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  妙とは蘇生の義なり 蘇生と申すはよみがえる義なり
  妙とは蘇生の義なり 

 
   本日は、皆様も何度か耳にしたことがある、『法華題目抄』の、
 『妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり』(御書三六〇頁)
の御文についてお話しさせていただきます。


 【法華題目抄の概略】

 『法華題目抄』は文永三年(一二六六)一月六日、日蓮大聖人が御歳四十五歳の時にしたためられた御書です。
 文永三年という時期は、鎌倉における弘教の時期ですから、本抄は鎌倉において、したためられたと考えるのが自然ですが、この頃、大聖人様は房州(千葉県)にお帰りになることもあったので、房州においておしたためになられたとも伝えられています。対告衆(たいごうしゅう)は明らかではありません。しかし、念仏への執着(しゅうちゃく)を未だ取り払うことができない女性であることは、本抄の内容から推測できます。 御真跡(ごしんせき)については、断片的に散在している状況ですが、第三祖日目上人によって本抄の全体が筆写されており、現在も貴重な写本として大石寺に蔵されています。

 冒頭に「題目の意味さえわからずに唱えても、成仏が可能なのか」という問いに対し、「可能である」と答える形でこの御書は書き始められます。この御書で日蓮大聖人は、題目を唱える功徳の大きさ、信心の重要性、諸経の優劣を述べ、三つの妙の意義を通して、法華経の功徳が題目に具わっていることを明らかにしております。
 はじめに、法華経の意味や説かれている教義が判らなくても、一日乃至一生の間にただ一遍の題目を唱えることによって、不退の位に至ることができることを説き、題目を唱える功徳が広大であることを示されています。
 さらに、経文や数々の事例を挙げ、「信の題目」こそ大切であることを述べると共に、信心なき者は誹謗闡提(ひぼうせんだい)の者であると厳しく御指南されています。 続いて、唱題の妙用(みょうゆう)として、私たちの広大にして堅固な悪業(あくごう)を消滅できることを種々の譬えをもって明示され、さらには法華経の題目に値遇(ちぐう)することの難しさを説かれています。
 そして、法華経の修行には二十八品総てを読経したり、写経するなどの修行がありますが、広(こう)・略(りゃく)を捨てて要(よう)を取る、すなわち、唱題こそが末法の修行であることを示されています。

 次に、妙法五字に具わる徳について述べられます。まず、妙法蓮華経には十界の依報・正報を収めていること、また十方法界における一切の法が妙法蓮華経に納められていることを挙げられます。
 さらに、妙の一字の徳として、開と具と蘇生の徳を挙げられています。そして、その徳によって、爾前経(にぜんきょう)では成仏できないとされていた二乗や悪人や女人の成仏も叶う、つまり一切衆生の成仏が叶うことを説かれています。 最後に、日本国の一切の女人が念仏に執着しているというのは、悪知識に誑(たぶら)かされている姿であると喝破(かっぱ)し、直ちに念仏を捨てて妙法五字を唱えていくよう勧誡(かんかい)され、本抄を結ばれています。


【妙の字に具わる意義について】

 妙という文字には、とても深く広い意義があります。天台大師が妙法蓮華経という法華経の題号を解説された書である『法華玄義』には、十巻に及ぶ文書量のうち五巻半を妙の字の解説に当てているほどです。
 日蓮大聖人は、『法華題目抄』で、妙の字を「開」「具」「蘇生」という三つの視点から解説されております。当該御文は、そのうち蘇生について述べられる箇所の冒頭にあたります。
①「開」について

 日蓮大聖人は「開」について『妙法蓮華経法師品(ほっしほん)第十』の、 「方便の門を開いて眞實(しんじつ)の相を示す」(開結三二八頁)
という経文を引かれ、さらに『法華玄義』の、
「秘密の奧蔵(おうぞう)を発(ひら)く、之を称して妙と為す」(訓読法華玄義釈籖会本上二五頁)
という章安大師の言葉をもって説明されています。

 すなわち法華経以前に説かれた経文の奥底にある深い意義や目的などが、法華経によって明かされることを、「開」とされているのです。
 釈尊は三十歳で成道されてから、四十二年の間、衆生の機根に応じて教えを説き、入滅にいたるまでの八年間で、究極の教えである法華経を説きました。
 釈尊は法華経において、法華経以前に説いた教えの本当の目的と、意義を明かされ、衆生を成仏の教えである法華経に導きました。このように、爾前諸経は法華経によって、はじめて本当の意義が顕わされたのです。これはまた、たとえ重要な経文が爾前経に説かれていたとしても、法華経をないがしろにするのであれば、その経文の存在意義は失われるということです。

②「具」について

 次に「具」とは、『法華題目抄』に、
「妙とは具の義なり。具とは円満の義なり」(御書三五七頁)
とあります。すなわち、欠けることなく具えているという意味で、ちょうど大海の一滴にあらゆる海水の成分が含まれているように、あらゆる事象にそれぞれ三千世間が具わることを、具という語によって表現されています。

 法華経には有情だけではなく非情の成仏も明かされ、さらに爾前経では成仏がかなわなかった二乗や、一闡提、女人、そして悪人の成仏を明かしていますが、それはこの一念三千の法義によるものです。その一念三千が説かれた経文である故に、法華経全体の功徳が法華経の一文字一文字に具わるのだと日蓮大聖人は仰せなのです。

③「蘇生」について
 最後の蘇生とは、仏種の蘇生を意味します。爾前経では二乗、、女人の仏種は作用せず、成仏がかなわないとされていました。しかし、法華経を信ずることでその仏種は蘇生され、菩提心が起こり、成仏がかなうことが、この『法華題目抄』で述べられています。
 爾前経では成仏ができないとされていた人たちのうち、一闡提とは因果の道理を信じない悪人のことです。因果の道理を信じないので、人に隠れて何度も悪事を繰り返すことになります。
 さらに、自己の欲のために強盗、殺人等のあらゆる罪を犯しても心の痛まない者もあります。
 しかし、このような闡提(悪人)でありましても、心がある以上はまだ成仏が適うのです。
 しかし二乗は、見惑(けんわく)、思惑(しわく)を断尽(だんじん)し、阿羅漢(あらかん)(尊敬や施しを受けるに相応しい修行者)となることを究極の悟りとするために、心を滅してしまいます。そのため、永不成仏とされていました。 また女人は罪障が深く、法を受ける器ではないとされていたのです。しかし、この法華経にいたって二乗が次々と記別(きべつ)(仏が弟子に成仏することを予言し記すこと)を受け、悪人の代表である提婆達多(だいばだった)も天王如来という記別を受けました。また、竜女をはじめとして女性たちの成仏が許されたのです。
 このように他の経文では成仏がかなわないとされている人を成仏させる故に、経題に他の経では使用されていない妙の字を使うのだと『法華題目抄』では仰せられています。

 今月の拝読御書である『上野殿御返事』で、大聖人様が、
 『法華経は心なき草木でも仏にするのでる。まして心ある人間はなおさらである。また法華経は成仏の種を煎って芽が出ない声聞と縁覚の二乗をも仏にするのである。まして生きた種子を持った人はなおさらである。また法華経は極悪の、信心なき一闡提の者をも仏にするのである。ましてや信心のある者はもとよりのことである。』(意訳御書一三八〇頁)
と仰せになられるのも、応にこの事を指すのです。


 【人界に仏界を具足する】
 人間にも仏になる種があると言われても、にわかに信じられないかも知れませんが、『観心本尊抄』に、
 『但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ』(御書六四七頁)
とあり、又同抄に、
 『末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり』(御書六四八頁)
『悉達太子(しったたいし)(釈尊の出家前の名前)は人界より仏身を成ず此等の現証を以て之を信ず可きなり』(御書六四八頁)
と説かれています。

 私達、末法に生まれた凡夫が、人間と生まれてきて法華経を信ずるのは、人界に仏界を具足しているから信ずることができるのである。それを疑わずに信ずるべきであると教えられています。 ただし、我が心中に仏界ありといえども、仏界所具の凡身が本仏大聖人と同じ仏であるとする発想は間違いです。
 この大いなる慢心によって、創価学会は何の抵抗もなくニセ本尊を作製し、勿体なくも日顕上人がお認めになられた御本尊様を、「拝みたくないという理由だけで」何万体も御不敬にしているのです。

 【実生活における妙法での蘇生】
 私達の信心生活の上で、具体的に『お題目によって蘇生する・よみがえる』をどのように捉えればよいでしょうか。

 今日は、特に、四苦八苦のなかでも、誰もが苦悩する病苦を中心に考えてみます。
 病気は誰もが嫌がるものですが、生死即涅槃の原理から考えると、病気がそのまま悟りとなり、あるいは現世安穏となるということです。よく「一つくらい病気があった方が健康に注意をするので長生きする」などともいわれますが、信心の上からみると、病気もけっして悪いことではなく、かえって得るものが大きいといえます。

 まず第一に日蓮大聖人様が『妙心尼御前御返事』に、
「病によりて道心はをこり候なり」(御書九〇〇頁)
と仰せのように、病気があったればこそ信心ができた。御本尊様に巡り会えたという最大の功徳があげられます。
 第二に自分自身が病気をすることにより、人の病気の辛さ、大変さが分かるということがあります。他人の痛みというものは実際に経験しなければわからないものです。それがわかるということは相手にとってもに有り難いことであり、自分自身の大きな成長となります。
 第三に御本尊様の仏力・法力が確信できるということです。
『法華経薬王品』に

「此の経は則ち為れ閻浮提(えんぶだい)の人の病の良薬なり」とあり、「妙とは蘇生の義なり、蘇生とはよみがえる義なり」
とある通り、たとえ病に倒れようとも、真剣に祈っていくならば、必ず病魔を克服し、これらの御文が実感でき、信心の確信が深まるでしょう。

 さらに罪障消滅の絶好の機会であること。健康の有り難さ、命の尊さが実感できること。さらに病魔を克服した経験をいかして折伏弘教できることなど、病気をしたことにより逆に大きく境界が好転する姿こそ、「よみがえる」姿といえます。

 日蓮大聖人様は、困難を、現在から未来へかけて
の人生を、逞(たくま)しく積極的に生きていくよう説かれています。

 その時に、大切なことは、問題の責任を神や仏、あるいは親や社会に転嫁している間は全く解決しません。題目を唱えながら、この結果をもたらした原因を、過去世の自分の生命が犯した罪業に見いだす、つまり、自己の生命の問題として捉えきれたとき、はじめて解決への方途(ほうと)が開かれてくるのです。

 日蓮大聖人様は、『四条金吾殿御返事』に、

『仏法と申すは道理なり』(御書一一七九頁)
と仰せになられており、正しい仏法による功徳は決して奇跡を期待するものではないのであります。

 【修行無くして蘇生無し】
 我々未完成の凡夫は貪・瞋・癡の三毒を持っておりますから、修行をしなくてはなりません。

 私達は、日蓮大聖人様は末法の御本仏であるということを知っておりますし、教えられております。また、そのように確信しております。
 その御本仏自らが、どうしてそれでは四ケ度の大難、「其の外の大難、風の前の塵なるべし」(御書五七四頁)といわれるほどの大難の御一生を貫かれたのか、なぜ熱原の三烈士は命を落してしまったのか、御本仏ならば、そんな馬鹿なことがあるはずがない、なんでも悠然と乗切っていけるはずではないか、諸難なんか始めからあるはずがない。そういう風に私達凡人は考えるのであります。

 しかし、そうではないのでありまして、仏の化導というものは、自らも病にかかってみせる、諸難にも逢ってみせる、それを凌(しの)いでみせる。その中において、私達に信心を教え、諸難の時はこうやって諸難を乗越えるんだ。病の時はこうやって乗越えるんだ。蘇生の功徳は、このように厳然としてあるんだということを、実際に、大聖人様御自身が、すべての諸難を凌いでみせて、私達に教えて下さっているわけであります。

 仏の教導は、病の時には、自らその病いを通して信心を教える。諸難の時には、その諸難を凌ぐことによって、その諸難を凌ぐことの尊さを教えるところに、仏の教導の意味があるわけであります。ところが、末法の御本仏・大聖人ともあろうお方が、なんでお腹をこわしたなんて御書にあるのか。そんな馬鹿なことはないと考えるのが凡人なのです。

 生きた姿において、現実の功徳において、そのことを教えるという意味は、まずその先達となって、自らが乗越えて、凌いで、はじめて妙法の功徳を、又、人生に信心を通して生きるということの値打を、大聖人様が「日蓮さきがけしたり」(御書一〇五七頁)として教えて下さっているわけであります。

 皆さんも、そうした病に倒れる日も参ります。実際に死に対面する日もやって参ります。その時、その時に、その人の値打、その人の信心の意味が現れて来ます。その時に凌いで見せて、そして自分の家族に対し、後輩に対して、そして又、一族一門の人に対して、信心のあり方を、自分が身をもって実証していく使命があるんだということを、知っていただきたいと思うのであります。

 本当の幸せというものは、始めからあるものではありません。自分が不幸せならば、その不幸せをどのようにして幸いへと転換していくかということを知っていただきたのです。
 妙法の功徳は、どこまでも転換して行くところに現われてくるわけであります。煩悩を菩提へと転換して、そこに真実の六根清浄の命、即身成仏の境涯があるということを示していくわけであります。
 現実の生死というものを菩提へと転じていく。涅槃へと転じていく。そのことによって、生死即涅槃という妙法の境涯が、厳然としてあるということを実証していくわけであります。我々の住んでいる国土世間、娑婆世界を、その信心によって、仏国土、浄土、宝土へと転換していくことによって、娑婆即寂光の功徳は、厳然としてあるということを教えていくわけであります。

 大聖人様は、
 「毒を変じて薬と為す」(御書一四〇五頁)、
 「七難即滅七福即生」(御書七五七頁)
ということをいわれております。その禍いなり不幸というものが、例え七回来ても、それを七つの幸いへと転換していくところに、この妙法を行ずる者の値打と福徳が、必ずそこに備ってくるのです。

 一つ、二つ、三つ、四つと、諸難が続いた。禍いと思われるようなことが、たとえあったとしても、「七難即滅七福即生」という大聖人様のこの御指南をしっかりと心において、もしも七つの不幸が続くとするならば、七つの幸いが必ずくるという確信を持って、この信心を堂々と貫いていっていただきたいと思います。

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