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  【信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即仏身なり】  
     
   信じるとういこと
 
     
 

 世の中には、「私は無神論者で何も信じません。」という方がいます。しかし、何も信じずに生きていくことは不可能です。何も神仏に限らず、人は何かを信じ前向きに捉えられるからこそ生きていけるのではないでしょうか?
 例えばそれが、親や子供であったり、友人の場合もあるでしょう。また、学校の先生の場合もあるし、先輩や恋人の場合もあります。
 仕事でも、賃金や利益を得られると信じるから働く訳ですし、雇い主も働いて利益を上げてくれると思うから雇用するわけです。
 人によって信じる対象はさまざまですが、何も信じないで生きているという人がいるとしたらじつにおかしなことになってしまします。
  それでも、「いや、自分は特に何も信じてはいないし、だれも信じようとは思わない。」という人がいるかもしれません。しかし、そう主張する人でも、少し考えれば、かならず何かを信じて生きていることがわかります。
 たとえば、車に乗っていて、対向車が自分の車にぶつかってくると思えば運転など出来ません。すれ違う人がナイフを隠し持っていて自分を刺そうとしていると思えば、怖くて外出など出来ません。
  食事をするとき、もし食べ物の中に毒が混入しているかもしれないと疑えば、食べることができませんし、物を買おうとするとき、その品物を信じられなければ買うことすらできません。
  このように、人間がさしたる不安もなく生きていくことができるのは、人々の意識のなかに、共通して「信ずる」という心の働きあるからです。この「信」がなければ、私たちは一瞬たりとも生きていくことができません。
  たとえ、自分だけしか信じられないといっても、人間はそれほど完全でもなければ、強くもありません。健康なときならまだしも、病気になれば、医師を頼りますし、温かいはげましの声や、思いやりのある行為に接すれば、自然に涙がこぼれます。
 信頼できる友人、先輩、師匠を求め、自分の人生に自信を持ちたいと、だれもが心の底で、そのように願っているのです。また、自分が信頼されていると思えば、相手から寄せられている信頼に応えようと思うのが、人の自然な情ではないでしょうか。
  私たちは、お金が無ければ、とたんに不安な気持ちになりますし、あればあったで、今度は自分がずいぶん偉くなったような気がします。
 恋人ができて、その思いが相手に通じれば、世の中はバラ色にかがやき、失恋でもしようものなら、絶望感におそわれ、信頼していた相手に裏切られたときには、世の中が真っ暗に思えてしまします。
  多少なりとも権力をにぎれば、世界は自分を中心に回っているように錯覚し、その権力が自分から離れてしまうと、今度は自分の無力さに愕然としてしまいます。
 このように、人というものは、自分とその周囲の状況の変化とによって、強くも弱くもなる存在です。ですから「自分しか信じない」と主張しても、結局はその「自分」が何を基盤として生きているかを知らなければ、肝心の自分すら信じようがありません。
 信じているはずの自分の知能も理解力も学歴も、そして経済的手段も人脈も、みな相対的なものです。すなわち、他との比較によってそれらは成り立っているものなので、どれをとっても、たしかな「信」の対象とはなり得ません。
 周囲からの影響を受け、環境に左右される私たちの人間の心を、しっかりと落ち着かせるためには、本当の「信」の対象となるものを見いだすことが必要なのです。世の中の変化がどうあれ、生涯にわたって、自分の心の中に貫くことのできる「信」の対象を見いだすことができたならば、私たちは、どれほど素晴らしい人生を送ることができるでしょうか。
 私たちは、人間として生まれてきた以上、共通の願いをもっています。それは「幸福になりたい」という願いです。幸福になりたい、幸福に生きたい、そしてその幸福を得るという大きな目標のために、さまざまに願い、さまざまに希望をいだくのです。
 病気に苦しむ人が、健康を願うのは自然な心情です。貧しければ裕福を願い、争いが絶えなければ平和を願います。
 しかし、人には、いくら求めても得られない苦しみがあります。たとえ求めて得られたとしても、やがて失わなければなりません。愛するもの、惜しむものと別れなければならない苦しみも、人間の苦悩のひとつとして仏法では説いています。私たちの命にかぎりがあるように、私たちがこの世界に求められるものは、例外なく「無常」の法則を免れないと仏法では説いています。
 新しい家も、新車も、新調の服も、労してそれを得たばかりのときには喜びに満たされますが、時とともにその喜びはうすれ、数年もすれば古いものになってしまします。そしてまた、新しいものを欲するようになりますから、絶えず新しいものを求め、手に入れつづけなければ、その「幸福感」もつづきません。
 私たちがよりよく生きるためには、健康が大切です。だからといって、それが幸福の絶対条件とはなり得ません。その健康な体を、どのように使うかによって、健康の価値も大きく二分されてしまいます。健康であるがゆえに大きな悪事を働き、結果的に自分や周囲の人たちを傷つけ、不幸におとしいれてしまうという事件もあります。
 裕福でありたいと願うのも、私たちの自然な心情です。裕福に越したことはありません。しかし、そのような願いが、いとも簡単に「犯罪」に結びつき、またお金をもっていることが、人に命を狙われるなどの自分を害する結果をまねくことだってあるのです。
 私たちが幸福の条件としてあげるものは、どれをとってみても、本当の幸福を得ることを保証してはくれません。むしろそれを得てしばらくすれば、その幸福感は朝日の前の露のように、跡形もなく消えさってしまうものです。
 だからこそ仏法では、幸福の条件を外に求めず、自分の命のなかに見いだしなさいと教えているのです。病に苦しむ人であっても、貧しさに苦しむ人であっても、そのような苦悩から逃避せず、やせ我慢などでは決して無く、むしろそれを乗り越えたところに、たしかな幸福を等しくうち立てることができる、万人がまことの幸福を見いだすことができる可能性を秘めていると説くのです。そして、そのような真実の自己を発見しなさいと説いているのです。
 広く社会に目を向けるとき、その社会の一員として生活する私たちは、いま、あまりにも多くの問題につきあたっています。
 地球温暖化の問題、エネルギーの問題、少子高齢化の問題、政治経済の混乱、凶悪な事件が後を絶たないという人心の荒廃など、七百五十年前に大聖人が『立正安国論』に仰せになられた世相と全く変わりがありません。

 こうした問題がひき起こされる原因を、さまざまな分野で解明しようと試みていますが、現代の科学・化学の力をもってしても、高度に発達した法律・制度の改革をもってしても、いっこうに改まる気配がありません。迷路は広がるばかりで、まさにもつれにもつれた糸のような状態です。
 
 では、私たちをとりまく、種々の問題の原因は、いったいどこにあるのでしょうか?
 
 いま、社会問題とされているものは、すべて、人によってもたらされるものばかりです。けっして自然界のなかから、人の営みと無関係に発生した問題ではありません。人の営みは、その人がいだいている信条や思想、また宗教に対する考えや「幸福」のとらえ方に、大きく左右されています。そうであるならば、人を動かしている「心」に、問題の原因があるといえないでしょうか。
 どんな社会現象も、集団行為も、もとをたどるならば、かならず、「心」のあり方によって決定していくのです。
 じっさい、「進歩した時代」に生きていると思われている今日ほど、人間が人間としてのあり方に迷い、よりよく生きていくための方途を見失っている時代は、これまでになかったように思います。
 仏法では、私たちの命が「むさぼり」「いかり」「おろか」の状態に支配され、例外なく心に病をもっていると説いています。そしてこのような私たちの命を治療する方法と薬を示しています。
 その治療法をもちい、薬をもちいることによって真実の自己にめざめることができると教えているのですから、まずは仏法に説かれている「処方箋」にまかせて、心身の治療することが大切なのです。
 「この世のなかは、なぜ乱れているんだろう。」
 「その原因はどこにあるのだろう。」
 「人はいかに生き、いかに死ぬべきか」
 大聖人は、このような問題を追求するために、先に紹介した『立正安国論』をはじめ、たくさんの御書をあらわしています。鎌倉時代と現代とでは、たしかに時代はちがいますが、大聖人の教えは、時代をこえて私たちの心に、人としての生き方を強く訴えかけているのです。さまざまな問題をかかえた現代社会のなかで生きる私たちも、大聖人の教えを学び、その教えを自分のものとして行動することによって、現代社会の抱えている問題に、真正面から、力強く立ち向かっていくことができるのです。
 日本には、数えきれないほど多くの寺院があります。そしてその各宗各派とも、「仏教」と称しながら、その教えもまちまちです。
 本来、寺院といえば修行の道場だったのですが、現在の有名寺院の多くは、ほとんどが観光寺院と化してしまい、歴史的な由来や景観、仏像などの仏教美術をほこるのみで、その寺院がどのような本尊を中心として、どのような教えを立て、どのような修行を説いているのかさえ、知らない人がたくさんいます。
 本来、修行の道場であるべき寺院の運営が、たんに観光客の「拝観料」によって成り立っているという現状もなさけないことですが、それ以上に、仏の教えが人間としての自分の生き方を支えてくれるものだという、たいせつな点が見失われていること、そして現代の人びとの「仏教」にたいする軽視も、大きな問題ではないかと思います。
 鎌倉時代、大聖人は各宗各派の教えを学ぶために諸国の寺院を遊学しました。そして、どの宗派も仏の遺言にそむいているとして、真実の仏法を建立しました。大聖人が、「仏の教えではない」とされたのは、たとえばつぎのようなものでした。
 一、この現実の世界を否定し、そこから逃避して、はるかかなたの別の世界に浄土(苦しみのない世界)を求める。
 一、始から自分の心のなかに仏が存在していると主張して、仏教を軽んじる。
 一、自分のもっているさまざまな欲望をそのまま認めて、それを実現するために祈る。
 一、修行が大切だといいながら、現実には不可能な修行をすすめる。
 
 このような教えの間違いを明らかにし、この社会のなかで生きる人たちが、すべて等しく救われる教えを示したのが大聖人です。そしてそのような修行の方法を明して、みずからも救い、他の人たちも救っていこう、それがこの世に生を受けた私たちのほんとうの生き方である、この世界に生かされているという「恩」に報いていく道であると大聖人は説きました。
 このような大聖人の仏法を、ともどもに学び、修行していこうと訴えているのが日蓮正宗であります。
 先ほどから、信じることの大切さを述べてきましたが、そのなかでも大切なことは「何をどのように信じるか」なのです。
 物事の正邪をわきまえず、私達は何千年と邪な教えに執着し、正しい教えをないがしろにしてきました。
 その結果、人心は荒廃し世の中は乱れるのです。正しい教えに背いて招いた現証は、正しい教えを信じ行じて、はじめて修正されるのです。
 世間でも色々な道徳を説き、また色々なことをいいます。そのなかには、真心をもって事に当たるとか、色々な人のために活動をしている人もいます。
 しかし、それは尽きるところ、我というもの、自分自身というものが中心になっての判断であります。ですから、どんなに有意義なことを行っていても、自分自身の存在が脅かされるようなことになれば、その色々な行為・行動がいかによいことであっても、続かなかったり反対にまわったりという問題も出てきます。
 この世に生きている以上、悩みのない人はいませんが、同じような悩みでも、その悩み方はそれぞれです。立場や生活環境のちがいによって、いろいろな悩みや疑問にぶつかるのは当然です。特技も能力も性格もちがいます。これを桜梅桃李(おうばいとうり)というのです。
 SMAPの歌に『ここにしか咲かない花』という歌があります。この歌詞に「それぞれが特別なオンリー1」という歌詞がありますが、まさに同じ意味です。
 人々を、桜梅桃李に喩え、それぞれの木は、性質も咲く花もことなると説きます。仏法では、このようなちがいを認めながら、それぞれに共通する命のあり方に光をあてています。性格のちがうそれぞれの木が、等しく自然のめぐみを受け、大地から養分を吸収して育っていくように、仏法では、人びとのそれぞれの個性を尊重したうえで、桜は桜らしく、梅は梅らしく、美しい花を咲かせていきなさい、個性を十分に発揮していきなさいと説いています。
 私たちの仏道修行の根本は、大聖人が顕した御本尊に向かい「南無妙法蓮華経」と唱えるところにあります。これが仏法の肝要である「お題目」です。わかりやすくいえば、妙法蓮華経という仏様の命の中に、私たちが生きていくために必要なすべての智慧が納まっているから、その命(妙法蓮華経)に、自分の命をゆだねていこう〈これを帰命(きみょう)といい南無といいます〉ということなのです。
 先に、私たちの命が「むさぼり」「いかり」「おろか」(これを三毒と呼びます)に支配されていると述べました。しかしこうした命であっても、仏さまの命に自分をゆだねる(南無妙法蓮華経)を唱えることによって、あたかも仏さまと同じように、私たちの命が清浄になると大聖人は示しています。
 「むさぼり」「いかり」「おろか」などに汚されている私たちが、お題目を唱えることによって、仏の清浄な命と智慧とふるまい〈これを三徳と呼びます〉を自然に得ることになるのです。
 私たちの心が清浄になれば、知らず知らずに自分の姿や周囲の物事を正しく見、判断できるようになります。これがお題目の「功徳」なのです。この功徳によって、私たちは真実の自己、自分の心のなかにある無尽蔵の宝を発見し、たいせつな個性をかがやかせていくことができる、これが大聖人の教えです。
 仏法がいかに勝れた教えであっても、その教えはひじょうに深く、私たちの理解をはるかにこえています。そこで大聖人は「南無妙法蓮華経」への信のたいせつさを強調し、私たちに必要なのは「信をもって智慧に代えることである」と示しています。また「信をもって、はじめて仏法に示されている清浄な世界に入ることができる」と説いています。
 私たちがほんとうの人生の目的を知り、正しく生きていこうとするとき、いちばんたいせつな姿勢を、大聖人は「南無妙法蓮華経」への信であると述べているのです。
 大切なのは、その勝れた教え、宝を自分のものにしていくということなのです。つまり、この法華経の教えがいくら尊くとも、それが自分と関係のないものとして説かれ、存在しているのでは、それによって自分が幸せになることはできません。ですから、自分自身との関係ということが大切になってくるのです。
 それは、もう少し深く言えば修行ということなのです。仏教には必ず修行があります。本宗においては、御本尊様に向かって勤行、唱題をするという修行があります。この修行がなければ、仏教ではありません。修行をするということが、本当に良薬を飲むことになるのです。
 皆さん、とにかく信仰は実践です。なにもせずに功徳のみ欲しがっても願いは叶いません。
 大聖人様は、
 「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」(新編一六七九頁)
また、
 「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり、仏法の根本は信を以て源とす」(新編一三八八頁)
等と、仰せられ、常に決定した強盛な信心を持っていくことの大切さを教えてくださっています。

 どうか正法に縁したみなさんは、大聖人の仏法を信じ、その教えを真剣に学び、修行して、人生の意義を見いだし、それぞれの個性をおおいにかがやかせてください。 


                    住 職  ()  (はし) (どう) (ほう)
 

 
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