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   最後臨終に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。  
     
   臨終正念について
 
   本日は、臨終正念と言う事についてお話し申し上げます。新来者の方もおいでになっているという事ですので、なるべく御講では教学的な御法門の話は避けて、誰もが関心を持ち、疑問に思っていることや悩んでいることをお話ししたいと思います。

 但し、現在は木曜日の夜、金曜日の昼、土曜日の朝と勉強会を行っております。御法門のことも少しでも分かっていけば、信心も深まり確信が持てるようになると思うのです。
 私自身も浅学の身でありますので、共に学んで行きましょうという姿勢で行っていますので、どうぞ気楽にいらして下さい。


 【臨終正念とは】
 「臨終」とは命終わりの時に臨むことで、生命の終わるときをいいます。

 「正念」とは正法を心に思うことです。念とは、常に心にとどめて忘れないことをいいます。

 すなわち、「臨終正念」とは、命終わるときに臨んで、迷いの心を捨てて、安らかな心を得ることをいいます。

 仏法では、すべての事象は「生死の二法」または「生滅の二法」に括られると説きます。すなわち、この世に表れたあらゆる事象は、永遠にその事象が存在していくのではなく、常に変化し消滅の方向へ向かっているのです。また、消滅した事象は時間の経過を経てまた世に表れてくるのです。簡単にいえば、生まれたら死に、死んだら生まれるということです。

 このように「生死の二法」は普遍の法則です。ゆえに、私たちも生まれた以上死ななければなりません。それを、自分だけは永遠に生きることができるのではないかと錯覚して、生きることばかりを考えて行動をするから、貴重な人生を誤ったり、また、死のなんであるかを知らないために、死の苦しみを味わなければならないのです。もちろん、今生の人生は一度しかありません。しかし、「生死の二法」から見てみますと、死は次に生まれてくる生のはじまりです。ゆえに、今生の生しか考えないのは誤りです。

 このような意味から、臨終は人生の最後の締めくくりとして、また、次の生を迎える大切な一瞬といえます。

 例え今生が不幸な一生であったとしても、臨終を心安らかに迎えることができれば、次の生はおおいに期待できるのではないでしょうか。

 日蓮大聖人は、

 『人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし』(妙法尼御前御返事1482)

と、仰せられています。

 私たちの吐く息は、すぐ、吸う息に変わってしまいます。いつまでも吐き続けたり、吸い続けることはできません。吐く息も吸う息も瞬時の存在でしかないように、人の命は無常です。そして、草の葉についた小さな露は風が吹けば落ちてしまうように、はかないものです。賢人も愚人も、そして老若男女を問わず、死は必ず訪れてくるのです。故に、臨終のことを真剣に考えて、それから生きることを考えなさいと、説かれるのです。

 

 多年(たねん)の臨終と刹那(せつな)の臨終】

 さて、臨終には「多年の臨終」と「刹那の臨終」の二種類があります。

 「多年の臨終」とは、今日という日は一日しかない、臨終はただ今なりと思って、常に心がけて行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、すなわち寝ても起きても歩いても座っても、常に南無妙法蓮華経とお題目を唱えるという事であります。

 人は年功序列で順番に亡くなるわけではありません。世の中は自分の思う通りにはいかないのです。

 誰がいつ、どこで死ぬか分からないのです。自分が死ぬときが分からない、けれどもそのわからないところがいいのでありまして、何年何月何日に死ぬという事が分かっていたら、誰でも五年十年と信心をしないと思います。

 死ぬ日が分かっていれば、それまでに身辺整理をして、葬儀の準備を整え、お題目を唱え臨終を迎えればいいのです。

 しかし、いつどこで死ぬのか分からないから、いつどこで死んでもいいように信心を重ねて行くのです。臨終の一念には、長年にわたっての信心修行を積み重ねたその功徳がそこに現れてくるのであります。ですから立派な臨終をする為には、常日頃、信心を怠らないように、しっかりと功徳善根を積んでおかなければなりません。

 「刹那の臨終」とは、先程から申し上げている命の終わるときのことです。

 「刹那の臨終」の方が大切なのですが、「刹那の臨終」は「多年の臨終」の積み重ねであることを知らなくてはなりません。

 人間は誰しも、生きている間は好きなことをやって人生を謳歌(おうか)し、死ぬときはポックリと眠るように死にたいと思っています。しかし、現実にはそうではないようです。

 それは、毎日毎日、知らず知らずのうちに積み重ねてきた悪業の(むく)いが、臨終の一瞬に現れるからです。言い替えれば、常日頃の善業が、たくさん蓄積されていないと、眠るように死ぬことはできないのです。

 また、臨終に受ける報いは、その人の一番強い性格や癖を本にして一生を送りますと、その報いが臨終の一念として現れ、その一念が来世を決めてしまうのです。

 すなわち、臨終の心の乱れが、悪い果報を招く原因を造ってしまうのです。ゆえに、臨終においては心の安息、すなわち、正念であることが肝要なのです。


 日寛上人(にちかんしょうにん)臨終用心抄(りんじゅうようじんしょう)

 臨終の際には、譬えようのない凄い苦しみが伴います。私達は過去世から何回も生まれ変わって来て、やっと今日大聖人様の仏法、三大秘法の大御本尊様にお会い出来たのでありますが、謗法を犯したために前世のことは忘れてしまっているのであります。

 誰か覚えている人がいて「この前死んだときはこんなに苦しかった…」とその状態を話してくれる人があれば、都合がいいのですが、そうなると黙っていても、皆さん一生懸命に信心をするようになるんですが、結局は仏様に教えて頂くしかないのです。

 日寛上人は、臨終に心が乱れ、苦しむ原因として、三つあげられております。(臨終用心抄 富要3巻)

一、断末魔(だんまつま)の苦しみに心が乱れる

二、魔のために心が乱れる

三、執着のために心が乱れる

の三つです。

 第一の断末魔の苦しみとは、死の瞬間に受ける身体の激痛をいいます。仏法では、人間の体は五大、すなわち、地・水・火・風・空の五つの要素から造られていると説きます。

 丁度、私たちが住んでいる家が柱や床や壁や屋根等の部分から造られているのと同じです。家が崩壊するとき、屋根が落ち、壁は崩れ、柱や床などの各部分が、ばらばらになります。

 人間の死も同じようなものです。骨から肉が離れ、筋が切れていくときに想像もできないような苦痛が走ります。これを断末魔の苦しみというのです。その苦しみに依って心が乱れるのです。ゆえに、臨終に心の安定が得られないのです。

 『正法念経』というお経には、しっかり信心していればこのような苦痛は無いと説かれております。

 第二の魔のために心が乱れることについて、次のような喩え話を引用しています。

 『ある山寺の僧が山を降りて世俗の生活をすることになり妻帯しました。この僧は年をとって病気したのですが、幸い、妻の看病で回復しました。病気が治りますと、心が落ち着き、臨終の近いことを悟りました。そこで、端座合唱(たんざがっしょう)して仏の名を唱えて成仏を願ったのですが、妻はそれを見て、「私をおいて何処に行くのか、別れるのはいやだ」といって、僧の首に抱きつきました。僧は心やすらかに死なせてくれというのですが、妻は別れるのはいやだといって、首にしがみついて僧を倒してしまいました。そして、僧はそのまま死んでしまったのです』

と説かれています。

 この僧は心安らかに死ぬことができたのでしょうか。妻の行動によって心を乱し、臨終正念がかなわなかったことは当然です。このような形で、臨終正念が妨げられる(はたら)きを、魔というのです。

 魔というのはご存知の通り、その根本は第六天の魔王です。私達の幸せや、成仏する道を妨げる働きをします。

 本人の一番弱い部分を狙って来ますので、妻子眷属に入り込む場合もあれば、阿弥陀や観音に化身して、「霊山浄土へいらっしゃい」と手を差し延べてきます。
 経文には「臨終の時
()し諸仏来たりて種々その善相あるとも随喜を生ずべからず」
とあります。

 我々は大御本尊様のみ思い浮かべて南無妙法蓮華経と唱える、これが成仏の絶対条件であります。

 第三に執着のゆえに心が乱れることは、次のような喩えを以て教えられています。

 『ある在家の主人が、一生の間、五戒を持って清廉潔白(せいれんけっぱく)に生きたのですが、妻を残して死ぬのがかわいそうに思い、妻を思って死んでしまったら、奥さんの鼻の中に虫となって生まれ替わったというのです。』

と説かれています。

 また、

 『臨終の時、花に執着した人は蝶に生まれ、鳥に執着した人は畜生に生まれる。』

とも説かれています。
 これらの説話は、臨終に執着の心があれば、心が散乱して正念を得られないことを教えています。

 さて、どうすれば心の散乱を防ぐことができるのでしょうか。

 日寛上人は、

 第一の断末魔による心の乱れを防ぐには、普段から臨終には断末魔の苦痛があることを覚悟し、他人を(そし)らず、傷つけず、つとめて善業を積み、さらに、御本尊と自分は一体であると思って、信心に励むことが大切であると説かれています。

 第二の魔による心の乱れを防ぐには、普段から法華経の信心修行には魔が現れることを覚悟しておくことが大切です。臨終にあたっては、喜びや恐れの心を無くして、ただ南無妙法蓮華経と唱えることが肝心です、と説かれています。

 第三の執着による心の乱れを防ぐには、妻子や財宝は執着するに値しないもの、と考えることが、執着心をなくすことになると、説かれています。

 しかし、「言うは(やす)く行うは(がた)し」です。人は臨終にあたって、死の恐怖におののき、持っていくことのできないはずの、財産や名誉に執着し、残される妻子等は離別を悲しんで行かせまいとして、体にしがみつき、心を乱すのです。いくら、心を安定させようとしても、思い通りにならないのが現実のようです。

 それでも、臨終には心を乱さないようにし、また、乱すような原因を作らないようにしなければなりません。

日蓮大聖人は、

 強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。(生死一大事血脈抄515)

と説かれています。

 心の安定、すなわち、正念とは、臨終の瞬間まで南無妙法蓮華経を忘れず、心に念じ続けることなのです。

 日蓮大聖人の御信徒に、妙法尼という方がおりました。御主人が熱心な念仏の信徒でしたので、臨終の時が大変心配です。そこで大聖人様に、

 「このような主人でも、南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になるのでしょうか(趣意)」(六難九易抄1243)

と、尋ねられました。

 大聖人様は、

 「このお題目は、たとえ、その深い意味が理解できなくても、大きな功徳を得ることができるのです。(趣意)」(六難九易抄1244)

と諭されたのです。

 果たして、御主人は臨終の時、

 「妙法蓮華経を夜昼唱えまいらせ、すでにちかくなりて二声高声(ふたこえこうしょう)にとなえ」(妙法尼御前御返事1482)

ることができたのです。

 このことを聞かれた大聖人様は、

 「故聖霊(せいれい)、最後臨終に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ」(妙法尼御前御返事1483)

と仰せられて、御主人の成仏は間違いないことを証明されたのです。

 私たちも同じことです。身は不淨にして、今生に多くの悪業を積んだことと思います。このまま臨終を迎えますと、果たして臨終正念の安息の心が得られるのかと不安です。しかし、大聖人様が仰せのように、臨終の時、南無妙法蓮華経と唱えることができれば、臨終正念が得られるのです。

 南無妙法蓮華経の唱題が、今世の死を締めくくり、来世の生を決めるのです。ゆえに、

「臨終の事を習うて後他事を習うべし」

と仰せられたのです。

 しかし、臨終の時の題目は、普段から唱えていませんと決して唱えることはできません。自分だけは大丈夫だと考えている人がいるかもしれませんが、そのような人に限って、臨終の断末魔の苦痛に題目を忘れ、財産や名誉を持って三途の河を渡ろうとして題目を忘れ、妻子に執着して題目を忘れてしまうのです。

 ゆえに、普段から題目を唱え、臨終には素直にお題目が心に浮かび、口に唱えられるようにしておかなければならないのです。

日寛上人は、

 「臨終の一念は多年の行功(ぎょうこう)()ると申して不断の意懸(こころがけ)けによるなり」(用心抄3ー259)

と説かれて、日ごろの唱題行が、臨終の一念に現れることを示されています。

 そして、日蓮大聖人は、

 「臨終只今にありと解りて、南無妙法蓮華経と唱ふる人を、諸仏が手を差し伸べて悪道から救うのである(趣意)」(生死一大事血脈抄513)

と説かれて、常に臨終は今であると心に決めて、真剣に南無妙法蓮華経と唱題する事が大切であると、教えられています。

 昼間を充実して過ごせば、夜はぐっすり寝ることができ、次の朝は気持ちよく目覚めることができるのです。それと同じで「臨終」を「正念」で迎えることができれば、今生の人生は歓喜のうちに、死の幕を閉じ、安穏(あんのん)のもとに、次の生の幕が開かれるのです。

 「臨終正念」、忘れてはならない教えです。


 【成仏の鍵は正直にあり】

 最後にもう少しだけお話しいたします。「正直」であれという事です。正直と言う事を絶対に忘れてはいけません。

 仏の戒めのどこを開いても必ず入っているのが妄語(もうご)(ウソ)です。

 最近、学会員と話す機会が何回かありましたが、御書の拝し方・信仰の姿勢・考え方全てが不正直であり、洗脳されています。

 一般の会員は、一人一人は人がいいだけに残念でなりません。学会でメシを食べている職業幹部は、信仰心を失おうと、学会はおかしいと腹の中で思っていようと学会員を続けていけます。センセーセンセーと連呼し、純真な会員を洗脳していけば、生活は保障されるからです。

 そういう正直な気持ちを失ってしまうと、仮に正しい道からはずれた場合、自分はどうなってもいいと考えます。 

 ですから「センセーが地獄へもし行くのなら私も行きます」と平気で言えるのです。

 釈尊は法華経で「正直に方便を捨てて(ただ)無上の道を説く」と方便品に説かれています。「無上道(むじょうどう)」とはこの上ない道、それより道がない最高の道ということです。

 大聖人様は『当体義抄』の中で、

 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。」(六九三頁)と仰せです。 

 誠に深い内容でありますが、肝心はただ正直に方便を捨ててお題目を唱えるということなのです。そうすれば、寿量品の当体蓮華仏の功徳がそのまま我々に頂けるのです。だから我々の命がそのまま仏として顕われるのです。

 世間においても同じです。正直に生きてきた者が結局勝つのです。三世において勝っていくことになります。今世においてでは、謗法の思考があるから正直な人が負けるようなことが一面あるように見えますが、それでも正直の人は臨終の一念の時安らかなはずです。  

 それに対して、あらゆる悪いことをして成功したように見えても、卑怯(ひきょう)に悪い生き方をしてきた者は、死ぬときは必ず地獄なのです。そこから先、生まれてくる時には地獄の果報が深く付いてくるのです。

 私達は、弱い人間ですから、間違いもあれば、過ちを犯す場合もあります。悪い気持ちだって生じてきます。それらの過ちを素直に正直に認め、対処することが一番大切なのです。

 我々法華講員は、過去遠々より深く繋がった同心の行者です。お互いに励まし合いながら、真の広宣流布を目指して、新たな御命題達成に向けて頑張って参りましょう。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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