ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第197号)  
   
 
   南無妙法蓮華経とだにも唱へ(たてまつ)らば(めっ)せぬ(つみ)や 有るべき、来たらぬ(さいわい)やあるべき  
   なぜ信仰は必要なのか 正しい宗教とは何か
 
   

 本日も、入信間もない方、新来者の方がお見えですので、なるべくそういった方にも理解できるようなお話をさせて頂きたいと思います。

 信仰歴の古い方には少し物足りないかも知れませんが、現在は木曜日の夜・金曜日の昼・土曜日の朝と勉強会をしておりますので、そちらに頑張って参加して下さい。

 また、住職の話をよく聞いて、日蓮正宗の信仰を知らない人に話してあげることは非常に大切な事です。それが大聖人様の仰せであり、我々の修行だからです。

 そして、一人でも多くの方にお話しし、本物の仏様の元で共に幸せになっていくことが我々の使命でもあります。


 
【人々が信仰を始める理由】

 一般に信仰とは、お年寄りが一種の精神修養や先祖を敬いつつ、なごやかな楽しみの場を持つために、お寺へ参詣し、時には団体旅行をすることぐらいの認識しか持ち合わせていない人が多いようです。

 あるいはまた困った時に、神仏の加護を求めて参詣し、手を合わせ、(がん)をかけ、守り札などを大事にすることが、信仰だと思っている人もあります。

 人々が信仰を始める理由は様々です。仕事の問題・家庭の問題・病気の問題・人間関係など挙げればキリがありません。

 しかし、共通して言えることは、人々は苦悩からの解放を願っているということです。

 信仰自体を否定し、必要性を感じないという方もいらっしゃいます。しかし、私達は自然環境の影響や社会の様々なしがらみの中で生きていかなければなりませんので、自分の努力や信念ではどうすることも出来ない事に遭遇するものなのです。個々の人生が全て思い通りになることなど有り得ません。

 先程挙げましたように、病気もあれば不慮の災難もあり、自分の思いが相手に通じなかったり、人生の岐路(きろ)で深く思い悩むこともあります。社会や国家が天災や不況などの危機に直面すれば大勢の人が巻き込まれ苦しむこととなり、ましてや戦争ともなれば今まで築いてきたもの一切を失うこととなるのです。  

 こうしたことは仮想ではなく、現実に、毎日のように世界の各地で繰り返されています。

 宗教はそうした人々に対して、苦しみからの解放と安心立命(あんしんりつめい)の境涯に安住する法を説くのですが、その方向として一つにはこの世界を汚れた苦しみの世界として嫌い、清浄な神仏の世界へ移り住むという教えがあります。

 もう一つはこの世界の中で苦しみを解決し、安住できる国土を築くことを教える宗教もあり、その中に現世(げんせ)利益(りやく)を得るということがあります。

 本日は、大聖人様の教えを元に、本当の信仰をお話していきたいと思います。

 

 【一般的日本人の宗教観】

 最近は、パワースポットが流行し、長蛇の列をなして携帯電話に井戸の写真を撮る光景がテレビでよく放映されています。

 また、結婚に焦る女性が大挙して恋愛成就に御利益があると言われる神社に訪れたりしています。

 それだけ、人々は何かにすがりたいとは思っていても、具体的に自分がどうしなければいけないかとまでは深く考えていません。

 何でもありがたいとか効くと聞けば、普段は信仰に無関心であっても「苦しいときの神頼み」的な祈りによって飛びつき、短絡的(たんらくてき)に願いが叶うと考えがちです。

 ですから、現実にその悩みに直面したときには、その問題の解決のみに関心が行きます。「もし神様や仏様がいるとすれば、念のために願掛けしておけば、病気が治ったり、商売がうまくいったり、試験に合格するかも知れない。」というなかば宝くじ的な感覚であっても、解決したときには御利益があったと思いますが、願い事が成就しなくても「こんなものだろう」程度にしか思いません。

 子供が生まれたら神社へ行き、結婚式は教会で、お祭りには御輿(みこし)を担ぎ、葬式はお寺でと、自分の宗教を明確にもたずに、なんでもありがたいと思っているのです。

 いずれにせよ、信仰に深く心を入れることとはほど遠いものです。

 

 【信仰を好き嫌いで判断してはならない】

 信仰が趣味や道楽あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。

 しかし、正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真実の幸福を獲得(かくとく)する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生(そせい)させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。

 ですから、信仰を単に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明な方法ではありません。

  また私たちの人生は、いつ、どこで幕を閉じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたか羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。

 どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を傾けて信仰が必要なことを知ってください。

 

 【他宗を邪宗という理由】

 色々な宗教で説かれる教えには、考えてみますと、本来、人間の持っている正しい知性・理性を、むしろくらませるような教えが非常に多いのです。

 キリスト教では神様が人間を造ったといいますが、その神様がどこにいらっしゃるやら、はっきりしません。ただ、目に見えない、そういう神があるということを信ずるのが信仰だといいますけれども、これはまだ、その宗教の内容が本当に正しいものではないからであります。

 あるいはまた、アラーの神とか、そのほか色々なことをいいますけれども、それらはただ、そう信ずるということであります。

  去年、うちの御信徒宅にもよくパンフレットを持って現れるというので「エホバの証人」の集会へ行って、どんなことを話しているのか聞いてきました。

 「エホバの証人」とはキリスト教でも異端(いたん)()している、輸血を拒否して子供を死なせて問題になった集団です。

 そこで話されていた内容を少しだけ述べますと、

・アダムとエバが神に反逆(はんぎゃく)した為、それまで人は完全な命・永遠の命を持っていたが、その罪によって短命となったと説かれる。そこで神は、人類を救うために、キリストを人類に捧げた。

・キリストは罪人となった人間と神の橋渡しをした。イエスの犠牲のおかげで神と和解できた。

・聖書には天に昇れる人、天で新たな命を授かる人は、一四四〇〇〇人と説かれる。

・天に昇らず、地上で永遠の命を得たいと希望する人は、それも聞き入れられる。

・人は老い、病気もあり、死があります。生きるのは惨めです。しかし我々には、神の祝福と導きがあり、前途には希望と喜びがあります。

という話をしていました。

私から言わせれば荒唐無稽(こうとうむけい)な話で、『生きるのは惨めです』とのフレーズに内心「オイオイ、ナニを言ってるんですか」と激しくツッコミを入れていましたが、横の女性は泣いており、「今の話でナゼ泣けるの?」とカルトの恐ろしさを実感しました。

 

 話は飛びますが、アメリカで、二〇〇一年九月十一日に同時多発テロが発生した事件は皆さんご存知だと思いますが、その後アメリカはテロを行ったウサーマ・ビン=ラディンとアルカイダに首謀者の嫌疑(けんぎ)をかけます。

 アフガニスタンの九割を実効支配していたターリバン政権は、数度に渡る国連安保理決議によってビン=ラディンとアルカイダの引渡しを要求されていましたが、拒否し続けており、今回も拒否しました。

 NATOは攻撃によってターリバン政権を転覆させる必要を認め、二〇〇一年十月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を行い、ターリバン政府を崩壊させました。以降、国連の主導によるアフガニスタン復興と治安維持が行われていますが、南部を中心としてターリバン派の勢力が攻撃を行っており、アフガニスタンの治安は現在も安定していません。

  また、二〇〇三年三月十七日には「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」としてアメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切りました。

 しかしその後の二〇〇四年十月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出しました。二〇〇六年九月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっています。

  結果、憎しみは憎しみを呼び、イラク側は聖戦(ジハード)と呼び、アメリカ及び攻撃に荷担(かたん)した国に対し、テロ活動を行っています。

 また、アメリカ海兵隊に所属していた法華講員のサムエル牧野さんの話ですと、

(ほとん)どどの兵士が、同時多発テロに対して復讐心に燃え、できるだけたくさんのテロリストを抹殺しようと考えていた。

・自分の怒りの命をどうすることも出来なかった。

・我々は神の軍隊なのだから、キリスト教徒かユダヤ教徒以外は隊員として容認できないとして上官から理不尽ないじめに会う。

という様なことがあったそうです。

 牧野さんは、

・訓練中のヘリが墜落し、同僚が亡くなった時も助かったこと。

・それから、勤行唱題を欠かさなくなると、自分でもコントロール仕切れなかった怒りの命も、収まってきたこと。

・戦地でのイジメによる不当な任務中、兵士の食堂が攻撃され自分は助かったこと。

・軍用車の車列が攻撃され戦死者が出る中、自分の乗った車は無事だったこと。

などを通して、御本尊様への絶対の確信と感謝の念が持てるようになったと体験発表をされました。

 お互いに聖なる戦いとしながら、憎しみの命で戦い、関係のない多くの方々を巻き込む戦争とその根底に流れる宗教色の強い思想によって、世界は混迷を極めているのです。

  それだけ誤った宗教は、人々を惑わし、誰しもが平和に暮らしたい、戦争はいけないことだと分かっていながらも、その方向へ駆り立てるのです。

 これは何も大袈裟なことではありません。皆さんに恐怖感を植え付けようという話でもないのです。

 

 【大聖人様の説かれる四箇の格言】

 日蓮大聖人様が仰せの「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という四箇の格言は、歴史の教科書にも出ており、皆さんもよくご存知だと思います。

 日蓮正宗では、他宗は間違いであり、幸せになれないと言い切りますので、批判され煙たがられます。

しかし、単なる悪口ではなく、道理に基づいて日蓮大聖人様は説かれました。一般には多く知られていませんが、諸宗の学僧といわれる者と法論(ほうろん)をされてもことごとく論破(ろんぱ)され、「二度と念仏を申しません」という起請文(きしょうもん)を書かせたこともありました。

  釈尊は衆生を導くために実に様々なお経を説かれるわけですが、どれも同じように真理を説かれた訳ではなく、聞く人々に合わせて仮の教え(方便)から説かれました。これを随他意と言います。

 そして、法を説いて四十年余りになるが未だに真実は顕していない(無量義経「四十余年(しじゅうよねん)未顕(みけん)真実(しんじつ)」)と仰せられ、法華経を説かれます。

 法華経に、

「此の法華経、最も為れ難信難解なり」(法師品第十・開結三二五)

と説き、法華経は(ずい)他意(たい)といって衆生の機根にかかわりなく、仏が悟った法をそのまま説かれたもので、教義が深遠なために難信(なんしん)難解(なんげ)(信じることも理解することも難しい)であり、さらに正法を信ずる時は必ず大難や障害が起るために難信難解なのであると仰せられています。

 とくに末法は衆生の機根も邪悪な時代であり、出現される仏も弘通される教法もより鮮明に破邪顕正を旨とするものであるから、迫害や誹謗は身命に及ぶものとなり、弘教は困難をきわめるであろうと、釈尊は予言されました。

  釈尊の予言どおり、末法の御本仏日蓮大聖人の生涯は、立正安国と衆生済度(さいど)の大慈悲に貫かれ、同時にまた邪悪な大難障魔との闘いの連続でもありました。

 日蓮正宗は日蓮大聖人の教えのままに、法の正邪を峻別(しゅんべつ)する折伏の宗旨であり、個々の人間に活力を与え、現実生活の向上を説く宗教であるため、封建(ほうけん)主義の時代には、民衆を抑圧して体制維持を計る為政者(いせいしゃ)から弾圧されたのです。

 オウム真理教などは殆どの方がカルトの恐ろしい間違った宗教であると認識できますが、他の宗教による教えの弊害が、社会に厳然とあることを知るべきです。

 やはり念仏の思想・禅の思想・真言の思想、みんな大聖人様の御指南の通り誤っている形が仏法の上に於いていろいろあるのです。

 その誤った形が、僧侶を通じて信徒の方に伝わるから、国民の思想の中に流れているのです。

  どんな悪い事をしても、誤魔化(ごまか)せばいいと言うのは真言の思想です。根本の教義自体がそうなのです。仏法の根本を、勝手に我がままに、法華経の教えを盗んできて真言にくっつけたというところから来ています。

  それから禅宗は「教典は要らない我が心が仏だ」と説きます。なるほどと感心する方もいるのでしょうが、これはもう今で言う、人の話も教えも聞かない勝手に間違っていても自分の信ずること突き進む、そういう我見(がけん)我意(がい)の思想になる事が禅宗の考えなのです。

  念仏は念仏で自分自身の在り方が、もうこの国土は穢土(えど)と言って苦しみの世界なので、この国土を早く捨てて西方(せいほう)極楽(ごくらく)十万(じゅうまん)億土(のくど)へ行くという意味からすると、今の社会思想から全く反しているのです。しかも西方極楽十万億土とは架空の世界ですので、余計に悲劇なのです。

  やはりなんとしても、この我々の住んでいる国土を本当にここにおいて、どんな辛い事があろうと苦しい事があろうと頑張って、この我々の住んでいる国土を正しく幸せにしていこうというのが法華経の精神なのです。

 これと反対なのが念仏の南無阿弥陀仏念仏の教えで、早く悪い世の中を捨ててあっちの西方極楽浄土へ行って救われようと考えます。これは全く自分自身を否定する考え方なのです。

 昔から念仏を唱えながら僧侶・追い詰められた権力者やその家族が念仏を唱えながら入水(にゅうすい)自殺(じさつ)するくだりが描かれて来ました。(「拾遺(しゅうい)往生伝(おうじょうでん)」他「平家物語」)

 今の日本で自殺者が四万人になろうとして大きな社会問題になっていますが、これらの念仏思想が多分に影響しているのです。

  私達があくまでも題目を唱えていくという事は、自分自身の命の中の、本当の優れた物が自分の信心によってどこまでも顕われていくという事なのです。自分自身が法の力を以って、仏力法力を授かる事によって、自分自身の信力行力とこの四つの力が一緒になれば必ず幸せになるという、その上からしっかり生きていくところにその意味があるわですから、法華経以外の念仏・禅などみんな思想的に教えが間違っているのです。

  その教えが間違っている事は、全部国民生活の思想の、全て事相(じそう)の中に、いろいろな考え方に定着しているのです。だから日本の国にも頭のおかしい人が多いのです。誰でも良かったと人を殺す、親が子を殺す、子が親を殺すということも日常的に報道される世の中です。この世の中の思想が錯乱して道義が退廃(たいはい)しているというのは、宗教が間違ってきている姿がそのまま存在しているのです。

 

 【共に正しい信行に励みましょう】

 現在でも、正邪をはっきりさせることに抵抗を感じる人や、信仰するよりは遊んでいた方が楽しいという人、朝夕の勤行と聞いて尻ごみする人など、入信できない人も大勢います。

 そのようななかで、人生を真摯(しんし)に考え、先祖からの宗教を改めて日蓮正宗に帰依することは実に勇気のいることであり、至難の業なのです。それにも(こだわ)らず、日蓮正宗の信徒は、現在、日本国内のみならず全世界に広く活躍しています。

 さまざまな障害のなかで、このように発展したのは、正宗僧俗の折伏弘教の努力によることはいうまでもありませんが、何よりも日蓮正宗の仏法が正統であり、御本尊に偉大な功徳が厳然とましますからにほかなりせん。

 そんなにすごい教えならなぜもっと広まらないのかと疑問に思う方もいるでしょう。

 しかし、日蓮大聖人の仏法に大利益があるからといって、一年や二年で願いごとがすべて叶うというわけにはいきません。

 なぜなら私たちには過去世からの種々の宿業があり、花も時がこなければ咲かないように、信仰の功徳が開花する時期は人によって異なるのです。

 また賢明な親は子供の欲しがる物を言いなりに買い与えないと同じように、目先の願望を叶えるだけが仏様の慈悲ではありません。いかなる時でも、正法を堅持し生命力を発揮して人生を悠々と歩む人間に転換されていくところに正法の真実の利益があるのです。したがって信仰の利益は、他人の目から見て容易に判断できるものではありません。

  しかし信仰によって御本尊の功徳を実感し、体験した人々の歓びと確信が、現在多くの人々を正法に導き、真実の幸福への人生を歩ませているのです。難信難解の正法を語り、その功徳の素晴らしさを伝えていくためには、着実な努力と時間の積み重ねが必要なことはいうまでもありません。

 他人がどうあろうと、周囲にどう評価されようと、正しい道を知ったならば、確信をもって自ら邁進する人こそ、真に勇気ある人であり、聡明な人なのです。 

 

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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