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   【親によき物を与へんと思いて、せめてする事なくば一日に二三度笑みて向へとなり】
 家族・社会生活円満の秘訣 無財の七施

 
     
   本日は一銭もお金を掛けないで家庭を円満にする方法をお話ししたいと思います。
これは聞いてみると何でもない当り前のことだという風に思われるかも分かりませんが、これは仏典の『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』という御経の中に「無財(むざい)の七施(しちせ)」ということが説かれているのであります。
 この七つの宝物はどんな方でも一様に、自分の命の中に持っており、しかもそれは、無尽蔵、尽きることのない宝物なのです。
 その七つの宝物を自分の両親、あるいは奥さんや子供や、また、同志の方々や世間の方々に振舞って上げるならば、それはまたその人の立派な徳となって返り、家庭も、そしてまた、兄弟の間、親戚の間でも、さらに職場や学校でも、必ず和やかな人間関係が切り開かれていくということが説かれているのであります。

 まず、「眼施(げんせ)」眼を施すということであります。
 これは、ただ自分の目を他の目の不自由な方に差上げるというような意味ではなくて、やさしい眼差しというものを人に与える。言うならば、やさしい眼差しをもって、慈悲の眼差しをもって、人に接するということが大切だということを教えておられるのであります。
 これは『法華経』の「普門品(ふもんぼん)」に、
 「一切の功徳を具(ぐ)して、慈眼(じげん)をもって衆生を視る」(開結六三六)
衆生を見る時にはやはり慈悲の眼をもって見る。お母さんが我が子の様子を遠目に見ている姿。その眼というものは、やはり子供に対する愛情の心をもって、子供さんに接しているわけであります。お母さんが赤ちゃんのおしめを換える時に「ああ嫌だ。臭いし、憎たらしい」と思っているお母さんはいないはずであります。
 我が子の成長を願い、言うに言われぬ母親の愛情をもって赤ちゃんに接しているわけであります。そうした眼を自分の夫と言わず子供と言わず、あるいは沙門と言わず師匠と言わず、世の中の人々に捧げていくならば、必ずそれは自分の徳となって返ってくるということを教えているのであります。
 世間でも「目は口ほどにものを言う」と言われますが、悪い眼・疑いの眼・怒りの眼・軽蔑した眼など、眼でも色々な眼があるのであります。
 そうした中で、やはりその人の穏やかな慈悲の眼をもって人に接していくならば、その人の目は、いつの間にか清浄の眼となって、しかも成仏した暁においては、その人は仏眼を具する。仏の眼を、いつとはなしにその人の眼の中に住していくことが出来るということを教えておられるのであります。
 また『法華経』の「化城喩品(けじょうゆほん)」の中にも、
 「願わくは世尊の如く、慧眼第一浄(えげんだいいちじょう)なることを得ん」(開結三四九)
ということを言われております。
 眼でも二乗の智慧の眼もあれば、菩薩の法眼もあれば仏の慈悲の慈眼というものもあるわけであります。
 そうした五眼が、自分の単なる肉眼そのものであっても、仏法を行ずる者は、法の眼も智慧の眼も、仏の眼もその人の目の中に具わってくるということを説かれているのであります。
 そうした眼はもはや、単なる生れたままに持ったところの肉眼ではなくて、やはり磨かれた仏法の功徳と、仏法を行ずる者の慈悲の眼が具わった、つまり五眼の眼に変わっていくということを教えているのであります。

 二番目に申し上げたいことは「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」ということを申しまして、人に対する時に、言うに言われぬやさしい笑顔をもって接するということを、和顔悦色と説かれているのであります。
 常に穏やかな、にこやかな、温かい笑顔でもって、父母や家族、そしてまた、沙門や同志や世の中の人々に接していく。笑顔と言っても作り笑いもあれば、嘲りの笑いもあれば、中傷の笑いもあれば、色々な笑いがあります。その心にトゲのある笑いではなくて、本当に穏やかな笑顔をもって人に接するということが大切であります。
 皆さんが勤行されている「寿量品」の中にも「柔和質直(にゅうわしちじき)」ということが説かれております。やっぱり柔和な人には柔和な笑顔というものがあるわけでありますし、
 『法華経』の「安楽行品(あんらくぎょうほん)」に、
 「微妙の義を以て和顔(わげん)にして為に説け」(開結四五五)
ということを言われております。
 やはり人に法を説く時の顔というものは、怒りに狂った顔で法を説いても人は聞いてくれるわけがありません。相手を蔑(さげす)んで、相手を馬鹿にして、そして法を説いても、相手が聞いてくれるわけがありません。笑顔で接して、温かみのある顔形の上において法を説いて、初めて人は和やかに聞いてくれるわけで、心を開いてくれるわけであります。
 大聖人は『上野殿御消息』という南条時光殿への御手紙の中に、
 「親によき物を与へんと思いて、せめてする事なくば 一日に二三度笑みて向へとなり」(新編九二一)
ということを説かれております。
 心から自分の父親、母親に対して何か差し上げたいと思っても、何もできないとするならば、一日に二度三度、親に自分の笑顔を送ってあげる。笑顔を見せるだけでもそれが親の孝養につながっているのだということを言われております。
 もし仏前に、何も供える物がないとするならば、自分のにこやかな笑顔を仏前に供えるだけでも、それが功徳となるということをおっしゃっているのであります。
 そうしたことは自分の家庭の中にあっても、職場の中にあっても、いかなる場所においても、そうしたにこやかな笑顔を皆に注いであげる。そうした笑顔をもって人に接するならば、必ずその場は、その所その所において、和やかな雰囲気に変わっていくはずであります。  
 ましてや、人に法を説く、折伏を行ずる、その時の自分の顔、振舞いというものは、そうした穏やかな笑顔に包まれているということが大切なのであります。
 こういう人は未来において、必ず端正な容姿の持主になるということを説かれております。自分の一生を通して人を怨(うら)み、あるいは猜疑心(さいぎしん)の固まりみたいになって過ごす人の一生の未来というものは、おのずと悲惨なものになっていくのです。
 ところがやはり、慈悲の眼を持ち、穏やかな笑顔をもって人に接する。家族に接する。そうした生涯を生きた人の容姿は、必ずその姿形がまた、次の生にも関わって来るのです。ですから、釈尊は和顔悦色(わげんえつじき)の大切さを説かれているのであります。

 三番目に説かれていることは「言辞施(げんじせ)」と申しまして、言葉の布施ということであります。言葉をもって人に布施をする。どういう言葉かと言うと、やはりやさしい言葉です。ぞんざいな言葉であったり、無礼な言葉であったり、それからまた、言葉には綺語(きご)と申しまして、あんまり作ってしまった言葉、あるいはは両舌と申しまして、こっちで好いことを言い、またあっちで好いことを言う二枚舌で、いわゆるお世辞を言いまくるというようなことでも、これまたいけないわけです。
 お世辞は、自己保身のためにへり下って用いますので、言われた本人はまんざらでなくとも、周りで見ている人間からすると、評価を下げてしまいます。
 もっと悪いのは、妄語(もうご)と言いまして嘘(うそ)のことです。あっちで嘘をつき、それを誤魔化すためにまた嘘をつくというように、嘘に嘘の上塗りをするということであってはいけません。
 それからまた、悪口。そこらじゅうに人の悪口を言いまくる、吹聴して回る。これはとんでもない一つの悪業を重ねることにもなります。
 よく外で、女房や亭主のことを卑下してけなす人がいますが、そう言っている当人がダメ人間であるかのように思われたり、口の軽い人だと警戒されてしまいます。
 また、子供のしかり方で多いのが、走り回っている子供が転んで泣きそうになっているとき「だからここで走るなっていったでしょ!」と仁王立ちでキーキー言うお母さんです。これはよく目にする日常的な光景です。
 しかし、転んだ子にしてみれば、ただでさえ痛くて泣きそうなのに、さらに追い打ちをかけられたことになります。そういう時は、抱き起こして「大丈夫?痛くなかった。こうやって痛い目にあうのが心配で注意しているのだから、これからはちゃんと聞いてね。」と言えば通じるはずです。これは、子供が大きくなって何かに失敗したときも必要な言い方です。
 『法華経』の「法師品」の中に、
 「もし人一の悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰(きし)せん。其の罪甚(はなは)だ重し」(開結三八六)
ということが説かれております。お互いに正しい信仰を持った人間の中にあって、同志の中にあって、人の悪口や人の誹謗、中傷等々を吹聴して回るということは本当に恐ろしい大きな謗法を重ねることになるということを考えて頂きたいと思います。
 ひるがえって、『法華経』の「方便品」には、
 「言辞柔軟(げんじにゅうなん)にして、衆の心を悦可(えっか)せしむ」(開結一五四)
 「言辞柔軟・悦可衆心」ということが説かれております。やはり、自分の発する言葉は、柔軟な言葉をして衆生の心を悦ばしめるということが大切だと説かれております。
 有名な『十字御書(むしもちごしょ)』の中にも、「わざわいは口より出て身をやぶる」ということを言われております。
 ですから、やはり好い加減な言葉、あるいは人に言ってはいけないことを言う。また、人の悪口だとか人の噂だとか常にそういうことをもって、週間誌のようなスキャンダラスなことを常に吹聴して回るということは、如何にいけないことであるかということを考えて頂きたいと思います。
 言葉の上におけるやさしさ、愛情というものもまた、大切なことであります。しかし、こういう話を聞いたからといって、途端に今日、家へ帰って、やさしい言葉や、丁寧な言葉で物を言い出しますと、急に家族はびっくりしてしまって、今日お寺へ行って、みんな気が狂ってしまったのではないかと心配するかも分りません。
 しかし、それも皆さんが一週間なら一週間、それを励行してみてください。そうするとやはり、ああなるほど、あの人は段々と眼差しも変わってきた、言うことも変わってきた、普段の顔も変わってきた、如是相も変わってきたということになりますと、世間の人も家族も、皆さんの信心の値打ちを認めてくれるようになるわけであります。
 そうしたことを心に置いて信心をしていきますと、いつとはなしに六根清浄と申しまして、眼も口も心も、皆、仏のような、つまり自分自身を何等、改めることなく自分の姿形の中において、そうした人格や、その人の品格がそこに具わってくるのであります。
 信心を通して人間を改革、向上せしめる、そうした実証が我が身の上に必ず現れてくることを確信して頂きたいと思うのであります。
 そのためには、言葉使いというものも、やはり、やさしい相手を思いやる言葉が大切なのであります。常にぞんざいな言葉、言葉が悪いという人は、結局、またそれは心もぞんざいになり、言葉がぞんざいで、常に投げやりな言葉を発するという人は、心がそれだけ乱れているということにもなるわけであります。
 そうした言葉使いから気を付けているとその人の心も、その人の命も変わってくるという事をよく皆様方も心の隅に少し置いて考えて頂きたいと思うわけであります。

 第四番目「身施(しんせ)」が、やはり大切だと説かれているのであります。これは、お家の中にあっても、あるいは会社にお勤めになりましても、あるいは目上の方に対して、父母に対して、同志の間で、我が家の中にあって、身をもって接すること、骨惜しみをしないこと、そういう丁重な振舞いをもつことが大切です。
 つまり礼節を良く弁えて、そして何事にも率先して実践をするという、そういうことを心掛けていくことが必要なのだということであります。
 いつも行動が遅く人から言われてようやくやる人と、言われる前に先々気が付いて出来る人と、どんなに言われてもなおかつしない人と、人間には大きく三つのタイプがあるように思うのであります。
 たった一言、「お早うございます」と言うことだって自分の方から呼掛ける人と、言われて仕方なしに返す人と、言われても知らぬ振りをする人とあるわけです。
 挨拶ということは単純なことでありますけれども、しかしそれは、こちらからするということを心掛ける。物事は先手必勝ということがありまして、こちらから声を掛けるということだけでも、その人の信用と言いますか「ああ、あの人は礼儀を弁えた人だ」「あの人は丁寧な人だ」「何事も誠意をもってする人だ」というような評価は、えてしてそういう小さなことの実践から物事は始まるのであります。
 皆様方のお子さんが、学校に行く途中に、隣のおじさん、おばさん、近所の皆さん方に対しまして、一言「おばさん、お早うございます。おじさん、お早うございます。」と言ってみてください。「お宅のお坊っちゃん、お嬢ちゃんは、どんな教育をなさっているのですか」と急に評価が変わってくるでしょう。
 ですから、たかが挨拶と言いますけれども、それは非常に大事なことでありまして、例えば大勢の方が集まって顔を会わせた時に、一言挨拶すれば良かったのだけれども、それを逃したために、今さら挨拶するのもおかしい、今から声を掛けるのもおかしいといって、悶々として帰ってしまうというようなことだってあります。
 その時を逃してしまうと、いつまで経ってもタイミングが悪いものであります。ですから何事もこちらから声を掛ける。やはり知っている人に会ったら、こちらから声を掛けるという風に是非やって頂きたいと思います。
 家庭にあって奥さんと御主人というものも、四六時中、顔を会わせているから、家族は遠慮して、そういうことは構える必要はない。そんなことは一一煩わしくてと思うかもしれませんが、お家の中で子供がお父さんに挨拶をする。父親が子供に声を掛けてあげる。奥さんが朝起きて一番に子供に声を掛けて、あるいは御主人に声を掛けて、その反応を待って、その日の健康状態が一瞬にして分かる。あるいは、その頃その時の気持ちが即座に判断できるという位に、また、挨拶というものは大切なものなのです。是非そういう「身施」ということを良く考えて頂きたいと思います。
 昔の人の言葉に「下がるほど、その名は上る藤の花」という川柳があります。藤の花というものは、藤棚にその花びらが重く垂れ下がるほど、その藤の値打ちは上がっていくものだということです。
 ですから人間も、ツンとして威張っている人は、内実のない人です。むしろ中身の濃い人は自然と頭が下がって、人に対して虚勢を張って威張る必要もないわけです。
 虚心担壊(きょしんたんかい)に、そのままに振舞っていれば、その人は段々と頭が下がってくるのであります。
 頭を下げれば下げるほど、人の評価は上がっていくものだという風に考えて頂きたいと思います。ですから何も頭を下げるのは御商売をしている人だけが下げるのではないので、サラリーマンであろうと、どういう仕事をしていても、むしろ謙虚に、こちらから声を掛け頭を下げて、そして下手、下手に出ていれば評価は、逆に上がるものだという風にお考え頂きたいと思います。
 大聖人様は『上野殿御消息』という南条さんへの御手紙の中に、
 「一日に十回も二十回も顔を合すような友達であったとしても、千里・二千里の遠くから訪ねてきた人と同じように、礼儀を尽くしなさい(取意)」(新編九二二)
ということをお説きになっていらっしゃいます。
 ですから夫婦の中ほど、むしろ毎日毎日、一生涯、夫婦の間で過ごすのですから、夫婦の間こそ、一つの礼節をきちんと守って、清々しく、お付合いをしていくということが必要だと思うのであります。そういうことを励行している人は、いつの間にか人から親われ人から敬われる。そういう人間的な評価を必ず得ていくということを説かれているのであります。

 五番目は「心施(しんせ)」と申しまして、やはりお家の中で両親や家族に対して、あるいは目上の人に対して、沙門に対して同志の皆さん方の間において、やはり和やかな善心をもって人に接するということであります。
 昔から「万能足りて一心足らず」ということが言われます。非常に才能もあり何事をやらせても、そつなくやり、頭も良いし、何でもできるけれども、どこか心が足りない、思いやりが足りない。自分のことだけは一生懸命するけれども、どうも人は構わず、自分だけという人が中にはあります。
 ですから信心の心、慈悲の心、人を思いやる心、人の痛みが分かる心ということが、人間の一つの徳、その人の品格を築き上げる要素となると思うのです。
 『法華経』の「普門品(ふもんぼん)」に、         
 「慈意の妙は大雲のごとく、甘露の法雨をそそぎ、煩脳の焔(ほのお)を滅除す」(開結六三五)
ということを言われております。やはり慈悲の心が大切だということが説かれておりますし、大聖人様は、『十字御書(むしもちごしょ)』の中に、
 「さいわいは心よりいでて我をかざる」(新編七八九)
ということを言われております。
 また、有名なお言葉に、
 「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財よりも心の財第一なり」(新編一一七三)
と、大聖人様は四条金吾殿に対して懇々(こんこん)と教えられておられます。
 やはり心の財というものがあって、そこにまた、身の財が具わり、そして蔵の財も、その心の財の根本の上に具わってくるものだということであります。
 心というものは、なかなか実体のないもので身体を分解して、あるいは内臓を開いても、心が見えるものではありません。しかし、心が我が身の中にあるということは間違いないのです。物理的に、肉体的にどこに心が存在するかということは決して証明できるものでないけれども、あるということは間違いないのです。
 そこにまた、疑心(ぎしん)だとか貪欲(どんよく)だとか瞋恚(しんに)だとか、愚痴(ぐち)だとか、そういう心ではなくて、どこまでも清々しい信心の心、人を思いやる慈悲の心というものが、やはり自分の宝物だとして一つ大切に育んでいって頂きたいと思います。

 最後の二つは、直接的に家庭の姿、我が身の振舞いということとは関係ありませんけれども、無財の七施の六番目に「床座(しょうざ)施(せ)」といいまして、僧坊において、法が説かれる所において、座席を譲るということが大切だということが説かれています。
 これは『法華経』の「随喜功徳品(ずいきくどくほん)」に、
 「若(も)し復(また)人有って、講法の処に於(おい)て坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」(開結五三五)
と説かれております。
 ですから、こういう寺院に参詣した。あるいはまた、色々な会合等々に、自分より後から来た人に半座を分かって共に聴聞する。共に法を聞く。むしろ身体の不自由な人が来れば、その人にまた、座を譲って自分は立ってでも聞く。そのように半座を分かち、またお互いに座を分かって共々に、この妙法の悦びを、聞法の徳を積んでいく。そのことが大切だということを説かれております。

 最後は家を施す。「房舎施(ぼうしゃせ)」と申しまして、お家を唱題会や座談会の拠点に開放しておられるお家があります。  
 それもまた、広布のために我が家を大勢の皆さんに開放して、そうして共に信心の向上と、その深化を計っていくために、我が家が単なる住まいということではなくて、広布のために、妙法流通のために、我が家を提供するということも、これは非常に大きな徳を積むことになるのだということであります。
 そういう御家庭は、必ず歓喜に満ちあふれた、そういう徳の輝く御家庭になっていくということが説かれているのであります。確かにそれは、煩わしいこともあります。
 大勢の人が常に出入りし、会合をしたり、唱題をする訳ですから、静かな我が家と言えなくなってしまいます。
 反面、大勢の人に、そうやって信心のために我が家を提供し、常に題目の声が響きわたっているという、その家には、それなりの功徳が積み重なっていくのだということが説かれているのであります。
 どうか、そういう会場を提供している御家庭の皆さんは、それだけの福徳があるということを確信して、今後とも大勢の方々のために、我が家を開放して頂きたいと思うわけであります。
 このように「無財の七施」というものは、何もお金をかけてやるものでもないのです。自分の心一つ、自分の振舞い一つ、自分の言葉一つ、それをもって家族はもとより、大勢の人に本当の和やかな人間の愛情やその品格を、無尽蔵に施すことが出来るということが、仏典に説かれているのであります。
 今申し上げましたことを、一つ心に置いて、我が身、我が心、我が振舞い、我が言葉というものを常に意識して、福徳を積んでいって頂きたいと思う次第であります。

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