ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第187号)  
   
 
   (にょにん)はおとこを(たから)とし、おとこは女人(にょにん)をいのちとす。  
   夫婦(ふうふ)について大き方
 
   
 本日(ほんじつ)は、前々(まえまえ)より、(ゆめ)希望(きぼう)前途(ぜんと)(ひろ)がっている女子部(じょしぶ)(かた)から、「いつか、夫婦(ふうふ)について(はな)して(くだ)さい。」との依頼(いらい)もありましたので、少々(しょうしょう)(はなし)をさせていただきます。

 ただし、いざ
(はな)そうと()知恵(ちえ)(しぼ)ってお(はなし)(かんが)えましたが、男女(だんじょ)(かたち)(じつ)様々(さまざま)で、独身(どくしん)(かた)もいらっしゃれば、()()いを()くされている(かた)、どちらか一方(いっぽう)のみが信心(しんじん)している場合(ばあい)、また子供(こども)さんのいらっしゃらない場合(ばあい)もありますし、(ひと)(くく)りでお(はなし)出来(でき)ないと()うことに、(いま)(さら)ながら()づきまして、(まった)(ふで)(すす)まなくなってしまいました。

 
夫婦(ふうふ)()(かた)というのは千差万別(せんさばんべつ)で、百組(ひゃっくみ)あれば百組(ひゃっくみ)千組(せんくみ)あれば千組(せんくみ)夫婦(ふうふ)()(かた)があるでしょうから、具体的(ぐたいてき)()ったらキリがありません。
 夫(おっと)がイバっている夫婦(ふうふ)(ぎゃく)(つま)がイバっている夫婦(ふうふ)気短(きみじ)かの(おっと)にのんびりやの(おく)さん、細身(ほそみ)(おっと)(ふと)った(おく)さん。あるいはグータラ亭主(ていしゅ)(はたら)(もの)(おく)さん、年上(としうえ)女房(にょうぼう)(あま)えん(ぼう)夫等々(おっととうとう)、ほんとにいろいろです。どういう取組(とりく)みであれ、基本的(きほんてき)には夫婦(ふうふ)(なか)がよければそれでいいわけで、この取組(とりく)みがよくてこれはダメ、ということはないと(おも)います。

 ここは
法話(ほうわ)(せき)ですので、綾小路(あやのこうじ)きみまろさんのように、「プロポーズあの()にかえって (ことわ)りたい!!」 「(むかし)はかわいい家内(かない)も (いま)じゃオッカナイ」などと、(なん)でも(わら)()ばして()わりにするという(わけ)にもいかず、大聖人(だいしょうにん)(さま)(おお)せをお(はなし)(もう)()げたいと(おも)います。

 【
一般的(いっぱんてき)夫婦(ふうふ)(かん)
 (むかし)から、結婚(けっこん)とは「(いと)がよろしく、(おんな)のたそがれ」とひねくれて()まれております。さらに、夫婦(ふうふ)とは「(おっと)(ほうき)()く」という()(かた)もあるそうです。
 
(ふた)つを()わせますと、(うれ)いを(ふく)んだなんとなく(はかな)げな新妻(にいづま)も、そのうち(つよ)くなって、休日(きゅうじつ)寝転(ねころ)がっている(おっと)を、掃除(そうじ)(とき)にじゃまにして(ほうき)(いま)()えば掃除機(そうじき))で()()てるようになってしまうという(こと)でしょうか?

 
離婚率(りこんりつ)()がったとよく報道(ほうどう)されますが、少々(しょうしょう)調(しら)べてみますと、明治(めいじ)時代(じだい)(ほう)が、(いま)よりも離婚率(りこんりつ)(たか)かったようであります。これは、明治(めいじ)時代(じだい)女性(じょせい)処女性(しょじょせい)よりも労働力(ろうどうりょく)として評価(ひょうか)されており、再婚(さいこん)についての違和感(いわかん)がほとんどなく、(よめ)()()し・()()離婚(りこん)(おお)かったこと、離婚(りこん)することを(はじ)とも残念(ざんねん)とも(おも)わない(ひと)(おお)かったことが理由(りゆう)とされているそうです。
 この
離婚率(りこんりつ)も、大正(たいしょう)昭和(しょうわ)初期(しょき)には減少(げんしょう)し、平成(へいせい)(はい)ってまた上昇(じょうしょう)傾向(けいこう)にあるようです。

 
作家(さっか)渡辺(わたなべ)淳一(じゅんいち)のエッセイに、おもしろい(はなし)()っていましたので(ふた)(しょう)(かい)します。
 
(ひと)つは、ある夫婦(ふうふ)大喧嘩(おおげんか)原因(げんいん)が、歯磨(はみが)()のチューブの使(つか)(かた)だったというのです。
 
御主人(ごしゅじん)(ほう)几帳面(きちょうめん)で、歯磨(はみが)()のチューブを()してへこんだ(ところ)を、おしりから()いてなおさなければ()()まない(ひと)だったのですが、(おく)さんの(ほう)無頓着(むとんちゃく)で、(ゆび)(あと)(のこ)ったままにするので、ある()たまりかねて注意(ちゅうい)したら、()じゃあ(わたし)()わせてもらう」と三倍(さんばい)(がえ)しで()(かえ)されたそうです。
 ここで、この
作家(さっか)(なに)面白(おもしろ)がっていたかというと、
「もし、これが
新婚(しんこん)当初(とうしょ)であったなら、この几帳面(きちょうめん)(おとこ)も、チューブに(のこ)った(おく)さんの(ゆび)(あと)を、「なんとかわいい(ゆび)(あと)」と(おも)ったかも()れない。
 しかし
結婚(けっこん)して十五年(じゅうごねん)()つと、その(ゆび)(あと)(ゆる)せなくなり、(ぎゃく)(はら)()つ。(よう)するに、新婚(しんこん)当初(とうしょ)からみると、(あい)のボルテージが()ちて、相手(あいて)への許容度(きょようど)()がったのである。
そして、この
(はなし)のなによりもいいところは、大喧嘩(おおげんか)理由(りゆう)些細(ささい)でつまらぬ、ということである。」
()べています。
 
夫婦(ふうふ)喧嘩(げんか)(いぬ)()わぬと()いますが、皆さん(みな)(だい)なり(しょう)なり経験(けいけん)があるのではないでしょうか?
 ただし、こういう
傍目(はため)()れば(じつ)につまらない(こと)でも、当人(とうにん)(たち)(なか)()(かさ)なった場合、大事(だいじ)になる場合(ばあい)もありますので、注意(ちゅうい)必要(ひつよう)です。

 もう
(ひと)つは、最近(さいきん)は「(つま)(なに)(かんが)えているのか()からない」と(なげ)男性(だんせい)(おお)いそうです。その理由(りゆう)渡辺(わたなべ)淳一(じゅんいち)
 
「男性(だんせい)は、もともと(おんな)気持(きも)ちを(かん)えてこなかったのだから、()からないのは自業自得(じごうじとく)である。
 
(おとこ)は、自分(じぶん)より立場(たちば)(うえ)(ひと)や、()()って利益(りえき)になる(ひと)意見(いけん)はよく()き、相手(あいて)気持(きも)ちを色々(いろいろ)推測(すいそく)するが、自分(じぶん)より(した)(もの)とか、利益(りえき)にならない(ひと)のことは、ほとんど(かんが)えないか無視(むし)してしまう。
 そして
当然(とうぜん)のことながら、(おっと)(つま)のことを(かんが)えても、目先(めさき)、あまり(とく)にはならないからか、無視(むし)してきた。」と()っています。
 なかなかの
洞察(どうさつ)だと(おも)います。夫にしてみたら寝耳(ねみみ)(みず)で、(おっと)退職(たいしょく)(きん)(はい)ったと同時に(つま)から離婚(りこん)()()されるのは、このパターンなのだと(おも)います。

 【
大聖人(だいしょうにん)(さま)御指南(ごんしなん)
 さて、大聖人(だいしょうにん)(さま)は、夫婦(ふうふ)()り方について、(じつ)(こま)かくいろいろと()べておられます。大聖人(だいしょうにん)(さま)は、(けっ)して()(かた)まった宗教(しゅうきょう)論者(ろんしゃ)ではありません。
 親子(おやこ)兄弟(きょうだい)夫婦(ふうふ)(など)肉親(にくしん)のいわば本能(ほんのう)にも(ちか)愛情(あいじょう)について、何度(なんど)もふれておいでになります。

 ここでは
(つぎ)三点(さんてん)についてふれてみたいと(おも)います。
 第一(だいいち)に、(つま)(おっと)信頼(しんらい)して頑張(がんば)っていきなさいということについては、たとえば「いへ()にをとこ()なければ(ひと)のたましゐなきがごとし」(新編(しんぺん)一四七六(ぺーじ))とか、「女人(にょにん)となる(こと)(もの)(したがっ)(もの)(したが)へる身也(みなり)」(新編(しんぺん)五二二(ぺーじ))といって女性(じょせい)(はげ)ましておられます。
 これを
()()えると、(はじ)めから(おっと)のことをダメだと(おも)うのではなくて、「女人(にょにん)となることは、(おっと)にしたがって(おっと)をしたがえる()となることである」ということですから、つまり、(おっと)信頼(しんらい)することが大事(だいじ)ですよということになります。

 第二(だいに)は、(ぎゃく)(おっと)(はたら)きのかげで、(おっと)(ささ)(うご)かす(つま)(ちから)大切(たいせつ)さについては、「や()のはしる(こと)(ゆみ)のちから、くものゆくことはりう()のちから、をとこのしわざは()のちからなり」(新編(しんぺん)九五五(ぺーじ))と()われています。
 つまり
大聖人(だいしょうにん)は、(おっと)だから(おとこ)だから、あるいは(はたら)きがあるから女より(えら)いとか、(ぎゃく)(つま)のほうが(はたら)きがあるから(おっと)より(えら)いとか、そういう(ふう)()()り方についての固定(こてい)観念(かんねん)(まった)()っておられなかったのです。夫婦(ふうふ)()りようはそれぞれの(ふう)()によって千差万別(せんさばんべつ)であっていい、ただ大事(だいじ)なことは夫婦(ふうふ)信頼(しんらい)しあうということであります。

 そこで
第三(だいさん)は、夫婦(ふうふ)がお(たが)いを尊重(そんちょう)し合()って()らすことの大切さ(たいせつ)についてですが、それについては、夫婦(ふうふ)一羽(いちわ)(とり)(いえ)骨組(ほねぐ)みにたとえて(つぎ)のように()われています。
 「をとこ()ははしら(
)のごとし、(おんな)はなかわ()のごとし。をとこは(あし)のごとし、女人(にょにん)()のごとし。をとこは(はね)のごとし、(おんな)はみ()のごとし。(はね)とみ(身)とべちべちになりなば、なにをもんてかとぶべき。はしらたうれなばなかは()()ちなん。いへにをとこなければ(ひと)のたましゐなきがごとし。」(新編(しんぺん)一四七六(ぺーじ))。
 夫婦(ふうふ)別々(べつべつ)になったら()ぶことはできませんし、(いえ)(たと)えるなら、(いえ)(たお)れてしまいます。
 だから「
(おっと)たのしくば(つま)もさかふべし。(おっと)盗人(ぬすっと)ならば(つま)盗人(ぬすっと)なるべし。(これ)(ひとえ)今生(こんじょう)(ばか)りの(こと)にはあらず、世々(せせ)生々(しょうじょう)(かげ)()と、(はな)(このみ)と、()()との(ごと)くにておはするぞかし……(おっと)(つま)とは()くの(ごと)し」(新編(しんぺん)987(ぺーじ))「女人(にょにん)はおとこを(たから)とし、おとこは女人(にょにん)をいのちとす」(新編(しんぺん)1349(ぺーじ)
ということがもっとも
大切(たいせつ)であります。

 夫婦
(ふうふ)
がおたがいを「(たから)」とし、「(いのち)」とするような、(なに)ものにもかえがたい存在(そんざい)として尊重(そんちょう)しあい、大事(だいじ)にしあう(むす)びつき。それこそ夫婦(ふうふ)のあるべき姿(すがた)であると大聖人(だいしょうにん)(さま)()べられました。夫婦(ふうふ)()をもって(いち)とし、はじめてその(ばたら)きが(まっと)うするのであります。
 いささか
現代(げんだい)夫婦(ふうふ)のあり(かた)とは多少(たしょう)(ちが)うかもしれませんが、夫(ふうふ)本質(ほんしつ)普遍(ふへん)であります。夫婦(ふうふ)となることは過去(かこ)()からの因縁(いんねん)であり、(けっ)して偶然(ぐうぜん)では()いのです。
 
大聖人(だいしょうにん)(さま)は、
 『
心地(しんち)(かん)(きょきょう)()く「有情(うじょう)輪廻(りんね)して六道(ろくどう)(しょう)ずること(なお)車輪(しゃりん)始終(しじゅう)()きが(ごと)(ある)いは父母(ふも)()男女(なんにょ)()生生(しょうじょう)世世(せぜ)(たが)いに(おん)()り」(とう)云々(うんぬん)』(新編(しんぺん)三四四(ぺーじ)
(おお)せであります。

 【
結婚式(けっこんしき)について】
 
日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)信徒(しんと)結婚式(けっこんしき)は、両人(りょうにん)が、日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)寺院(じいん)御本尊(ごほんぞん)(まえ)において、夫婦(ふうふ)(ちぎ)りを(むす)ぶことを基(きほん)とします。これは、唯一(ゆいいつ)正法(しょうほう)受持(じゅじ)した夫婦(ふうふ)が、その信心(しんじん)基盤(きばん)として、健全(けんぜん)家庭(かてい)(きず)き、本仏(ほんぶつ)大聖人(だいしょうにん)広大(こうだい)大慈悲(だいじひ)(むく)いるため、正法(しょうほう)興隆(こうりゅう)()して精進(しょうじん)し、またあわせて家運(かうん)隆盛(りゅうせい)子孫(しそん)繁栄(はんえい)(いの)り、法灯(ほっとう)相続(そうぞく)(ねが)うという、(ふか)意義(いぎ)目的(もくてき)があるのです。したがって、結婚式(けっこんしき)を、神社(じんじゃ)教会(きょうかい)(おこな)うことは、(まった)(あやま)りであります。

 
日本人(にほんじん)(わる)(くせ)として、ファッションで結婚式(けっこんしき)(かんが)え、披露(ひろう)(えん)()(もの)のように(かんが)えている(ひと)大半(たいはん)です。
 
結婚後(けっこんご)日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)帰依(きえ)された(かた)もいらっしゃると(おも)いますが、(わたし)御宝前(ごほうぜん)夫婦(ふうふ)(ちぎ)りを()わしていない(かた)は、結婚後(けっこんご)何年(なんねん)であろうと()れずに結婚式(けっこんしき)をされてもいいと(おも)います。
 こう
()いますと、(ぼう)団体(だんたい)から、「慈本寺(じほんじ)住職(じゅうしょく)はそこまでして供養(くよう)()しいのか」と揶揄(やゆ)されそうですので、あえて文章(ぶんしょう)(のこ)しますが、そんなチンケな(かんが)えはありません。
 
夫婦(ふうふ)はお(たが)いに心から信頼(しんらい)し合(しあ)(たす)()うものであると、大聖人(だいしょうにん)(さま)種々(しゅじゅ)御指南(ごしなん)されています。すなわち、(つま)主人(しゅじん)大切(たいせつ)(おも)(また)主人(しゅじん)(つま)最上(さいじょう)(かんが)え、(たが)いに(あい)()っていくのが夫婦(ふうふ)であり、この気持(きもち)がなくては、(なが)人生(じんせい)()()ることは不可能(ふかのう)です。
 この
信頼感(しんらいかん)は、法華経(ほけきょう)(しん)じお題目(だいもく)実際(じっさい)(とな)日常(にちじょう)生活(せいかつ)反影(はんえい)することにより、ますます(つよ)くなります。たとえ、(くち)にお題目(だいもく)(とな)えても、(こころ)(とな)え、()(とな)えなくては(しん)のお題目(だいもく)修行(しゅぎょう)とはいえません。
 もし
(つま)(おっと)をないがしろにしたり、(おっと)(つま)をいたわらなければ、(くち)でお題目(だいもく)(とな)えても、修行(しゅぎょう)していることになりません。
 
現代(げんだい)結婚(けっこん)形体(けいたい)が、「見合(みあ)い」から「恋愛(れんあい)」に移行(いこう)するにつれて、「離婚(りこん)」がたいへん()えているのは事実(じじつ)です。(なが)人生(じんせい)(たの)しいこともあれば(くる)しいことも(おお)いでしょう。恋愛(れんあい)結婚(けっこん)による離婚(りこん)増加(ぞうか)は、「(あい)」の「過信(かしん)」により(たが)いの「信頼(しんらい)」「尊敬(そんけい)」を(うしな)った結果(けっか)ではないでしょうか。
 
夫婦間(ふうふかん)信頼(しんらい)は、御宝前(ごほうぜん)(ちぎ)りを(かわ)わし、(ただ)しい信仰(しんこう)生活(せいかつ)をすることによりますます(つよ)くなり、本当(ほんとう)の「夫婦(ふうふ)(あい)」となり家庭(かてい)円満(えんまん)となり、お(いえ)繁栄(はんえい)のもとになると(おも)います。

 【
()(そだ)ては仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)

 『いのちはつるかめ(鶴亀)のごとく、さいわい(幸福)は月のまさりしお(潮)のみつ(満)がごとく』(()()殿(どの)女房(にょうぼう)(あま)御前(ごぜん)御書(ごしょ) 新編(しんぺん)一四二九(ぺーじ)
 この
一節(いっせつ)は、大聖人(だいしょうにん)外護(げご)し、(だん)(のつ)中心的(ちゅうしんてき)役割(やくわり)()たした富木(とき)夫妻(ふさい)夫人(ふじん)()てたものです。
 
富木(とみき)夫婦(ふうふ)大聖人(だいしょうにん)のお弟子(でし)となり、(のち)(ろく)(ろう)(そう)一人(ひとり)(かぞ)えられる(にっ)(ちょう)上人(しょうにん)幼少(ようしょう)から養育(よういく)しておりました。その(にっ)(ちょう)上人(しょうにん)()延山(のぶさん)での修行(しゅぎょう)(はげ)むなか、夫婦(ふうふ)のもとに帰省(きせい)する(むね)大聖人(だいしょうにん)がしたためたご消息(しょうそく)です。
 
大聖人(だいしょうにん)立派(りっぱ)修行(しゅぎょう)をおさめている(にっ)(ちょう)上人(しょうにん)()(たた)えるとともに、ここまで(そだ)()げた富木(とき)夫婦(ふうふ)へのご(おん)感謝(かんしゃ)し「寿命(じゅみょう)鶴亀(つるかめ)(ごと)く、また(つき)(ひかり)満月(まんげつ)()かって()すが(ごと)く、(しお)次第(しだい)満潮(まんちょう)(ちか)づくが(ごと)くに、(すこ)しずつ幸福(こうふく)()すよう法華経(ほけきょう)にお(いの)りしなさい」と(おお)せになられたのです。
 
(ろう)(いと)わず(そだ)てた我が()がお師匠さまである大聖人(だいしょうにん)(あつ)信頼(しんらい)()ているとなれば、夫婦(ふうふ)はさぞ(よろこ)ばれたことでしょう。
 
()どもを(そだ)てるということは、(おや)大切(たいせつ)仕事(しごと)ですが、同時(どうじ)仏道(ぶつどう)功徳(くどく)()むことでもあるのです。それは(おや)()でありながら、御本尊(ごほんぞん)さまの()であるからに(ほか)なりません。
 
大聖人(だいしょうにん)(さま)は、四条(しじょう)(きん)()子供(こども)()まれた(さい)には、
 『
就中(なかんずく)夫婦(ふうふ)(とも)法華(ほっけ)持者(じしゃ)なり法華経(ほけきょう)流布(るふ)あるべきたね()をつぐ(ところ)(たま)()()(うま)れん()()度覚(たくおぼ)(そうろう)ぞ』(新編(しんぺん)四六四(ぺーじ)
(おお)せであります。
 
功徳(くどく)()むということは、じつは何気(なにげ)ない日常(にちじょう)生活(せいかつ)(なか)にたくさん(ひそ)んでいるように(おも)います。
 
法華経(ほけきょう)精神(せいしん)は、自己(じこ)功徳(くどく)自身(じしん)のものとせず、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(めぐ)らし()け、生命(せいめい)あるものすべてが(ひと)しく成仏(じょうぶつ)することを(ねが)うのです。
 
(わたし)たちも功徳(くどく)()み、ご本尊(ほんぞん)(まえ)でお題目(だいもく)(とな)え、廻向(えこう)し、信心(しんじん)(ふか)めていきたいものです。

 ()()いを()くされた(かた)への激励(げきれい)
 『
(たも)(みょう)(あま)御前(ごぜん)御返事(ごへんじ)』(新編(しんぺん)(いち)四四(よんよん)(ぺーじ))を(はい)しますと、
 『いにしへよりいまにいたるまで、をやこのわかれ、
主従(しゅじゅう)のわかれ、いづれかつらからざる。されども おとこ(夫)をんな(女)のわかれほどたと(尊)げなかりけるはなし。過去遠々(かこおんのん)より(おんな)()となりしが、このおとこ娑婆(しゃば)最後(さいご)のぜんちしき(善知識)なりけり。』
 すなわち、「
(あい)()男女(だんじょ)(はな)(ばな)れにされるほど(つら)いことはない。」と日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)(おお)せです。そして、「あなたは、(いま)まで過去(かこ)()において何度(なんど)結婚(けっこん)されてきたことでしょうが、(とも)(わたし)(おし)えを実践(じっせん)された()御主人(ごしゅじん)こそ、あなたにとって最高(さいこう)(ぜん)知識(ちしき)となった(かた)なのです。」と(おお)せです。

 そして、
 『ちりしはな をちしこのみもさきむすぶ などかは
(ひと)()えざるらむ』
 (
()った(はな)()ちた()()も、(はる)にはまた()き、(あき)には(ふたた)()(むす)ぶのに、なぜ(ゆえ)人間(にんげん)だけは一度(いちど)()んだら(ふたた)()きて()ないのか)
 『こぞもうく ことしもつらき
月日(つきひ)かな おもひはいつもはれぬものゆへ』
 (
去年(きょねん)(うれ)いが(おお)今年(ことし)もまたつらい月日(つきひ)(おお)い。(ひと)(こころ)は、心配事(しんぱいごと)があってなかなか()れないものだ)
古歌(こか)紹介(しょうかい)されています。
 
(さら)に、南条(なんじょう)時光(ときみつ)(はは)御主人(ごしゅじん)である故南条(こなんじょう)兵衛(ひょうえ)七郎(しちろう)追善(ついぜん)御供養(ごくよう)(もう)()げた(さい)には、
 『
御供養(ごくよう)種々(しゅじゅ)(しな)拝受(はいじゅ)しました。ご主人(しゅじん)逝去(せいきょ)されてから冥途(めいど)より便(たよ)りがありましたでしょうか、ありましたら()かせて()しいものです。しかし、冥途(めいど)のことですからあるはずもなく、(ゆめ)(まぼろし)でなければその姿(すがた)()ることもできません。霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)では神通力(じんずうりき)をもって凡夫(ぼんぷ)世界(せかい)昼夜(ちゅうや)見聞(みき)きされているでしょうが、(かな)しきは凡夫(ぼんぷ)のはかなさ、妻子(さいし)(たち)肉眼(にくがん)では霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)便(たよ)りを()ることも()くこともできません。
 ただ、
(つい)には霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)一緒(いっしょ)()むことができるとお(おも)いなさい。(いま)まで貴女(あなた)生死(しょうじ)をくりかえしてきた(あいだ)夫婦(ふうふ)(ちぎ)りを()わした(おっと)は、(はま)(すな)(かず)より(おお)かったことでしょう。しかしながら、この(たび)夫婦(ふうふ)(ちぎ)りこそ(しん)(ちぎ)りの(おっと)です。()()かと()えば、(おっと)(すす)めによって法華経(ほけきょう)行者(ぎょうじゃ)となられたのですから、()(おっと)(ほとけ)(あが)めなければなりません。()きておられた(とき)生身(しょうしん)(ほとけ)()くなられた(いま)()(ほとけ)()んでも()きても(ほとけ)なのです。法華経(ほけきょう)第四(だいよん)((けん)宝塔品(ほうとうほん)第十一(だいじゅういち))に「()()くこの(きょう)(たも)つものは、即ち(ぶっ)(しん)(たも)つものである」
()かれています。
 そもそも、
浄土(じょうど)というも地獄(じごく)というも、自分(じぶん)(こころ)(ほか)にあるのではありません。ただ(わたし)たちの(むね)(なか)にあるのです。これを(さと)っている(ひと)(ほとけ)といい、これに(まよ)(ひと)凡夫(ぼんぷ)というのです。このことを(さと)るためには法華経(ほけきょう)大事(だいじ)です。それゆえに法華経(ほけきょう)(たも)(もの)は、地獄(じごく)をそのまま寂光土(じゃっこうど)((ほとけ)世界(せかい))と(さと)るべきなのです。』(『上野(うえの)殿(どの)後家(ごけ)(あま)御返事(ごへんじ)新編(しんぺん)三三六(ぺーじ)意訳)
愛情(あいじょう)あふれるお言葉(ことば)をかけられています。
 夫婦(ふうふ)(わか)れの(つら)さは時代(じだい)()えて、(かな)しみの(きわ)みです。(ひと)(いのち)無常(むじょう)です。いつかは(かなら)(わか)れの()()ます。永遠(えいえん)二人(ふたり)で、ずっと一緒(いっしょ)にいたいと(ねが)うならば、(ただ)しい仏道(ぶつどう)(とも)修行(しゅぎょう)することが大切(たいせつ)です。
 そして、
二人(ふたり)(とも)仏界(ぶっかい)(はい)る。それ以外(いがい)方法(ほうほう)は、どこにもないのです。大聖人(だいしょうにん)(ただ)ひたすらお題目(だいもく)(こころ)から(とな)()()げれば、()(おっと)成仏(じょうぶつ)(うたが)いないと(さと)されたのです。

 
南条(なんじょう)時光(ときみつ)(はは)は、御主人(ごしゅじん)(あと)息子(むすこ)さんも()くされていますが、
 『
()(ねが)はくは、悲母(じぼ)()()(こい)しく(おぼ)()(たま)ひなば、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)(とな)へさせ(たまい)て、故南条(こなんじょう)殿(どの)()故五郎殿(こごろうどの)一所(いっしょ)に生れんと(ねが)はせ(たま)へ。(ひと)(たね)(ひと)(たね)(べつ)(たね)(べつ)(たね)。同じ妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)(たね)(こころ)にはら(孕)ませ(たま)ひなば、(おな)妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)(くに)(うま)れさせ(たも)ふべし。(さん)人面(にんおもて)をならべさせ(たま)はん(どき)御悦(およろこ)びいかがうれしくおぼしめすべきや。』(新編(しんぺん)一五〇九(ぺーじ)
(おお)せであります。

 【
慈悲(じひ)根本(こんぽん)()きる】
 大聖人(だいしょうにん)は、『南条(なんじょう)殿(どの)女房(にょうぼう)御返事(ごへんじ)』にて、
 『
()(みず)(さむさ)(つも)れば(こおり)()る・(ゆき)(とし)(かさな)つて(すい)(しょう)()る・(あく)(つも)れば地獄(じごく)となる・(ぜん)(つも)れば(ほとけ)となる・女人(にょにん)嫉妬(しっと)かさなれば毒蛇(どくじゃ)となる。新編(しんぺん)一二二七(ぺーじ)
女性(じょせい)(ごう)(ふか)さを()べられていますが、一方(いっぽう)で、
 『この
法華経(ほけきょう)だけに、「この(きょう)受持(じゅじ)する女性(じょせい)は、()一切(いっさい)女性(じょせい)(すぐ)れるだけでなく、一切(いっさい)男性(だんせい)をも()えている」と()かれています。所詮(しょせん)、たとえ一切(いっさい)人々(ひとびと)(わる)()われたとしても、女性(じょせい)にとっては、最愛(さいあい)(ひと)(おも)男性(だんせい)(いと)おしく(おも)われる(こと)()える(よろこ)びはないでしょう。それと同様(どうよう)に、一切(いっさい)(ひと)(にく)むならば(にく)めばよい。釈迦仏(しゃかぶつ)多宝仏(たほうぶつ)十方(じっぽう)諸仏(しょぶつ)をはじめとして、梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)日天(にってん)月天(がってん)(とう)にさえ(いと)おしく(おも)っていただけるならば、(なん)不足(ふそく)がありましょうか。法華経(ほけきょう)御本尊(ごほんぞん))にさえ、()めていただけるならば、(なん)不足(ふそく)がありましょうか。』(四条(しじょう)(きん)()女房(にょうぼう)御返事(ごへんじ) 新編(しんぺん)七五六(ぺーじ) (しゅ)()
(おお)せであります。
 これほど
()(がた)く、心強い御指南(ごしなん)はありません。この御文(ごもん)は、もちろん男性(だんせい)にも(つう)じます。正法(しょうほう)信受(しんじゅ)している我々(われわれ)は、(つね)御本尊(ごほんぞん)(さま)(まも)られているのです。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)は『上野(うえの)殿(との)御消息(ごしょうそく)』に「(われ)より(おと)りたらん(ひと)をば()()(ごと)(おも)ひて一切(いっさい)あはれみ慈悲(じひ)あるべし」(新編(しんぺん)九二二(ぺーじ)
(おお)せです。
 自分(じぶん)唯一(ゆいいつ)最高(さいこう)仏法(ぶっぽう)にめぐり()って、(しあわ)せへの(みち)()ったのであれば、()(ひと)へも自分(じぶん)()(よう)(おも)い、(おし)えて共に幸せになっていこうと願っていくべきです。
 (ただ)しく(しょう)(だい)(かさ)ねると、まさに妙法(みょうほう)不思議(ふしぎ)(はたらき)によって、人間(にんげん)根源的(こんげんてき)ともいえる親子(おやこ)兄弟(きょうだい)夫婦(ふうふ)男女(だんじょ)(あい)もことごとく浄化(じょうか)され、その(あい)自他(じた)幸福(こうふく)実現(じつげん)のために活用(かつよう)されるのです。そして妙法(みょうほう)によって浄化(じょうか)された真実(しんじつ)(あい)はやがて(ちから)づよい(かがや)きをまし、慈悲(じひ)一分(いちぶ)として昇華(しょうか)されるのです。


        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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