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   よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ  
   大聖人様の教えに叶った生き方
 
   
 さて、本日は『大聖人様の教えに叶った生き方』と題して少々お話しをさせていただきます。

 我々が信仰をする目的は、一人ひとりの人間の生命の救済、つまり、生・老・病・死や、愛する人との別れ、嫌いな人との出会い、欲しい物が手に入らない、煩悩に振り回されるなどの四苦八苦をいかに乗り越えるかという事に尽きます。

 日蓮正宗の信仰とは、経済的な苦しみや対人関係の悩みなどを含む、人のいかなる苦悩にも打ち勝つ活力を与え、すべての人々に真実の幸福を築かせ、尊い人生を全うするための生き方を教えるところにあります。

 したがって、正しい宗教の持つ働きは、単なる精神修養や気安めではないのです。
 日蓮正宗の信仰は、何よりも人間の全生命の問題と、その生き方、人の幸・不幸にかかわる、実に重大な意義と働きと大きな価値を持っているのだということを、まず知ってください。

 人の生きていく一生の中には、それはもう様々な模様があります。千人いれば千通りの人生があり、例え、同じ親から生まれてきた兄弟であっても違います。人生山あり谷ありとも云われるように、良いことばかりではなく、むしろ悪いこと、苦しいことの方が多いのが実状だと思います。ですから大聖人様も悩み多き我々の人生に対する心構えとして『聖人御難事』に、

 「よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」(新編御書一三九八)

と御指南されています。

 この苦しみというものは人間においていつの時代でも、またどんな人間にも共通する悩みです。

 そもそもお釈迦様の出家の動機も、この人々の持つ様々な苦しみの形を見るにつけ、これはどうしてだろうか、またどうすれば解決できるのだろうか、また真の幸福とは何だろうか、との疑問から、出家しようと志されたのです。そしてこられについて答えを出して、その悩み苦しむ人々を救済する教えが仏法なのです。

 そして、修行された仏様は過去・現在・未来の時間の一切と、自己とその他一切の世界・宇宙法界の全てを悟られるのです。では、仏様は、一体どのような回答を出されたのでしょうか。
 (1)、人が苦しむのは、それは、過去からの悪い因縁による結果であり、その原因をたどっていくと、そこには必ず
(ごう)煩惱(ぼんのう)というものがあるということ。これは、身から出たサビとも言えますが、過去に於て悪い行いをしたという事と、そしてそれが自分の命の奧にそのまま蓄積されて残っているという事。これが業という事です。また煩惱という事は、その悪い行いをする元の原因となるもので代表的なものを挙げれば、むさぼる心や 、(いか)る心、おろかな心、更にもっと究極的には仏様を信じない心、また自分が仏になれるという事を信じない心が命の底にありこれが一切の災いの元となっているのです。これが煩惱です。
 (2)、次に、この苦しみの原因である煩惱と業をどうやって除いていくかという問題になるのですが、仏様 はそれ を直ちに説くことはせず、その
順序(じゅんじょ)次第(しだい)を考えて、次に迷いの因果(いんが)に悟りの結果を示されます。つまり成仏するとこういう姿になるんですよ。との事です。

 (3)、そして最後に、その成仏の道を示される。つまり成仏するためにはこういう風にしなきゃダメですよ 、という事を仰せになるわけです。

 私達は、よく成仏成仏と言いますが、それは一体どういうことなのでしょうか。成仏という字は仏に成ると書くように仏様と同じようになる事を云います。つまり、大聖人様と同じようになると云う事です。これを私達は最高の幸福として求め、信心修行に励んでいることを忘れてはならないと思います。そこで、それはどういうことなのかということをよく知るべきです。

  そもそも考えてみてください。御本仏大聖人様の御一生は、幕府から命を狙われ、民衆からは石を投げられ、島流しにあい、着る物、食べ物、住居に於いても何ら贅沢をされる事は無く、苦難の連続でした。

 御会式の時にも、お花飾りの説明をしましたが、桜の造花と、もちとゆず・みかん・柿からなっています。このようなお飾りに定着したのが江戸時代ともいわれております。これらは、当時でさえ大変貴重な品々で、めったに手に入る物ではなかったのですが、その時々に応じて精一杯の御供養をされていたのです。

 ましてや、大聖人さまの時代では、さらに手に入りにくく、たいへんなご馳走であった事は間違いありません。

 しかし、私達のい求めて止まない御本仏のお姿だという事を、今一度思い起こすべきではないでしょうか。

 つまりそれは、現実のこの迷い、悩み、苦しみと言った汚れた世界を離れたところに私達の真の幸福、即ち成仏があるのではないという事なのです。私達の本当の幸福境涯の確立は、そんな汚れた世界にありながらも困難をものともせずにはねのけていく勇気と自信と実行力を身につけていく力強い生命にこそあると言えます。

 蓮華の(たとえ)にもあるように、汚泥(おでい)にあってそれに感化されず、汚されることなく、きれいな白い花を咲かせること、それが成仏の姿であり、専門的には当躰(とうたい)蓮華(れんげ)と言います。我が身の当体、その身そのままにして命に仏様のような蓮華の花を咲かせるのです。

 では具体的にどのようにすればそうなるのかと云いますと、ただ私達は大聖人様が命がけの御振る舞いをもってその御魂魄(ごこんぱく)をしたためられた御本尊様を信じ、お題目を唱えるという事に尽きる訳です。

 大聖人様は『当体義抄(とうたいぎしょう)』に正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)(ごう)()三道(ほっ)(しん)般若(はんにゃ)解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦(さんてい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は(じょう)寂光土(じゃっこうど)なり。能居・所居・身土・色心・倶体倶(ぐたいぐ)(ゆう)の無作三(むささん)(じん)、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力のはす所の功能なり。()へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。(新編御書六九四)
と仰せであります。つまり、簡単に説明すると、正直な心で南無妙法蓮華経と唱える人は、
①不幸の根源である悪い心(煩惱)がそのまま仏様のような正常な生命(法身)に転ずる。

②悪い行為(業)は正しい判断力を備え、仏様のような智慧(般若)に転ずる。

③苦しみや悩み悲しみは、希望に満ちあふれた自在の境界(解脱)に転ずる。

ということなのです。

 またこの唱題行を厳密に言うならば、身と口と心のこの三つにわたる唱題ということで、また別の言い方をするならば大聖人様が『三大秘法抄』に、

 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。」(新編御書一五九五)

と仰せのように自行と化他にわたるお題目を唱えるということです。

 このうち唱題行が自行だということはすぐに納得されるかと思いますが、では、唱題が化他に当たるというという事は一体どういうことかといいますと、実はここが大聖人さまの仏法の実に尊いところでありまして、身の振る舞いそのものが南無妙法蓮華経だと言う事なのです。

 これでもまだ分かりずらいかもしれないので、少し視点を換えて、五字七字の題目ということについて説明します。

 大聖人様の御書等を拝読していますと、南無妙法蓮華経と示される場合と妙法蓮華経と示される場合とがあるかと思います。妙法蓮華経の五字だけですとそれは口で説き顕わすことのできるものでありまして、これをしたのがインドの釈尊であり、法華経の説法がまさにそれに当たります。これがまた、お釈迦様の限界であります。

 しかしこれを、この妙法蓮華経を身で振る舞いの上に顕わすところに南無妙法蓮華経という意義があるのであります。しかも生半可な振る舞いでは到底妙法蓮華経の意義は顕せないのであり、あくまでも大聖人様は命がけの御振る舞いをもってこれを顕わされたのです。南無とは帰命(きみょう)の意義ですが、ではどこに命を帰すのかというと、それは妙法蓮華経に命を帰す覚悟で命がけの修行をしていくところに、その身も心もまたその振る舞い自体が、南無妙法蓮華経となるのです。

 しかしこれは、世間の荒波に簡単にもまれてしまうような私達だけの力、自分自身の力だけでは、決してできうるものではないのです。そこに御本尊様の仏力法力を授かる為の自行である唱題が必要になってくるのです。

 本年は、『立正安国論』正義顕揚七百五十年の跨節に当たり、七万五千名総会を無事に終えることが出来ました。当日、参加された方々が、ここにもいらっしゃると思います。

 あの大結集総会の数日前から、山口や九州では大きな被害が出る災害がありました。

 本山も前日も雨、当日の予報も決して良くはありませんでしたけれども、総会直前には晴天に恵まれ、富士山まで顔を出して祝ってくれるという、そういう全く諸天に寿がれて、御隠尊日顕上人、御法主日如上人猊下が厳然とましまして、戒壇の大御本尊様のもとに、私たちがそこに参列できたという身の福運を、これほど有難いと感じたことはなかったと思います。

 しかしながら、これはあくまでも大聖人様の法が正しいという証明であり、今後は、みんなが精鋭となって、これを確信としてしっかり精進していきなさいという、諸天の思し召しのひとつの表われでもあると思うのです。

 御法主上人猊下から、平成二十七年の日興上人御生誕七百七十年と、平成三十三年の大聖人様御生誕八百年を目指しての、御指南がありました。

 「折伏こそがみんなが幸せになる道」「折伏こそが社会を幸せにしていく道」と、大聖人様の御意である折伏を、徹底して御指南くださっております。したがって「大会があった」「こういう御指南があった」「支部の登山目標も達成出来たし、五十万人総登山も達成出来た」と、終ったような気持になるのではなくて、この大会の意義、その御指南を、それぞれ皆さん一人ひとりが、しっかりと自分の信心のもととして、一つひとつの戦いを一日一日行じて、一歩一歩進んでいっていただきたいと思います。

 そこをしっかりと捉えて、猊下の御指南に信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)していく時に、私たち自身の真の幸せの道があるし、成仏の道があるということです。

 本年は、大慶事の年でありますから、良くも悪くも結果の出る年なのです。私が去年から申し上げてるように、(ふるい)にかけられる時なのです。

 我見で、目先の欲ばかり追って、御法主上人の御指南を真摯に受け止めようとせず、我関せずで過ごした方と、真剣に受け止めて精進された方では、大きく差が出てしまうのです。

 今年一年を振り返って、「何にも良いことは無かった」と思う方は、その時点で魔に負けています。

 既に、御本尊様に対して不信を抱いている姿なのです。愚癡を言う前に、仏壇に顔を突っ込むような勢いで唱題したのでしょうか?一人でも多くの方に、この正法を伝えたのでしょうか?

思い当たる方は、自分の信仰姿勢を反省し、御本尊様にお詫び申し上げるべきです。

 かつて御隠尊日顕上人猊下は、
 いわゆる崇高な折伏という目的を持った唱題こそ、強い生命力を持って全ての生活の 案件がおのずと開け、調う功徳を生ずるのである。正しい目的感を持った唱題、これこ そ大仏法前進の鍵であり、心の福智二徳、身の荘厳と 健康を限りなく顕現する最高 最上の生活法である。(大日蓮六四七—四〜五)

と仰せです。

 また、日如上人猊下は、
 幸せになるためには、そのための努力をしなければならない。惰性に流され、何もしな くて幸せになったためしはない。そこに、我々の仏道修行がある。
 大御本尊への絶対の確信を持って、無二に信じ奉り、仏様の教えと戒めを忠実に守り、日ごろの修行を怠りなく励んでいくところに、必ず自らの人格の完成と広宣流布への使命を自覚し、誰からも信頼される立派な僧侶(人)になっていくのである。 (大日蓮九月号三十頁)  

と仰せです。

 冒頭に述べましたように、人生は色々あって大変ですが、私はあえて人生色々あって当たり前、それを御本尊様のもとで、猊下の御指南を賜り乗り越えてこそ、本当の幸福も成仏もあると申し上げます。


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