ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第188号)  
   
 
   最勝(さいしょう)最善(さいぜん)教法(きょうほう)(しゅう)するを「大善(だいぜん)」と()(なり)  
   善と悪
 
   
 【はじめに】
 善と悪は人間社会における思想、行動の物指しであり、規準であります。
 もし善悪のけじめが失われたならば、社会は大混乱を来してしまいます。たとえ一般的、常識的な事柄であっても、現在の日本の社会に善悪の規準があり、悪事は法律で取り締るようになっているから、国民はいちおう安定した生活を送ることができます。これがいわゆる世間律です。
 しかし、人間は
煩惱(ぼんのう)充満(じゅうまん)の凡夫で、瞬時の享楽(きょうらく)()(よく)『目、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官(五根)が、それぞれ色、声、香、味、触(触れられるもの)の五つの感覚対象(五境)に執着して引き起こされる五種の欲望をいいます。これらは、人間の欲望を引き起こす原因となるから、五境も五欲といわれる。なお、財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つも五欲といいます。』への執著(しゅうじゃく)が強く、地位、名誉、財産を得るために、法の網にさえかからなければ、悪事をも()えて()さぬ人が多いのが現状です。これらの人々が世間の法律をくぐり抜けて、さまざまな悪事を行ない、成功失敗に一喜一憂している姿があります。
 数ヶ月前も、大麻を栽培・販売していた大学生が、警察に逮捕される瞬間をテレビでやっておりましたが、警官に囲まれた学生が「マジカ~」「誰にきいたんすか」「終わった~」とうろたえ、警官に「とうとうこの日が来たんだ。観念しろ。」と手錠をかけられていたやりとりが印象的でした。
 このように、とすれば、むしろ要領よく悪い事をしながらも、自己のためを計ることが幸福を得る道であり、失敗すれば元も子もないが、うまく成功すれば悪事も役に立ち、かえって善となると考える者が多いのです。
 もし相対観(一般的な判断)より善悪を見るならばこの見解は誤りであり、かつ救いようの無い悪人といえます。しかし究極の絶対観(最高の判断・仏智)より見るならば、このような自分の欲望のまま生きる亡者も、正しい道に生かす道が存在するのです。この絶対観はあるいは誤解を生んでしまう意味もありますので、最後に仏法の究竟のところよりその辺りをお話ししたいと思います。

 【一般的な善悪】
 そこでまず一般的な善悪の規準から考えてみます。世間の法律は人間社会の善悪観が規準となっていますが、より詳しく人間と社会を取り巻く善悪の意識、また観念として道徳があります。法律で規制されない行為や思想でも、道徳的見地より悪と決定されることが多くあるのです。
 親孝行をしましょう・挨拶をしましょう・嘘をついてはいけませんなどと一般的にも言われますし、某タレントは「不倫は文化です」と言ったが為に、マスコミからしばらく叩かれていました。
 このように、世間でも色々な道徳を説き、また色々なことをいいます。そのなかには、真心をもって事に当たるとか、人のために、社会のためにと、活動されていますが、あくまでもそれは尽きるところ、我というもの、自分自身というものが中心になっての判断であります。ですから、自分自身の存在が脅かされるようなことになれば、その色々な行為・行動がいかによいことであっても、それはどこかへ飛んでしまうというような問題も出てきます。

 【十悪について】
 仏教では、
(しん)()()三業(さんごう)がつくる十種の罪悪を説きます。
 すなわち、
 (とん)・むさぼり 我欲
 瞋(じん)・いかり
 痴()・おろかさ 真理に対する無智
 悪口(あっく)・汚いののしりの言葉、
 両舌(りょうぜつ)・人を仲違いさせる言葉、
 妄語(もうご)・ウソ偽り
 綺語(きご)・真実に反して言葉を飾りたてること
 殺生(せっしょう)・命あるものを殺す
 偸盗(ちゅうとう)・盗むこと
 邪淫(じゃいん)・みだらな男女関係

の十悪で、これらの行為によって、世間より批難され信用を失ってしまいます。
 この十悪のうち、口の悪が半分近くを占めていることに、我々は注意しなくてはなりません。「災いは口より出でて身を破る」と大聖人様も仰せですが、誰でも罪の意識を持たず、簡単に犯してしまいやすいのです。
 しかし、これら種々の行為は、時と場合によってその善悪の判断が異なり、また、時代の推移によっても、それぞれの見解の相違によっても異なることが多いものです。
 今でこそ、リサイクルとかエコと言われますが、数年前までは、大量生産・大量消費こそが豊かさの象徴で善とされていましたが、これなども今の時代から見れば
(むさぼ)りの象徴で、今になって環境破壊や・地球温暖化というツケがまわって来ました。
 こう考えると何が善で何が悪であるかさえ混沌として明確な判断を欠き、多くの人はこうした善悪に無関心な生活をしているのが現状です。
 また、善悪を判ずることができると信ずる者も、それが独断である場合も多いのです。いろいろな主義や教えによる目的観、人生観、世界観が異なっていれば善悪の規準も異なり、したがってそれに基づく見解も異なるのです。
 今の世の不幸の根元は、善とは何か悪とは何かということに対する混迷にあるのです。そのために社会にあらゆる不幸が渦を巻いているのです。
 以上により、善悪を単にその人の生活上の、幸不幸に関係のない抽象的概念と考えるのは、当然誤りです。
 それならば善悪が具体的な生活上の幸、不幸に関係がある理由は何なのでしょうか。

 【善因善果、悪因悪果】
 これは善因善果、悪因悪果の因果の道理によって説明できます。悪心悪行によって不幸が、善心善行によって幸福が得られることは、世間でもよく知られた事実です。
 しかし時として逆に見える場合もあり、特に此の世界だけの善悪の因果では説明がつかない事が多いのが現実です。生まれつきの幸、不幸も今世の因果論だけでは納得がいきません。ここに
苦楽(くらく)得失(とくしつ)は自然であり、或は偶然であるとして、因縁因果を否定する見解も起ってくるのです。
 しかし、世の一切の
貴賤(きせん)苦楽(くらく)の現象を一括して証明する絶対に変わることのない真理は、三世にわたる生命の因縁因果にあり、この法則を教えるのが仏教であります。したがって、世間の法律や道徳では説明できぬ不可抗力や生まれつきの幸、不幸の理由も、善因善果、悪因悪果によるのであり、  
 『過去の善悪の因は現在の善悪の果とあらわれ、未来の善悪の果は現在の善悪の因による。』
という法則が明らかになるのです。ですから、人生は運命論的に決まっているものでなく、常に未来の
苦楽昇沈(くらくしょうちん)に望む自由自在の生命であると教えるのが仏教なのです。
 したがって、いかに生きるべきかという命題に対する、生命の法則と生活の原理は、仏法による善悪の問題を離れては空理空論となってしまうのです。
 また、善悪とはどういうものかを定める規準の問題も、三世にわたる人生観、法界観から決定されねばならないのです。
 ここで、ごく簡略に筋のみを考えてみます。
 仏教の初門ではまず、自我の罪悪を説いています。やりたい放題・自由奔放な自我が、いかに罪悪を造るか説明はいらないとおもいます。故に自我を滅する・消すという小乗の教えとして、無我に入る道を説くのです。自我とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の境界であり、ほとんどの人は、この境涯で一喜一憂しながら空しく一生を送るため、「六道輪廻」と言われます。
 無我とは声聞、縁覚の二乗のことを言います。この段階では自我が悪、無我が善となります。
 しかし、無我は消極的、自分本位的な方向の悟りであって、仏教の方便・仮の教えです。人間や宇宙間の存在は、すべてお互いに依り合い、助け合って存在しています。そこで一個の存在を他の多くのために役立てるところに、善が存するのです。
 この原理によれば、善とは無我にあるのでなく、進んで積極的に善い事を行ない、人を助け、あるいは人の為になるように活動すること、すなわち、みずからの幸福にのみ酔い、みずからのためにのみ執著していた小我より、大きな視野の自我を発見し、この道に向かって生きることが善となります。
 したがって、これに対する自分本位の無我は、悪となるのです。この無我に対する大きな視野の自我とは、権大乗の菩薩的人生観を意味します。しかし、積極的に善事を行ない、人を助けるといっても、現実は理想の通りに行かず、真に自他幸福への善道を得る者といいがたいのです。

 【法華経による人生観】
 次に法華経による人生観の一分をのべてみますと、世界の現実の相は種々雑多で正義・正論が通らない場合がありますが、宇宙や人生は本来、平等即差別、差別即平等、善悪互いに具わる実相永遠の生命であり、因果の理法の根本は円融円満の欠ける事のない妙法にあります。ただし、多くの人々は此の理を覚知せず、空しく苦悩に沈んでいるのです。妙法実相の境界を悟ることこそ、自他共に即座に幸福を得る根本の道なのです。このような信念は、みずからを妙法の生命と信じ、これを確信することによって可能となるのです。

 今まで述べてきましたように、通常の善悪は相対的なもので、その意義は時代や人々の意識により変動してしまいます。
 これに対し、一切の善悪を
包括(ほうかつ)し浄化する法が、法華経の大善なのです。これより見るならば、これに背くすべての立場は悪となるのです。
 ただし、実相妙法の生命を信ずるといっても、ただ理論的にこれを知るのでは、その力が弱く、現実の妙法の力強い生命になり切ることはできないのです。
 そこに仏法の正しい筋道とたて分けを知ることが肝要となります。その肝要の上から、みずからの生命が妙法化され、たくましく正しい妙法の法界観、人生観を得て、人生に活躍するとき、ここにまことの善の道が存在するのです。
 その
(かなめ)とは一代仏教の真髄である法華経本門寿量品の文底に沈められた妙法蓮華経なのです。
 すなわち、大聖人の三大秘法出現の時である現代は、この妙法を一心に信受するところに、真の大善が存するのです。たとえ法華経を読み論じても、ただ理論的なあり方で終始する類の人は、現実の妙法の働きが具わらないのです。かえって種々の悪因縁によって悪道に堕ちてしまいますので、結果的には、すべて悪となってしまいます。
 以上簡単に善悪を述べてきましたが、本因妙の仏法を信ぜず、
(そし)る者は、根本の大善に背く故に、すべて大悪を構成するのです。
 さらに、絶対的な善について申し上げますと、絶対の善とは、末法の本仏大聖人の人法一箇の妙法蓮華経であります。生命の本源であり、仏の大慈悲の体であるとともに、一切に
(あま)ねく存在し、十界のあらゆる生命相、すべての善悪を具えられています。
 したがって、個々の命を妙法の本尊に帰するとき、相対的な善悪はすべてその当体のまま、絶対の善に
帰入(きにゅう)し、無限の徳性を顕わすのであります。
 あらゆる悪事悪徳の生命も、妙法に帰し、妙法の生命として生きるとき、自然に不可思議の功徳利益の妙用をあらわし、その当体が大善となるのです。小善に終始する社会人も、自己の安心立命しか考えない二乗根性の人も、すべてが妙法にみずからを帰命するとき、大善の生命と生まれ変わることができるのです。
 社会に究極的な善をもたらし、地獄より菩薩までのあらゆる生命、善悪の体をそのまま妙法化し、大善に変えていけるのが、末法の本仏大聖人の大法なのです。
 
 今までの話は難しくて、住職何言ってるか分からないと言う方、安心して下さい。
 大聖人様は『一生成仏抄』にて、
 衆生の心が汚れればその衆生の住む国土も汚れ、心が清ければ国土も清らかになる。浄土(仏の住む清らかな国土)と言ったり穢土(えど、衆生の住むけがれた国土)とは言っても国土に
(へだ)たりはない。ただそこに住む我らの心の中の善悪によるのです。衆生と言ったり仏と言うのも同様で、迷う時を衆生と名付け、悟る時を仏と名付けるのです。(新編四十六頁 通釈)
とじつに分かりやすく仰せであります。
 清い心、正しい心を持つ人が充満する世の中になれば、それは自身だけでなく、住みよい国土、安穏な世界になることは当然の道理です。
 「清らかな世界になるか汚れた世界になるかは我々の心の善悪による」と日蓮大聖人は御指南されているのです。
 我が人生を良いと感じるか、悪いと感じるか。それには何よりも自分自身の心が大きく影響してくることを知らなくてはいけません。大切なことは日々心を磨き、良い命を湧き起こす努力をするということです。
 日蓮大聖人は「日夜朝暮に怠らず磨きなさい。どのようにして磨くのか。ただひたすらに南無妙法蓮華経とお題目をあげるのです」(『一生成仏抄』四十六頁 通釈)
と仰せになっています。日々の精進によって清い心を
(やしな)い、その積み重ねが人生という長い時間に渡れば、抱く感情に大きな差が生じてくることは歴然としています。
 ただ環境の変化に翻弄され何もせず苦しみ、一生を単なる衆生として過ごす人にとって、この世は「汚れた穢土」となるかもしれません。仏様を信じ清い心を育む様日々精進し、一生成仏を目指した人にとってこの世は「清らかな浄土」となり、人生を良しと感じることが出来るはずです。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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