、あるいは先祖代々の人々に対して、この御本尊のもとに、しっかりと南無妙法華経の功徳を供えて、そして又、朝晩の勤行の時に先祖代々に回向を申し上げることは大切なことです。
 その振る舞い、その回向の功徳ということにつきまして、大聖人様は『法蓮抄』という御書の中にお示しであります。
 その中で、曾谷入道さんはお父さんの十三回忌に当たって、それまで必ず父親の回忌ごとに、又、日々の勤行の中に「自我偈」を読み、題目を唱え、父の報恩の為に回向をされていました。
 その振る舞いに対して、
 「其の時、過去聖霊は我が子息、法蓮は子にはあらず。善知識なりとて娑婆世界に向っておがませ給うらん。是こそ実の孝養にては候なれ」(御書八二〇)
という言葉を残しておられるのであります。
 その先祖代々の人々の中には念仏で送られた両親もあるでしょう。あるいは真言や禅宗や色々な今までの過去の宗教に依って送られた先祖代々の人々。
 どういう人であったとしても今、その子供が正法に目覚めて、この南無妙法華経の閻浮提第一の正法の功徳を供えて、その功徳の用(はたらき)をもって、その父母の精霊を回向する時、その父母、過去の精霊は、御本尊に向かって、又回向し勤行をする皆様方のこの娑婆世界の振る舞いに対して、両の掌を合わせ感涙の涙にむせんで「我が子供ではない、善知識なり善知識なり」と歓喜して悦んでいるのだということを、大聖人様は、この『法蓮抄』に説かれておられるのであります。
 昔から「墓に布団は掛けられず」ということを申します。
 孝養というものはしたい時には既に親はいない。さりとて、その墓に布団を掛けてみても何にもならない。ところが、この南無妙法蓮華経の法のもとに妙法の功徳を供えてあげる。その妙法の功徳をもって回向してあげるならば、それは現実に生きた父母であろうと、既に亡くなった父母であろうと、子供であろうと、先祖代々の人々であろうとも、この妙法は十方法界の人々を救うが故に、過去の父母といえども、皆様方のその日夜の勤行の姿、尊い日々のそうした姿に対して、その功徳の振る舞い、孝養の実に対して、感涙の涙にむせび、又歓喜して両の掌を合わせて「我が子にはあらず、善知識なり、善知識なり。自分は如何に立派な子供を持ったものか。自分は如何に善知識に恵まれた者か」と言って、父母に限らず、先祖代々の一切の過去の精霊が悦んでおるのだということを、大聖人様は教えておられるのであります。
 皆様は、どうかこのことをしっかりと心に置いて、今日の信心は自分だけに止どまらない、その功徳が家族の一切の人々に及び、また先祖代々の一切の人々の精霊を救うというところにつながっているということを知っていただきたいと思います。
 今日の信心は過去の人々の精霊の上に及び、そして皆様方を機軸にして、現在の人々の一切のあらゆる煩悩や、あらゆる悩みや、あらゆる苦しみを打開していく道であり、そしてまた、これから先行き未来の一族一門の人々の幸せを開拓していく。そうした三世を救済する今日の信心なのだということを、大聖人様はこうした善知識という言葉を通して教えて下さっていることを、しっかりと心に置いて頂きたいと思います。


 【善知識に会う難しさ】
 日蓮大聖人は、『三三蔵祈雨事』に、
 「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん。たヾあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひせちなり。而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり。されば仏は善知識に値ふ事をば一眼のかめの浮木に入り、梵天よりいとを下げて大地のはりのめに入るにたとへ給へり。而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上の土よりもすくなし」(御書八七三)
と仰せであります。
 これに対し、悪知識については『星名五郎太郎殿御返事』に、『涅槃経』の文を引用されて、
 「悪象の為にころされては三悪(さんなく)に至らず、悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此の悪象は但身の為にあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」(御書 三六七頁)
と示されています。
 不慮の死を遂げたり、殺害によって横死おうししても、これらはただ身を破るだけで三悪道に堕ちる原因とはなりません。しかし、悪知識は、善心を破り、仏道に迷いを生じさせ、三悪道に導く悪因縁となると説かれています。
 これより見るならば、テロ行為に走るイスラム教の過激派や、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教などは、世間的にはとんでもない教えには違いありませんが、まだ悪象の部類です。悪知識の中でも最悪なのが、創価学会・顕正会・正信会であります。
 なぜなら、正法に似せて人々を惑わし、かつ正法を破ろうと誹謗中傷をしているからです。例えテロ行為で命を落としても堕地獄とはなりませんが、創価学会のニセ本尊を拝んで無くなった場合、堕地獄は必定です。しかも、過去の先祖から今生の眷属、未来の親族までを巻き込んでしまうのですから、サリンよりも最悪なのがニセ本尊・ニセ大聖人仏法なのです。
 大聖人は、仏道修行する者は善知識に親近し、悪知識を遠ざけることを教えられています。
 しかるに、現実には私たちの周りには悪知識がたくさん存在しています。故に、私たちは真実の善知識たる御本仏日蓮大聖人の眷属として、悪知識さえも仏道修行増進の善知識と転換するだけの強い信心を持つこと、さらには、自分自身が他の人の善知識となり、悪知識にならないよう日々反省努力することが大切です。


 【四種の善知識】
 この「善知識」にも実は四つの意味があるのであります。天台大師は『法華文句』という本に四種の善知識を説きました。
 一つは「教授の善知識」と申しまして、私達に対して、大聖人様のこの妙法の一切の法門、一切の教義、御本尊を中心とする法門の総てを教えて下さるその源(みなもと)は、大聖人でありますけれども、日興上人を始めとする代々の御法主上人猊下が、これまた「教授の善知識」ということであります。
 そしてもう一つは「同行の善知識」。
 同じ道に立って、同じ信仰、同じ講中、同じ立場に立って共々に啓発していく。お互いに良き法の友となり、連帯をして異体同心の信心に立って、広宣流布のために精進をしていく、そのお互いという形。皆様お一人お一人が同行。同じ道の上において行を積んでいく「同行の善知識」ということなのであります。
 ですから信心は決して孤立してはいけません。自分一人になって、御本尊さえあれば良いのだ、我が家に御本尊様さえ御安置申し上げれば、自分の都合で自分の心に従って、自分の気が向いた時だけ、自分が納得出来ることだけ従って、そうではないことは知らないというような、そういうわがままな自分の心に従った信心というものを、大聖人様は強く戒めておられるのす。
 どうしても自分一人になりますと、わがままになります。どうしても一人になりますと惰性に流されます。どうしても自分一人でいると好い加減になります。怠惰になります。そういう自分を叱咤激励し、後押しをし、また引っ張って、あるいは、叱ってくれる、励ましてくれる、そうしたお互いの異体同心というものがなければ、真実の精進は出来ないのであります。そうした意味で「同行の善知識」同志や組織というものが必要なのであります。
 その次は「実際の善知識」ということがあります。
 これはどういうことかと言いますと、この信心を通してただ今申し上げましたように、実際に父母を救い、実際に幸せな境涯を一歩一歩、我が身の上に、我が家の中に積んでいく。築き現していく。実証していく。自分の身の上にそれをしっかりと感得していく。そういう有り難さ、あるいはその報恩の道、孝養の道をしっかりと実際にこの世の上において、現実の生活の中に、人生の中に築き顕していくことが「実際の善知識」ということなのであります。
 そして最後には「外護の善知識」ということがあります。
 お互いに日蓮正宗を支え、総本山を外護し、また皆様はこの慈本寺を外護して下さって、そしてここに、大聖人様の教えが、日蓮正宗の宗旨が、厳然として七百年間、今日に伝えられて来のです。
 これをさらに、末法万年の人々に、この妙法を絶やすことなく、曲げることなく、汚すことなく、この正しい信心を伝え流して、世界の人々の幸せ、民衆の救済、広宣流布を成し遂げていかなければなりません。
 そこに私達一人一人がその外護の任に立って、自分だけではなく、同じ今の時代の人々、また未来の人々、世界の一切の末法万年の衆生を救済していく使命があります。そのために私達一人一人は、その外護の任に当っていかなければならない。私達はそうした「外護の善知識」になり切っていかなければいけないと思うのであります。
 そのように「善知識」とたった三文字で出来た言葉でありますけれども、そこに含まれる意義は、法門は非常に深いのだということを心に置いて、しっかりと、日蓮大聖人様の弟子らしく、大聖人様の御信徒らしく、これからも、大聖人様の御義に適う信心を全うしていって頂きたと思います。
 そしてしっかりと功徳を受けきって頂きたいということを申し上げまして、本日の法話に代えさせて頂く次第でございます。
 大変、御苦労様でございました。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  

Copyright (c) 2010-2011 NichirenShoshu Hokkeko Jihonji All Rights Reserved