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 第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)についてについて その3  
 

 
 
 
本日(ほんじつ)は、いよいよ四悉(ししつ)(だん)という()(どう)方法(ほうほう)(なか)一番最後(いちばんさいご)の「第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)」、別名(べつめい)、「入理悉(にゅうりしつ)(だん)」と(もう)しますが、この一番(いちばん)大切(たいせつ)な「第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)」についてのお(はなし)(もう)し上げます。
 第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)とは、真理(しんり)(ただ)ちに()いて衆生(しゅじょう)生命(せいめい)(ふか)原理(げんり)(さと)らせることであります。
 よく世間(せけん)(ひと)は、
 「()(のぼ)(ふもと)(みち)(おお)けれど(おな)高根(たかね)(つき)()るかな」という(うた)(うた)いまして、信心(しんじん)()うものは、(よう)するに(ほとけ)(もと)め、(かみ)(もと)め、正理(しょうり)(もと)める(こころざし)があれば、どの宗旨(しゅうし)でも(まった)(おな)じなのだという(ふう)(かんが)える(ひと)(おお)いのであります。
 (たと)えば()士山(じさん)(のぼ)(とき)に、山梨県(やまなしけん)富士吉田(ふじよしだ)(くち)(ほう)から(のぼ)ろうとも、静岡(しずおか)御殿場(ごてんば)富士宮(ふじのみや)(ほう)から(のぼ)っても同じ頂上(ちょうじょう)到達(とうたつ)するのだから、どの(くち)(のぼ)っても(おな)じなんだという(ふう)に、そういうことを(れい)()いて、お(はなし)をする(ひと)(おお)いのであります。
 しかし仏法(ぶっぽう)真実(しんじつ)(おし)えというものは、そういうものではないのであります。それが(おな)じように高根(たかね)(のぼ)(みち)だ、真実(しんじつ)(みちび)(みち)だと(おも)っていても、また、そのように()えても、実際(じっさい)途中(とちゅう)途切(とぎれ)れた(みち)もあれば、谷底(たにそこ)()ちる(みち)もあれば、全部(ぜんぶ)頂上(ちょうじょう)につながっているとは(かぎ)らないのであります。
 それを世間(せけん)(ひと)がそのよう(かんが)えているからといって、それに(まど)わされるということは、いけないことであります。
 (ほとけ)()(どう)において方便(ほうべん)虚妄(きょもう)(せつ)と、どこが(ちが)うかと(もう)しますと、(ただ)しくその真実(しんじつ)のところに(みちび)かれる、その方便(ほうべん)方便(ほうべん)()わらない、(かなら)ずそれが真実(しんじつ)正法(しょうほう)のところに、頂上(ちょうじょう)無事(ぶじ)到達(とうたつ)出来(でき)(みち)であるということ、そして(また)、そこに到達(とうたつ)出来(でき)(はじ)めてそれは真実(しんじつ)方便(ほうべん)だったということが()える
(わけ)であります。
 本当(ほんとう)にその(ただ)しい頂上(ちょうじょう)目指(めざ)すことが出来(でき)ないものは、それは全部(ぜんぶ)どんなに立派(りっぱ)なことを()い、どんな素晴(すば)らしい(みち)のように()えていても、全部(ぜんぶ)(うそ)であり、(また)虚妄(きょもう)であり、それは言葉(ことば)()えて()うならば、真実(しんじつ)道理(どうり)(かく)す、真実(しんじつ)正法(しょうほう)(みちび)()ないという(こと)になります。
 ですから、真実(しんじつ)(みち)到達(とうたつ)できない(おし)えは、それだけでなく正法(しょうほう)否定(ひてい)する(こと)にも(つな)がります。それは全部(ぜんぶ)謗法(ほうぼう)になってしまうという(おそ)ろしさを()らなければならないと(おも)うのであります。
 ですから釈尊(しゃくそん)自身(じしん)も『法華経(ほけきょう)』の「方便品(ほうべんぼん)」に、
 「正直(しょうじき)方便(ほうべん)()てて(ただし)無上(むじょう)(どう)()く」ということを、はっきり()いておりますし、
 「法師品(ほっしほん)」には、
 「()(きょう)方便(ほうべん)(もん)(ひら)きて真実(しんじつ)(そう)(しめ)す」
ということを()いています。
 その真実(しんじつ)正法(しょうほう)(みちび)けてこそ、(はじ)めて(いま)までの()前権(ぜんごん)(きょう)方便(ほうべん)()前権(ぜんごん)(きょう)としての真実(しんじつ)(はたら)きと、その使命(しめい)()たしたことになるのです。
 今日(きょう)における第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)とは、末法(まっぽう)適時(てきじ)大法(だいほう)たる宗祖(しゅうそ)大聖人(だいしょうにん)御建立(ごこんりゅう)(さん)大秘法(だいひほう)総在(そうざい)本門(ほんもん)戒壇(かいだん)(だい)御本尊(おほんぞん)(じゅ)()せしむることに()きるのです。

 ですから私達(わたしたち)が、どんなに勤行(ごんぎょう)をし、どんなに信心(しんじん)をし、(また)どのように物事(ものごと)(まな)んでいっても、やはりその根底(こんてい)広宣(こうせん)流布(るふ)という真実(しんじつ)のところに一切(いっさい)人々(ひとびと)(みちび)いていくという、その(おお)きな(こころざし)と、精進(しょうじん)と、その慈悲(じひ)というものが根底(こんてい)(そな)わっていなければいけないのであります。
 (したが)って、大聖人(だいしょうにん)(さま)は、
 「広宣(こうせん)流布(るふ)(こころざし)なければ利生(りしょう)(とく)(やく)あるべからず」ということをおっしゃっておられます。
 ですから私達(わたしたち)が、この一日(いちにち)一日(いちにち)勤行(ごんぎょう)(つらぬ)く、信心(しんじん)(つらぬ)(うえ)においても、やはり広宣(こうせん)流布(るふ)一環(いっかん)として自分(じぶん)精進(しょうじん)をさせて(いただ)くのだというその気持(きも)ちが、その慈悲(じひ)が、その振舞(ふるま)いが、その根底(こんてい)になければいけないということであります。ただ自分(じぶん)(しあわ)せになりたい、ああなりたい、こうして(いただ)きたい、功徳(くどく)(いただ)きたいと、ただその自分(じぶん)(ねが)いだけを、(あさ)から(ばん)まで、そのことだけを(ねが)っての(しん)(じん)ということならば、それは(まった)我欲(がよく)信心(しんじん)であります。
 他人(たにん)はどうでもいいというのは、大聖人(だいしょうにん)(さま)御精神(ごせいしん)ではありません。大聖人(だいしょうにん)(さま)御一生(ごいっしょう)()()いは、『立正安(りっしょうあん)国論(こくろん)』に(はじ)まって『立正安(りっしょうあん)国論(こくろん)()()わると()われる意味(いみ)は、やはり大聖人(だいしょうにん)(さま)御生涯(ごしょうがい)(とお)して(つらぬ)かれた御慈悲(ごじひ)は、どこまでもそれは折伏(しゃくぶく)一念(いちねん)であり、(かん)(ぎょう)一念(いちねん)であり、一切(いっさい)人々(ひとびと)(すく)っていこうという、()ずその折伏(しゃくぶく)先駆け(さきがけ)大聖人(だいしょうにん)(さま)がされておられる(わけ)であります。
 (したが)って大聖人(だいしょうにん)(さま)『諌暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)という御書(ごしょ)(なか)に、
 「(ふつ)法華経謗法(ほけきょうほうぼう)(もの)(なお)(たま)わず」
ということを(おお)せであります。
 釈尊(しゃくそん)は五十年間(ねんかん)営々(えいえい)として、あらゆる八万四千(はちまんしせん)法門(ほうもん)()()られ、『法華経(ほけきょう)』の「寿量品(じゅりょうほん)」に()いて久遠(くおん)(かい)(けん)をしたけれども、謗法(ほうぼう)(ひと)具体的(ぐたいてき)()する、謗法(ほうぼう)破折(はしゃく)するという(てん)において、折伏(しゃくぶく)(ほとけ)とは()えないのであります。ですから、どこまでも釈尊(しゃくそん)脱益(だっちゃく)(ほとけ)であり、その一切(いっさい)方便(ほうべん)をもって徐々に人々(ひとびと)(みちび)いていくという、そういう()(どう)方法(ほうほう)(もち)いた(ほとけ)(さま)であります。大聖人(だいしょうにん)(さま)のように、(はじ)めから()わりまで折伏(しゃくぶく)(つらぬ)かれた(ほとけ)ではない、ということを大聖人(だいしょうにん)(さま)はおっしゃっているのです。
  その(てん)大聖人(だいしょうにん)(さま)は、
 「日蓮(にちれん)一人(ひとり)南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)ととなえたり」 「二陣(にじん)三陣(さんじん)つづけよかし」
折伏(しゃくぶく)先頭(せんとう)()たれ、そしてまた、(さん)(るい)強敵(きょうてき)などの一切(いっさい)諸難(しょなん)をことごとく()()えられ、(しの)がれましたので、末法(まっぽう)第一(だいいち)先駆(さきが)けをされる(ほとけ)(さま)であられる(わけ)であります。
 (したが)いまして私達(わたしたち)も、大聖人(だいしょうにん)(さま)(あと)(つづ)二陣(にじん)三陣(
んじん)として、百人(ひゃくにん)千人(せんにん)万人(まんにん)と、大聖人(だいしょうにん)(さま)弟子(でし)としての信心(しんじん)(つらぬ)(もの)ならば、自行化(じぎょうけ)()にわたって、大聖人(だいしょうにん)(さま)御精神(ごせいしん)(うえ)自分(じぶん)信心(しんじん)(つらぬ)くということが大切(たいせつ)(おも)うのであります。

大聖人(だいしょうにん)(さま)()撰時抄(せんじしょう)』という御書(ごしょ)(なか)に、
 「
日蓮(にちれん)(えん)()第一(だいいち)法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)なり。此()れをそしり此()れをあだむ人(ひと)を結構(けっこう)せん人(ひと)は閻(えん)()第一(だいいち)の大難(だいなん)にあうべし」
 「南無妙法蓮華経
(なんみょうほうれんげきょう)と一切(いっさい)衆生(しゅじょう)にすすめたる人(ひと)一人(ひとり)もなし。此()の徳(とく)はたれか一天(いってん)に眼()を合()わせ四海(しかい)に肩(かた)をならぶべきや」
と、仰
(おお)せです。
 この折伏
(しゃくぶく)を行(ぎょう)ずるという上(うえ)において、大聖人(だいしょうにん)(さま)にかなう人(ひと)は如何(いか)なる三世(さんせい)十方(じっぽう)の仏(ほとけ)の中(なか)にも、ただ一人(ひとり)もいないということを、大聖人(だいしょうにん)(さま)はおっしゃっております。その折伏(しゃくぶく)の徳(とく)、折伏(しゃくぶく)の持()つ大(おお)きな意味(いみ)というものを私達(わたしたち)は絶対(ぜったい)に忘(わす)れてはならないと思(おも)うのであります。

 しかしながら世間(せけん)の人(ひと)はこの信心(しんじん)を笑(わら)い、折伏(しゃくぶく)を又(また)(わら)い、いろんな意味(いみ)で皆(みな)さん方(かた)の信心(しんじん)に対(たい)して非難(ひなん)中傷(ちゅうしょう)する人(ひと)が多(おお)いのです。
 一般的
(いっぱんてき)には、本当(ほんとう)に正(ただ)しいもの、勝(すぐ)れたものならば、広(ひろ)く世間(せけん)から受()け容()れられると思(おも)われがちです。しかし、釈尊(そん)自身(じしん)が法華経(ほけきょう)は「難信(なんしん)難解(なんげ)」と言()われているように、信(しん)ずることも理解(りかい)することも難(むずか)しいのです。それは、究極(きゅうきょく)の法(ほう)であるが為(ため)に、過去(かこ)以来(いらい)の謗法(ほうぼう)罪障(ざいしょう)を積()んだ人々(ひとびと)、仏(ほとけ)になる種(たね)を持()っていない人々(ひとびと)には、そう簡単(かんたん)に信(しん)じられないのです。

 ですが、よく冷静(れいせい)に考(かんが)えてみて下(くだ)さい。人間(にんげん)として正(ただ)しい信心(しんじん)を全(まっと)うする人と、信心(しんじん)の志(こころざし)のない人(ひと)と、どちらが勝(すぐ)れているかということをみますと、それは信心(しんじん)のない人(ひと)よりも信心(しんじん)のある人(ひと)の方(ほう)が素晴(すば)らしいに決()まっております。そして又(また)その正(ただ)しい大聖人(だいしょうにん)(さま)の御本尊(ごほんぞん)を受()けて信心(しんじん)を持(たも)ったとしても、しっかりと勤行(ごんぎょう)をする人(ひと)と勤行(ごんぎょう)をいい加減(かげん)にする人と、どちらが勝(すぐ)れているかというと、しっかりと勤行(ごんぎょう)を貫(つらぬ)く人(にん)の方(ほう)が勝(すぐ)れているに決(きま)っております。そして又(また)いろんな会合(かいごう)と言()わず、お講(こう)と言()わず、そういうきちっとしたラインに則(のっと)って自分(じぶん)の信心(しんじん)の深化(しんか)を図(はか)ってゆく人(ひと) 、又(また)しっかりと大聖人(だいしょうにん)(さま)の御書(ごしょ)の御指南(ごしなん)に触()れて、教学(きょうがく)を学(まな)んで一日(いちにち)一日(いちにち)と向上(こうじょう)していこう、あらゆる諸難(しょなん)に打()ち勝()っていこうという、そういう精進(しょうじん)の人(ひと)と、そうでない人(ひと)と、どちらが勝(すぐ)れているかというと、一日(いちにち)一日(いちにち)精進(しょうじん)していく人(ひと)の方(ほう)が勝(すぐ)れているに決()まっております。そして又(また)、この折伏(しゃくぶく)を貫(つらぬ)く人(ひと)、折伏(しゃくぶく)の志(こころざし)を持()った人(ひと)、それを実践(じっせん)する人(ひと)と、そうでない人(ひと)と、その境涯(きょうがい)の上(うえ)において、信心(しんじん)の上(うえ)において、人間性(にんげんせい)の上(うえ)において、どちらが勝(すぐ)れているかというと、やはり又(また)その折伏(しゃくぶく)を貫(つらぬ)く人(にん)の方(ほう)が勝(すぐ)れているに決(きま)っております。
 ですから世間
(せけん)の人(ひと)の言葉(ことば)ではなくて、具体的(ぐたいてき)なそうした事実(じじつ)の実践(じっせん)の上(うえ)において、どちらが勝(すぐ)れているかということを判断(はんだん)すると、やはりその折伏(しゃくぶく)を貫(つらぬ)き、又(また)その折伏(しゃくぶく)の一念(いちねん)に立()って、自分(じぶん)の信心(しんじん)を一日(いちにち)営々(えいえい)として貫(つらぬ)く人(ひと)の方(ほう)が勝(すぐ)れているに決(きま)っております。
 従
(したが)って大聖人(だいしょうにん)(さま)が、その一閻浮提(いちえんぶだい)第一(だいいち)の正法(しょうほう)を自行化(じぎょうけ)()にわたって貫(つらぬ)く人(ひと)こそが一閻浮提(いちえんぶだい)第一(だいいち)の人(ひと)なのだとおっしゃっておられるのであります。
 その誇
(ほこ)りと確信(かくしん)と希望(きぼう)を持()って、どこまでもこの「一義悉(だいいちぎしつ)(だん)
」ということを(こころ)()いて(くだ)さい。「為人悉(いにんしつ)(だん)」とか「世界悉(せかいしつ)(だん)」とか、そういう()(どう)仕方(しかた)(とき)には必要(ひつよう)ですが、あくまでも基本(きほん)は、「第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)」であります。

 私達(わたしたち)は、どこまでも一切(いっさい)人々(ひとびと)自分(じぶん)(とも)に、大聖人(だいしょうにん)(さま)(とも)にこの妙法(みょうほう)のところに、その第一(だいいち)()正法(しょうほう)正師(しょうし)正義(せいぎ)のところに(みちび)くということが真実(しんじつ)慈悲(じひ)であり、真実(しんじつ)(ほとけ)振舞(ふるま)いであり、(また)本当(ほんとう)(ただ)しい信心(しんじん)修行(しゅぎょう)なのです。
 それは(また)、『最も(もっとも)(とうと)(おお)きな意味(いみ)()った、本当(ほんとう)功徳(くどく)(そな)わる大事(だいじ)私達(わたしたち)信心(しんじん)実践(じっせん)姿(すがた)なのだ』ということを心得て(こころえ)(いただ)きたいと、(とく)皆様方(みなさまがた)(もう)()げたいと(おも)うのであります。

 大聖人(だいしょうにん)(さま)は『持妙法華問答抄(じみょうほっけもんどうしょう)』に、
 「(ねが)くは『現世(げんせ)安穏(あんのん)後生(ごしょう)善処(ぜんしょ)』の妙法(みょうほう)(たも)つのみこそ(ただ)今生(こんじょう)名聞(みょうもん)後生(ごしょう)弄引(ろういん)なるべけれ。(すべからく)(こころ)(いつ)にして南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)(われ)(とな)()をも(すす)めんのみこそ今生(こんじょう)人界(にんかい)思出(おもいで)なるべき」
ということをおつしゃっております。私達(わたしたち)現当(げんとう)二世(にせ)にわたっての(しあわ)せな境涯(きょうがい)ということも、この人生(じんせい)における最大(さいだい)(よろこ)びも、やはりその折伏(しゃくぶく)(うえ)において、(はじ)めて本当(ほんとう)意味(いみ)のある(おも)()が、(また)その(とうと)功徳(くどく)がそこに(そな)わってくるのだということを(おし)えておられるのであります。
 私達(わたしたち)大聖人(だいしょうにん)(さま)弟子(でし)というならば、一日(いちにち)一分(いっぷん)でもいいんです、だれにも()われることなく、自分(じぶん)(こころざし)(うえ)において、折伏(しゃくぶく)一念(いちねん)()って、まずは()かさず(いの)る。
 そして、
親類(しんるい)縁者(えんじゃ)友達(ともだち)勇気(ゆうき)()って下種(げしゅ)をし、そしてこの正法(しょうほう)のもとに(みちび)いてあげるという、そうした折伏(しゃくぶく)()を、実践(じっせん)()を、自分(じぶん)自身(じしん)一念(いちねん)(うえ)において()って(いただ)きたいと(おも)います。

 
昭和(しょうわ)時代(じだい)戦後(せんご)創価学会(そうかがっかい)大折伏戦(だいしゃくぶくせん)によって、(おお)くの信徒(しんと)()まれ、正法(しょうほう)(ぎょう)ずる(ひと)誕生(たんじょう)したのは事実(じじつ)です。
 しかし、その
反面(はんめん)強引(ごういん)折伏(しゃくぶく)無慈悲(むじひ)折伏(しゃくぶく)(おご)った折伏(しゃくぶく)によって、それに匹敵(ひってき)するほどの反対者(はんたいしゃ)()み、(ほう)()げる結果(けっか)になったことも事実(じじつ)です。
 
一例(いちれい)ですが、入院(にゅういん)患者(かんじゃ)枕元(まくらもと)で、お見舞(みま)いするわけでなく「学会(がっかい)(はい)れば病気(びょうき)(なお)る。(はい)らないなら(たす)からない」とまくしたて、拒否(きょひ)されるや「地獄(じごく)()ちるよ」と()台詞(せりふ)(のこ)して()っていくような行為(こうい)が、一部(いちぶ)(おこな)われていました。

 
実際(じっさい)この(はなし)は、(わたし)学生(がくせい)(とき)に、法事(ほうじ)()った(さき)未入信(みにゅうしん)親族(しんぞく)から()われ、その(ほう)は「絶対(ぜったい)学会(がっかい)(ゆる)せない」と(うら)んでおりました。
 
当時(とうじ)は、まだ学会(がっかい)とは協調(きょうちょう)路線(ろせん)であり、僧侶(そうりょ)として学会(がっかい)(まも)立場(たちば)でありましたので、内心(ないしん)親戚(しんせき)(ほう)()うことは(ただ)しいと(おも)いながらも、まずは(あやま)り、学会(がっかい)擁護(ようご)しておりました。
 こういう
(こと)は、(わたし)八王子(はちおうじ)(ほう)忍寺(にんじ)さんに在勤(ざいきん)させて(いただ)いていた四年間(よねんかん)で、葬儀(そうぎ)通夜(つや)場面(ばめん)でも多々(たた)あり、自分(じぶん)なりに学会(がっかい)(まも)ってきたという自負(じふ)があります。ですから、当時(とうじ)(わたし)()(がっ)会員(かいいん)(なに)()えないハズです。数名(すうめい)(がっ)会員(かいいん)が、(わたし)悪口(わるくち)()っているようですが、「直接(ちょくせつ)住職(じゅうしょく)()いに()きなさい」(わら)って()ってあげて(くだ)い。
 本来(ほんらい)正法(しょうほう)(ただ)しく信仰(しんこう)していれば、(おの)ずと(そな)わるべき慈悲(じひ)(しん)()けていた(がっ)会員(かいいん)が、何人(なんにん)もいたという(こと)です。
 
我々(われわれ)はそうではいけません。強烈(きょうれつ)罰論(ばつろん)は、(いま)時代(じだい)恐怖(きょうふ)(しん)相手(あいて)()()け、カルトと()われてしまい、貪欲(どんよく)功徳(くどく)のみを()(もと)める姿(すがた)慈悲(じひ)など(しょう)ずる(わけ)もなく、確実(かくじつ)(ほう)()げます。(よう)するに、学会(がっかい)(おな)じだと()われてしまうのです。
 
(おな)信仰(しんこう)をするにしても、「(ばち)(こわ)いからやる」というのと「正法(しょうほう)出会(であ)え、(うれ)しくて実践(じっせん)する」というのでは雲泥(うんでい)()があります。


 【
門外(もんがい)折伏(しゃくぶく)門内摂受(もんないしょうじゅ)

 「門外(もんがい)折伏(しゃくぶく)門内摂受(もんないしょうじゅ)」、皆様(みなさま)には()き慣れない御言葉(おことば)かと(おも)います。
 この
御言葉(おことば)は、総本山(そうほんざん)(だい)五十九()(にち)(こう)上人(しょうにん)(だい)()(にち)()上人(しょうにん)の『化儀抄(けぎしょう)』を解説(かいせつ)された(おり)に、大聖人(だいしょうにん)(さま)御教示(ごきょうじ)をふまえて(わたし)たちの信心(しんじん)()(かた)姿勢(しせい)を、一言(ひとこと)に「門外(もんがい)折伏(しゃくぶく)門内摂受(もんないしょうじゅ)」と()かれたものであります。
 その
(もと)は、『化儀抄(けぎしょう)()(だい)五十七(じょう)の、
 『
法華宗(ほっけしゅう)大綱(たいこう)義理(ぎり)(そむ)(ひと)をば(ほう)(ぼう)(もう)すなり、(そし)とは(もとる)()別名(べつめい)なるが(ゆえ)なり』
という、
(にち)()上人(しょうにん)御教示(ごきょうじ)敷衍(ふえん)されて「門外(もんがい)折伏(しゃくぶく)門内摂受(しょうじゅ)」と()かれるのであります。
 
門外(もんがい)、つまり宗門(しゅうもん)外部(がいぶ)()かっては、どんな(こと)があっても、(ほとけ)慈悲(じひ)根本(こんぽん)に、あくまでも常識的(じょうしきてき)に、勇猛(ゆうもう)果敢(かかん)折伏(しゃくぶく)(すす)めなくてはいけません。
 
(たい)して門内(もんない)宗門内(しゅうもんない)(そう)俗間(ぞくかん)にあっては「法華宗(ほっけしゅう)大綱(たいこう)義理(ぎり)」である、
大聖人(だいしょうにん)(さま)御本仏(ごほんぶつ)(あお)(こと)
本門(ほんもん)戒壇(かいだん)(だい)御本尊(ごほんぞん)(さま)根本(こんぽん)御本尊(ごほんぞん)(しん)じる(こと)
()()日興(にっこう)上人(しょうにん)以来(いらい)血脈付法(けつみゃくふほう)御歴代(おんれきだい)上人(しょうにん)御指南(おんしなん)(はい)する(こと)
()一切(いっさい)宗教(しゅうきょう)邪宗(じゃしゅう)(じゃ)()として()てる(こと)
(よっ)つが基本(きほん)であります。
 この「
大綱(たいこう)義理(ぎり)」に(そむ)かない(かぎ)りは、(ひろ)(こころ)寛容(かんよう)(こころ)をもって、些細(ささい)なことには()をつぶり、その(ひと)長所(ちょうしょ)、すばらしいところを(うやま)い、(はげ)まし()い、異体(いたい)同心(どうしん)(きずな)(かた)めていく。これを「門内摂受(もんないしょうじゅ)」と()かれるのであります。
 「
摂受(しょうじゅ)」の(しょう)は「おさめる、(つつ)()む」という意味(いみ)があります。仏法(ぶっぽう)根本(こんぽん)(そむ)かない(かぎ)りは、相手(あいて)(かり)(あや)りがあっても、それを(ゆる)し、(つつ)(おさ)めて(すこ)しずつ(みちび)いていくことが大切(たいせつ)なのです。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)は『阿仏房(あぶつぼう)(あま)御前(ごぜん)御返事(ごへんじ)にて、
 「
(あさ)(つみ)ならば(われ)よりゆるして功徳(くどく)()さすべし。(おも)きあやまちならば信心(しんじん)をはげまして消滅(しょうめつ)さすべし」
(おお)せです。
 五十九
()(にち)(こう)上人(しょうにん)御指南(ごしなん)には、
 『
末輩(まつはい)にありては、自他(じた)(たが)いに(けい)(さく)勧奨(かんしょう)して、寛厳宣(かんげんよろ)しきを()異体(いたい)同心(どうしん)()()ぐべきなり。(げん)にも(かん)にも、(しゃく)にも(しょう)にも、根底(こんてい)大慈(だいじ)大悲(だいひ)(あふ)るるあらずんば、(ばん)(ぎょう)いたずらに虚戯(きょぎ)()せんのみ』(有師化儀抄(うしけぎしょう)註解(ちゅうかい)
とあります。
 
(あふ)れんばかりの慈悲(じひ)(うえ)での、寛容(かんよう)(きび)しさがなければ、異体(いたい)同心(どうしん)など出来(でき)ない。そこで、どんなに修行(しゅぎょう)しようと()(むす)ばないと(おお)せであります。

 これを、しっかりと
(きも)(めい)じていれば、講員(こういん)同士(どうし)些細(ささい)言葉(ことば)のあやに(しゅう)(ちゃく)しないで、正道(せいどう)をしっかりと(すす)んで()けると(かん)じております。
 
(とく)に、(ひと)注意(ちゅうい)しようとする(とき)は、一呼吸(ひとこきゅう)おいて感情的(かんじょうてき)にならず、その(かた)(こころ)から気付(きづ)いてくださるように、御本尊(ごほんぞん)(さま)(いの)りながら、真心(まごころ)()って冷静(れいせい)(はなし)をするべきです。
 
(いま)()すべき(こと)は「折伏(しゃくぶく)」です。この慈本寺(じほんじ)(つど)我々(われわれ)同士(どうし)は、お(たが)(はげ)まし()いながら力強(ちからづよ)()きて()ける(ふか)(えん)(つな)がっているのです。それぞれの言葉使(ことばづか)いや態度(たいど)には(ちが)いがあっても、僧俗(そうぞく)一致(いっち)異体(いたい)同心(どうしん)精進(しょうじん)してまいりましょう。

 住 職   ()   (はし)   (どう)    (ほう)  


 
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