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   【功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり
功徳について

 
     
 

 本日は功徳について少々お話しをさせて頂きます。
 皆様も、信仰をする中でよく耳にし、語られる言葉だと思います。

 【功徳と利益】
 一般的な信仰の概念ですと、功徳より御利益という言葉が主に使われます。 
 浅草寺で線香の煙を頭にかけたり、とげ抜き地藏をさすったりする光景はよくテレビで放送されますが、神仏のお恵みによって、自分の願い事が叶う、ピンチを脱することが出来るというような、半信半疑ながらも、叶えばもうけものというニュアンスが強く、宝くじ的要素が強いと思います。

 功徳とは、「積功塁徳(しゃっくるいとく)」「功能福徳(くのうふくとく)」の意で、仏道修行という善因を修し、善根を積むことによって得る福徳のことをいいます。すなわち、利益が他から与えられるものに対し、自ら積むことを功徳と称しますが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は功徳も利益も同一です。

 ですから、単に金が儲かった・出世した等の事は大げさに「功徳、功徳」とは言いません。あくまでも善行をして、自身の生命(心)に積んで行くものなのです。

「功徳」について大聖人は、

「釈尊の因行果徳の二法、三世十方の諸仏の修因感化、法華経の文々句々の功徳を取り(あつ)めて此の南無妙法蓮華経と成し玉へり」(御講聞書 新編一八五九)

と仰せられ、妙法蓮華経には無量の福徳がそなわっていることを示されています。

 さらに、そのはかり知れない功徳も、

「功徳とは六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)の果報なり。所詮(しょせん)(いま)日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳有るなり。功も幸と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏(そくしんじょうぶつ)なり、又六根清浄(ろっこんしょうじょう)なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得(こころう)べきなり云云」(『御義口伝』新編1775頁)

と仰せられているように、功徳とは「即身成仏」「六根清浄」の境界を得ることによって、悪を滅し、善を生ずることに極まると教示されています。

六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは】

 仏法では、衆生の苦悩の原因を迷いの生命の根源である煩悩から引き起こされるものと解明しています。その衆生の迷いの生命を浄化し、悪い性を断ち切るという果報が、まさに「六根清浄」の功徳なのです。

この六根が煩悩に覆われていると、外界の事象を正しく認識できないばかりか、それにともなう行動も誤ったものとなり、苦しみの原因を作ることになるのです。

 日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱える人は、六根清浄という功徳が得られると仰せられ、六根が清浄になる事が即身成仏であると仰せです。

 不思議なことですが、御本尊を信じて、南無妙法蓮華経の唱題行に励めば、自然と六根清浄という功徳が得られるのです。

たとえば目が不自由であったとしても、妙法受持の功徳によって、肉眼以上の慧眼・法眼・仏眼を得ることができるのであり、このような功徳は他の五根にも通じていえることなのです。

 清浄とは、煩惱(ぼんのう)の汚れがなく、清らかなことを言います。仏法では心の本性は本来清らかなものであると説きますが、六根がその対象に対する執着を断って、清らかな状態になることを六根清浄と言います。

六根の六とは、眼・耳・鼻・舌・身・意のことです。

六根の「根」は能力を意味し、更にその能力を有する器官のことを言います。

第一が眼、これを「眼根」と言い、視覚能力、もしくは視覚器官のことです。

第二が耳、これを「耳根」と言い、聴覚能力とその器官を言います。

第三が鼻、これを「鼻根」と言い、嗅覚能力とその器官を言います。

第四が舌、これを「舌根」と言い、味覚能力とその器官を言います。

第五が身、これを「身根」と言い、触覚についての能力ないし器官を言います。

第六が意、これを「意根」と言い、前の五根が感覚能力であるのに対し、知覚能力または知覚器官を言います。

 これらの眼・耳・鼻・舌・身・意が曇りや汚れが無く、清浄であることが六根清浄であり、即身成仏というのです。

 これらの六根は、外界の事象を体内に受け入れる窓口でありますから、もし曇っていたならば正しい映像や、思想を受け入れることができません。逆に六根が曇り無く清浄であれば、正しく外界の事柄を認識し、思考することができるのです。そこから、正しい考えや行動が生まれるからです。

 この六つの器官には、それに対応する六種の対象があり、それぞれの器官を通して入ってきます。六根の対象を六境と言います。

 六境とは、

第一が眼に対する(しき)。ものの色や形を色と言います。

第二が耳に対する(しょう)。これは種々の音のことです。

第三が鼻に対する(こう)。香とは臭いのことです。

第四が舌に対する()。味とは食べ物の味のことです。

第五が身に対する(そく)。触とは肌に触れるものです。

第六が意に対する(ほう)。観念的な物事や抽象的なものを言います。意は前の五根が受け入れた感覚を知覚する器官です。

 このように、六根は六境を対象として、六種の認識作用を生じます。これを六識と言います。

 六識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の認識作用です。

「識」は分別や判断などの認識作用のことで、または、それを行う認識主体としての心を言います。

 例えば、物体を見て、その色合いや形状を認識するのが、眼識であり、触ってみて硬軟を認識するのが身識です。もし、六根が汚れていますと、色合いや形状を正確に認識することができません。正しい認識をするための基本が六根なのです。六根が清浄であれば六識が六境を正しく認識することができるのです。故に、六根は六識の拠り所といわれるのです。

 もう少し具体的に言えば、泣いている人を見た場合、その人の境涯によって「うるさい」とか「不細工な顔して泣いてるな~」と思うのか、「可哀想に」とか「話を聞いてあげよう」と思うのかは千差万別だと思いますが、仏の意に適った行動がとれるのです。

 

 法華経の法師功徳品に六根清浄を説かれています。内容を要約して述べますと、

①眼根の功徳=衆生の一人一人が造る宿業と、その報いとして生まれる場所をすべて見、知ることができます。眼根が清浄になれば、すべての現象が明らかに見え、物事の原因結果を正確に知ることができるのです。

②耳根の功徳=耳根が清浄になれば、人々の意見や自然界の叫びがよく聞けるようになるのです。

③鼻根の功徳=鼻根が清浄になれば、物事の善悪を知り、人のために真実を説くことができるということなのです。

④舌根の功徳=舌根が清浄になれば、どのような食べ物もおいしく食べられ、声をだして話をすれば、すべての人を楽しくさせることができるのです。

⑤身根の功徳=身根が清浄になれば、仏や菩薩のような穏やかで、清らかな容姿になるのです。

⑥意根の功徳=意根が清浄になれば、眼や耳から得た情報を正しく受けることができ、法に則った正しい判断ができるのです。

以上が法師功徳品に説かれている六根の功徳の数々であります。

 私達の目や耳という六根を通して物事を正しく観察し、正しい認識が出きることを六根清浄というのです。

 

【即身成仏とは】

 即身成仏とは、煩悩に覆われた凡夫の身のままで仏になることをいい、自己の生命の奥底にそなわる仏性を開き、安心立命の境界となる最極の功徳をいいます。

 この即身成仏は、小乗教で説くような煩悩をすべて消し去ることでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るということで、これは日蓮大聖人の仏法を信仰することによってのみ可能となるのです。

 釈尊は法華経において、永い期間にわたって煩悩を一つひとつ断じながら成仏に向かうという、歴劫修行をせずに成仏できることを明かされました。

 さらに大聖人は、機根も低く三毒強盛の荒凡夫である末法の衆生に対し、法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法の御本尊を受持信行するところに、煩悩を持ったまま、即身に成仏できる法門を説き示されました。

 すなわち、

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(当体義抄 新編六九四頁)

と仰せられ、大聖人の仏法を信受し、題目を唱える功徳によって、自身の煩悩・業・苦の三道が、清浄にして不動の心(法身)となり、深い智慧と慈愛に満ちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きをもたらすことになると示されたのです。

 すなわち、正しい御本尊を信じ唱題に励むとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり(煩悩(ぼんのう)(そく)菩提(ぼだい))、苦悩の人生を克服できる力強い生命へと転換(生死(しょうじ)(そく)涅槃(ねはん))されていくのです。さらにこの即身成仏の境界は、大聖人が、

「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(上野殿御家尼御返事 新編三三六頁)

と仰せられているように、その徳は今世だけにかぎらず、未来永劫にまで及んでいくのです。

 また、これらの功徳の実証は、ひいては父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、さらに未来の子孫に福徳をもたらすことにもなるのです。

 このように、御本仏大聖人の大慈大悲による仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって三世にわたる福徳がそなわり、清浄にして自在な仏の境界を実生活のなかに現していくことができるのです。

 即ち、何ものにも脅かされない安心立命の境界の確立と、生命の浄化、そして物心両面に亘って福徳に満ちた人生を築くことが、妙法信仰の功徳というように説かれています。

 

【真の功徳とは】

 一般世間では、自分は何の努力も精進もなく、単に拝めば神仏から与えて頂けるものと捉えていますが、真の功徳とは、単に「願いを叶える」との安易な自身の我見や我欲に侵された願望を叶えるのではなく、御本仏の御仏智を以て、その人にとっての最善の果を生じるのです。

 一時は、自身の望みや目標とは懸け離れた結果が生じたとしても、時間の経過と共にそれら周囲の環境や状況の変化を以て、その時の果が自身の為となる本当の善たる果であった事を思い知らされる事が多々在ります。

 凡夫たる私達が表面的に欲する願望と、御本仏の御仏智に照らした果の決定的な違いをまざまざと見せ付けられることとなるのです。

 例えば、貧苦の状況下にあって、宝くじを買い御本尊に供えて、幾ら唱題を熱心にしたところで当るはずもありません。そんな安易な発想で、過去世からの因縁を滅しようとしても、所詮浅はかな行為に止まります。もし、万一当りその時の貧苦は回避できたとしても、永遠に続くものではありません。よく世間でも、宝くじや馬券が大当たりした事で、人生の歯車を狂わせてしまう方も多くいます。所詮、泡銭なのです。単なる目先の欲求にしか過ぎません。

 因縁果報を軸として全てを見た時、愚痴や不平不満、憎悪や貪欲などの三毒の悪因が徐々に緩和されていく事に気付きます。自身の宿業を真摯に受け止め、安穏な心で対峙し、勇猛果敢な力強い精神を以て臨み、苦難や困難を打破していく様そのものが仏道修行であります。

 仏道修行に励み切磋琢磨しながら善根を積み重ね、襲ってくる苦難や困難の因であるところの過去世からの宿業を滅し、今世でその命の奥底に溜まった「膿」を出し切る覚悟を持って、怯むことなく精進するのです。来世へ繋がる因をより良きものにする為に、「現世安穏後生善処」を心深く保ちながら、日々の生活(信仰・実生活)に臨むことが大事と説きます。

 信仰が為の信仰になっていけないとよく言われます。御本尊を拝している時だけが信仰ではなく、むしろ実生活における言動行動にこそ、その人の信心の本質があるということです。

 大聖人は、『御宮使いも法華経と思し召せ』と、ご指南されています。「御宮使い」所謂、仕事や世間との人間関係全てにおいて法華経の命は厳然としてあり、それを深く認識して保ちながら、瞬間瞬間を大切に生きていくことが最も大事であると説かれています。


【広布前進の年にあたり】

 我々にとって、過去から現在に至るまでの謗法罪障消滅し、福徳を積む最善の方法は、折伏することにあるということは、皆様もよくご存知だと思います。

 また、私達人間は個の存在ではありません。多数の中の一員としてのみ生まれ、生き、そして死んでいく存在であります。もっと正確に言えば、多数の人間の中の一員としてのみ生まれることができ、一員としてのみその一生を全うすることができ、しかもその生存を全うするためには途方もない生命の供養、他人の恩恵等、有形無形の慈悲の上に自分の一生があることを知らなければなりません。

 よって自己の生存を全うならしめてくれたもの総てに報恩感謝の心を持つ人が真実の大聖人様の弟子と言えるのではないでしょうか。

 報恩感謝の気持ちがあるならば、祈り、この法を少しでも説いていく事が恩に報いる方途なのです。

 朝晩、折伏の意識を常に持って御祈念していれば、自然と折伏すべき方を御本尊様が教えて下さいます。それにお答えすればいいのです。

 皆さんが大聖人様の仰せのままに実践され、福徳に満ちた境涯になれますよう、願うものであります。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  

 
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