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   母の乳をのむ事、一百八十(いちひゃくはちじゅう)(こく)三升五合(さんしょうごごう)なり。此乳(このちち)のあたひは一合(いちごう)なりとも三千(さんぜん)大千世界(だいせんせかい)にかへぬべし。】
 
母の十徳
 
     
   本日は、「母の十徳」と題してお話をさせていただきます。
 実は青年部の方とお話ししたときに、「七月の御講で、何か聞きたいことありますか?」と聞くと、家族について話して欲しいという返事でした。ですから講題も「家族について」と張り出しました。
 親からすると、いつまでたっても子供は子供ですが、成人すれば子供なりの考えがあり、普段憎まれ口をきいたりして素直でなくても、一生懸命親や家族の事を考えているのだなということがよく分かりました。
 しかし、本日はこの後、大事な大結集総会の説明もあり、余り長くも話せませんので、来月以降何回かに分けてお話ししたいと思います。

 皆様方も、よく御存知だと思いますが、大聖人様の『開目抄』という御書の中に『
心地観経(しんちかんぎょう)』の、
 「過去の
(いん)を知らんと(ほっ)せば其の現在の()を見よ。未来の()を知らんと(ほっ)せば其の現在の因を見よ」(新編五七一頁)
という有名な御文を引いておられます。
 その『心地観経』というお経を読みますと、お母さんの十徳ということが説かれています。 ここにおられる全ての方々が、等しく一人の母親を持っていらっしゃいます。生みの親と、また育ての親とを別に持っていらっしゃる方もあるかも分かりませんし、また一人一人の御婦人がお母さんとしての立場で今日まで生きてこられ、また若い方々もこれから未来のお母さんとして、今日この信心を全うして行かれていると思います。
 そこで今日はその母親の持っている十徳ということについてのお話を申し上げたいと思います。

 この『心地観経』(大正蔵三-二九七・B)というお経によりますと、

大地(だいち)
 つまりお母さんは、赤ちゃんを生み出すという、その
所依(えしょ)となる意味で、大地の如しというのであります。
 つまり母胎は大地の如く、大きなその力、一切の生命を育む力が、お母さんの命の中に備わっているということを、大地の如しというふうに名づけています。


能生(のうしょう)
 これは九箇月ないし十箇月ほどの間、胎内に赤ちゃんを宿して、そうしてそれだけの赤ちゃんの顔や、あるいはその体や足や手や、一切のものを整えて、そして立派な子供として生み出す力や機能が、お母さんの胎内に備わっているということで、よく生み出す「能生」の徳がお母さんに備わっているということを挙げています。
 その間、お母さんは、赤ちゃんに栄養を与え、また自らは外出することを控えて、そしてそのお母さんが
悪阻(つわり)等の苦しみに耐えて、子供さんを着々と自分の胎内において育てあげていく。そうしたよく生み出す力、そこには苦労もあるわけであります。人に言えないお母さんの、この苦しみに耐えて、よく子供を生み出す、という意味で、「能生」という徳が備わっているということを言われています。

能正(のうしょう)
 この間は、先ほども申しましたように、この胎内において子供の五根(眼・耳・鼻・舌・意)を整えるというのです。赤ちゃんの一切の細胞を胎内においてよく発達させて、その赤ちゃんの脳の働きも、心臓の働きも、手足の機能も、全部、充分な形において育てていく。そういう力が備わっているという意味で、よく正す「能正と名づく」というふうに言っています。


養育(よういく)
 よく育てる。これは、そこまでは、お母さんの胎内において育てる部分でありますが、今度は生まれてから、お母さんは、お乳を飲ませ、その子供を育てるということです。
 昔は、殿様や天皇家など高貴な家柄では、母親は産むだけで乳母が育てたりしていましたが、今では殆ど無いと思います。
 その間、これは大聖人様の『
刑部左衛門尉(けいぶさえもんのじょう)女房御返事(にょうぼうごへんじ)』にもありますけれども、約百八十(こく)のお乳を赤ちゃんに飲ませるということが説かれています。実際に量ってみるとどの位の分量になるのかよく分かりませんけれども、一応、仏典の明かすところ約百八十斛ということを説かれています。
 また、乳一升の値を稲に換算すれば、二万一千七百
(たば)になるとも仰せです。いずれにしても、お母さんが赤ちゃんをよく育てていくということです。
 殆どのお母さんは、赤ちゃんを左側に抱くか右側に抱きます。そして、それぞれ手が疲れてくると、右側に抱いたり左側に抱いたり、交互に替えると思うのです。あるいは背中におんぶをする場合もあるでしょう。しかしながら左側に抱く人が一番多いというのです。
 これは統計上もそうでているそうです。
 無意識のうちに左側に抱いている。これはなぜかと言いますと、お母さんの心音を赤ちゃんが聞くことによって、赤ちゃんが一番安心をするのです。赤ちゃんは、お母さんの心音を母の胎内で一番聞いているわけです。そうして育っていますから、生まれてからも、やはり赤ちゃんは、お母さんの心臓の側に頭をもってきて、左側に抱くということが、一番、落ち着くらしいのです。あたかもお母さんの心音を子守歌のように聞いて、そうして安心して眠りに就く。ですから別の人の心音を聞いても、なかなかそうはいかないのです。やっぱりお母さんの心音が一番、赤ちゃんにとって安心するのです。
 そのように、お母さんはお乳を飲ませて、よく育てるということで、「養育」よく養い育てる、お母さんは、そうした徳を持っておられると言うのです。


智者(ちしゃ)
 智恵の智者と名づく。言葉を教え、知恵を与えるのは、これはやっぱり何よりもお母さんの徳目であります。お母さんから口移しに、お母さんからオオム返しに、やはり赤ちゃんは言葉を教わる。あるいは御飯の言葉、あるいは色んな言葉をお母さんの口を通して、お母さんと赤ちゃんが対話をしながら、意味のないような言葉であっても、お互いに反応し合いながら、赤ちゃんは赤ちゃんなりに、お母さんの意志を、お母さんの言葉を、お母さんの愛情を受け継いで、そしてよく自分の脳を発達させ、色んな考える力や判断する力や、色んなものを吸収していくわけです。ですから言葉を覚える、知恵を発達させるというのも、それはお母さんとの、そうした愛情の中において、対話の中において、あるいは、おしめを替えたり、お乳を飲ましたり、寝かし就けたり、色んなそうした赤ちゃんとのスキンシップの中で、よく育っていくということで、お母さんのことを「智者」の徳が備わっていると言うのです。
 子育ても、一昔前とは大きく異なり、胎教と言ってお腹にいるうちから色々話しかけたり音楽を聴かせたり、旦那さんが出産に立ち会ったり、紙おむつという便利なものもあります。
 しかし、どんな時代になろうと子供が小さな間は、先ずお母さんを通して赤ちゃんは教育をされ、養育をされていくということです。


荘厳(しょうごん)
 荘厳とは、よく飾ることです。
荘厳(そうごん)と書きますけれども、これは、お母さんを通して、またお母さんから頂いたそうした命の上で、例えば髪の毛が十分に生え(そろ)って来るとか、あるいは子供は子供なりに、お母さんのいろんな愛情を通して、わが身というものを整えていくという意味です。
 またお母さんは赤ちゃんにオモチャを与えたり、着物や洋服や、いろんなものを与えて、そうして赤ちゃんにふさわしい、そうした姿形に、徐々に徐々に、整えて行くわけです。
 赤ちゃんは三箇月の頃は三箇月の赤ちゃんであり、六箇月、一年経てば一年経ったように、その子供を荘厳していく。子供を整えていく。それは着る物も、あるいは肉体的にもそうでありますけれども、一つ一つ、お母さんが整えていって上げるということであります。
 よく「荘厳」する、と同時に、その子供なりに、そうしたお母さんの持っているものを、やはり受け継いでいくのです。自分を「荘厳」していく、自分を作っていく、という働きを、お母さんを通して頂くというわけです。


⑦安穏
 「
現世安穏(げんせあんのん)後生善処(ごしょうぜんしょ)」と『法華経』(「薬草喩品(やくそうゆほん)」)にありますが、何よりも赤ちゃんにとっては、お母さんといる時が一番安心です。お母さんの懐に抱かれている時が、赤ちゃんにとっては一番であり、それ以上、健やかで安穏な場所はどこにもないのです。
 それは、設備の整った病院であっても、安穏な場所ではないのです。たとえどんな所であってもお母さんのいる所が安穏な場所なのであります。
 ですから『心地観経』というお経の中には、
 「
(もろもろ)の世間に(おい)て何者か最も富み、何者か最も貧しき。悲母の堂に()す之れを名づけて(とみ)と為し、悲母()さざる之れを名づけて(ひん)と為す」(大正蔵三-二九七)
とあります。赤ちゃんにとって一番豊かであり、一番富んでいる、一番安心だという所は、お母さんの所にあることである。今、自分のお母さんがいないということが子供にとっては一番貧しいことであり、一番それが辛いことであり、一番暗いことなのである。人生の暗黒は赤ちゃんにとって、お母さんがいないということなんだということを説かれています。
 「悲母の
()す時、名づけて日中(にっちゅう)()し、悲母の死する時、名づけて日没(にちぼつ)()す」(同上)と。お母さんがこの世にいらっしゃることが、あたかもこの太陽の天に在すごときものである。お母さんが不幸にしていない、お母さんを亡くしたということは「名づけて日没となす」日の暮れのごとくだということを説かれているのであります。
 これは大人にとっても、やはり子供にとっても、お母さんがいないということほど辛いことはないのであります。ですから安穏、お母さんのことを「安穏と名づく」という風に言っています。


教授(きょうじゅ)
 授業の先生の教授。これは、いろんな
(ぜん)巧方便(ぎょうほうべん)を設けて、よく子供を導く、しつけ、教育するという意味において、お母さんのことを「教授と名づく」というわけです。
 子供のしつけの問題は、やっぱり何よりもお母さんが大きな役割を背負っているのです。そして皆様方のお子さんも、やはりお母さんに育てられたという部分が非常に多いのであります。
 男の子であれ、女の子であれ、将来は一人立ちして、一個の社会人として出ていくわけであります。その時に、やはり一人前の人間としてやっていけるように、女の子ならば、どこにお嫁に行っても十分にやっていけるように育て、しつけるのは、お母さんですから、そうした意味で、お母さんのことを「教授と名づく」というのです。
 良き人材に、わが子を育てていくことが大切です。皆さんも自分の子供を育てる場合は、どこに行っても、どんな分野に進んでもやっていける、そういう人間にしていかなければなりませんし、また信心を通して、信心の上での人材、大聖人様の子供として育てる、という覚悟を持って、しっかりとこの信心を植え付けて、福徳を子供に授与して頂きたいと思います。


教誡(きょうかい)
 教え
(いましめ)めるのです。「教誡と名づく」それは、善いことと悪いこと、その善悪、ものの善し悪しということを、しっかりと子供に教えていくということが大切であります。また信心の上における善悪、その正邪ということも、きちっと子供に教える。そうしたよく教え誡める、「教誡」の徳をお母さんはまた持っていらっしゃる。そういう使命を持っていらっしゃるのだという風にお考え頂きたいと思います。


与業(よぎょう)
 
(ぎょう)を与える。これは「()く家業を(もっ)て子に付囑するが故に」(同上)これは子供さんに、いろんなお手伝いをさせたり、あるいは子供さんと一緒に何事か仕事をしたり、あるいは運動したり、家族みんなで、ある物事をしっかりと成し遂げていきつつ、いろんな生活する力や、生きる力や、あるいは家族の意志や、信心、そういうものを一つ一つ子供に授与していく、付囑をしていく、子供に与えていくということです。
 ですから皆様にとっては、信心というのは大事だということ、勤行、功徳、善根を積むということも、あるいは仕事の面、あるいはお母さんならお母さんの人生観というものも、そうしたものを通して、一つ一つ子供に、日常の暮しの中で、それを授与していく、付囑をしていくことが大切です。
 そうした意味で、業を与えると『心地観経』には説かれています。
 以上が母の十徳です。
 女性も様々ですから、母性の強い人、女としての部分が強い人など人によって違いますが、我々は大聖人様の正法を修行している身ですので、どうか我が身にそうした十徳が備わっているということを考えると同時に、そうした十徳を備えた良き母親となり、あるいはまた良き母親を目指して、一つこれから生きていって頂きたいと思います。


 悲しいことに、一般世間では、母親に報恩感謝出来ない方もおられます。どんな母親であれ、産んで下さった恩はあるわけです。大聖人様も、
 『
(それ)につきても母の御恩忘れがたし。胎内に九月(ここのつき)の間の苦み、腹は(つづみ)をはれるが如く、(くび)は針をさげたるが如し。気は出づるより(ほか)に入る事なく、色は枯れたる草の如し。(ふせ)ば腹もさけぬべし。()すれば五体やすからず。かくの如くして産も既に近づきて、腰はやぶれてきれぬべく、(まなこ)はぬけて天に昇るかとをぼゆ。かかる敵をうみ落しなば、大地にもふみつけ、腹をもさきて()つべきぞかし。さはなくして、我が苦を(しのび)て急ぎいだきあげて血をねぶり、不浄をすすぎて胸にかきつけ、(いだ)きかかへて三箇年が間、慇懃(いんぎん)(やしな)ふ。』(新編一五〇四頁)
と仰せであります。
 まず、お母さんは、皆さんがお腹に宿ったときに、産もうと決め、産んで下さったのです。自分一人で生きてきたと思う方でも、生まれてすぐに放置されれば死んでいたわけです。大事に育てられたからこそ、今も皆さんは生きており正法にも巡り会えたわけです。
 親子の因縁は切って切れるモノではありません。最高の孝行は、正法を持って祈って行くことだと肝に銘じて下さい。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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