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 法華経(ほけきょう)(ひと)成仏(じょうぶつ)(ほう)なりと(こえ)(おし)しまずよばはり(たま)いて諸宗(しょしゅう)(にん)(ほう)(とも)折伏(しゃくぶく)して()(らん)ぜよ  
 

四悉檀
(ししつだ)
折伏(しゃくぶく)について その2

 
 
 【対治悉檀について
 
   先月(せんげつ)御講(おこう)で、(ほとけ)()(どう)方法(ほうほう)として、「四悉(ししつ)(だん)」があって、その(ひと)()が「世界悉(せかいしつ)(だん)(ふた)()が「為人悉(いにんしつ)(だん)」ということを(もう)()げました。
 今日(きょう)は、三番目(さんばんめ)の「対治悉(たいじしつ)(だん)」についてのお(はなし)(もう)()げたいと(おも)います。 
 
 この「対治悉(たいじしつ)(だん)」とは、()んで()(ごと)く、相手(あいて)(あやま)り、相手(あいて)(かんが)(かた)相手(あいて)信心(しんじん)相手(あいて)宗教(しゅうきょう)(かん)というものに(たい)する(あやま)りを、しっかり対治(たいじ)する、すなわち()(しゃく)をしてあげるということであります。
 折伏(しゃくぶく)するときに、どうしても私達(わたしたち)は、いいことばっかりを()うのであります。「病気(びょうき)(なお)りますよ。功徳(くどく)がありますよ。そのうちに生活(せいかつ)()わりますよ。家庭(かてい)円満(えんまん)になりますよ。」などと、いいことばかりを()って、折伏(しゃくぶく)をしがちです。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)は、この信心(しんじん)(まっt)うする過程(かてい)において、「陰徳(いんとく)陽報(ようほう)」ということを四条(しじょう)(きん)()(おお)せであります。
 「陰徳(いんとく)」とは、(ひと)()られずに(おこ)なう善行(ぜんこう)のことで、「陽報(ようほう)」とは、外面(がいめん)にはっきりとあらわれた(むく)いのことです。つまり「陰徳(いんとく)あれば陽報(ようほう)あり」というのは、(ひと)()られなくとも善事(ぜんじ)(おこ)なう(もの)には、(かなら)()(むく)いがあるという意味(いみ)であります。
 四条(しじょう)(きん)()は、主君(しゅくん)から(おぼ)えめでたいことを同僚(どうりょう)嫉妬(しっと)され、色々(いろいろ)画策(かくさく)されました。同僚(どうりょう)は、四条(しじょう)(きん)()(おとしい)れるために、主人(しゅじん)(きん)()悪口(わるくち)讒言(ざんげん))を()ったのです。主人(しゅじん)当初(とうしょ)はだいぶ影響(えいきょう)されたようです。
 しかし、(きん)吾殿(ごどの)は、そのような(こと)()にせず、かえってその(こと)修行(しゅぎょう)(ごと)()()って、大聖人(だいしょうにん)御指南(ごしなん)のまま、短気(たんき)()こさないことを第一(だいいち)に、()るモノから()()()い、言動(げんどう)(いたる)まで細心(さいしん)注意(ちゅうい)(はら)いながら生活(せかつ)しました。また、医術(いじゅつ)心得(こころえ)もありましたので、主君(しゅくん)(やまい)懸命(けんめい)治療(ちりょう)したのです。
 その結果(けっか)信頼(しんらい)回復(かいふく)し、()()げられた領地(りょうち)よりさらに(ひろ)土地(とち)(あた)えられたのです。
 そこで大聖人(だいしょうにん)は、利生(りしょう)()けたことは(よろこ)ばしいことではあるけれども、それにとらわれてはいけないと(おお)せられております。これは、()()える利生(りしょう)におぼれず、(つね)に「陰徳(いんとく)」ということを心掛(こころが)けることが大事(だいじ)であるということであります。
 (たし)かに、この御本尊(ごほんぞん)(さま)信行(しんぎょう)すれば、三世(さんせい)通達(つうたつ)する功徳(くどく)があるということは事実(じじつ)であります。すなわち、現当(げんとう)二世(にせい)現在(げんざい)未来(みらい))はもちろん、過去(かこ)罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)し、現在(げんざい)自分(じぶん)生活(せいかつ)(なや)みや(くる)しみを打開(だかい)して、(また)未来(みらい)にわたっての(しあわ)せを開拓(かいたく)していけるのです。その厳然(げんぜん)たる事実(じじつ)(のっと)って、大聖人(だいしょうにん)(さま)は「陰徳(いんとく)陽報(ようほう)」ということを()われている(わけ)であります。
 しかし、ともすると、それだけに()(くら)んでしまって、(ただ)しい因果(いんが)理法(りほう)というものを無視(むし)して、ただ功徳(くどく)だけを()(ねが)うという(ひと)(なか)にはいるのであります。勤行(ごんぎょう)もしない。(しょう)(だい)もしない。ただ御本尊(ごほんぞん)(さま)さえ()っていれば、あるいは、たまに()()いたときだけ信心(しんじん)すれば、(なん)でも自分(じぶん)(のぞ)みが(すべ)(かな)うぐらいに錯覚(さっかく)をし、そして「功徳(くどく)がない。(なん)だこんな御本尊(ごほんぞん)!」と、御本尊(ごほんぞん)(さま)(あた)り、大聖人(だいしょうにん)(さま)(あた)り、また、折伏(しゃくぶく)して(くだ)さった(かた)()()かっていくという場合(ばあい)もある(わけ)であります。
 この信心(しんじん)(はなし)をする(さい)、いつまでも、いいことばっかりを()(つづ)けていますと、(ぎゃく)逆恨(さかうら)みを(まね)いてしまいます。
 末法(まっぽう)顕益(けんやく)よりも、むしろ冥益(みょうやく)ということがわからなければ、本当(ほんとう)功徳(くどく)意味(いみ)ということはわかりません。自分(じぶん)信心(しんじん)自分(じぶん)生活(せいかつ)自分(じぶん)日頃(ひごろ)実践(じっせん)ということを()きにして、ともすると、そういう(ひと)自分(じぶん)実践(じっせん)(たな)()げて、そしてただ「功徳(くどく)がない、功徳(くどく)がない。」と愚癡(ぐち)()うのであります。
 自分(じぶん)不信心(ふしんじん)懈怠(けたい)(たな)()げて、寺院(じいん)参詣(さんけい)講費(こうひ)納入(のうにゅう)をうながされると、すべてが面倒(めんどう)になり、勿体(もったい)ないことに御本尊(ごほんぞん)(さま)をお(かえ)ししてしまう人も残念(ざんねん)ながらおります。
 ですから折伏(しゃくぶく)をする過程(かてい)においては、相手(あいて)根本的(こんぽんてき)(あやま)りを、きちっと()(しゃく)をするということを(わす)れてはいけないということ。つまり、(けっ)していいことずくめで()わってはいけないということが()げられます。

 (つぎ)に、信心(しんじん)というものには正邪(せいじゃ)(せん)(じん)分別(ぶんべつ)があるということを、しっかり(おし)えなければいけません。「宗教(しゅうきょう)(なん)でもいいから()っていればいい。御本尊(ごほんぞん)(さま)護持(ごじ)していればいい。」というだけの折伏(しゃくぶく)では、いけない(わけ)であります。
 やはり(ただ)しいことと間違(まちが)ったこと、やっていいこととやってはいけないこと、この謗法(ほうぼう)(おそ)ろしさというものを、きちっと(おし)えなければなりません。
 (ぎゃく)に、この信心(しんじん)(とうと)さ、信心(しんじん)()っている意味(いみ)、その功徳(くどく)というものは、どのようにして(あらわ)れるものなのかということを、きっちり(おし)えてあげるということが大切(たいせつ)であります。その正邪(せいじゃ)分別(ぶんべつ)を、しっかりと()けることが大切(たいせつ)です。

 一般的(いっぱんてき)に、どんな宗旨(しゅうし)でも、世界(せかい)平和(へいわ)とか、(おや)大切(たいせつ)にしよう程度(ていど)のことは()っている(わけ)です。新興(しんこう)宗教(しゅうきょう)のような、おかしな、いい加減(かげん)(おし)えでも、道徳的(どうとくてき)なこと、(ひと)(こころ)()つような(あま)いことや、いいことは、()っております。ですから、我々(われわれ)折伏(しゃくぶく)(さい)に、その程度(ていど)のことを()っておりますと、「やはり日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)でも結局(けっきょく)(おな)じだ。」という(ふう)()られてしまうのであります。
 余談(よだん)になりますが、(みな)さんは(うらな)いなどは(しん)じていないと(おも)いますが、(あさ)のテレビ番組(ばんぐみ)では、「今日(きょう)(うらな)い」をほとんどの民法(みんぽう)でやっていますので、人々(ひとびと)関心(かんしん)をよせているようです。星座(せいざ)血液型(けつえきがた)名前(なまえ)(べつ)に、「今日(きょう)(もっと)運勢(うんせい)のいいのは山羊座(やぎざ)のみなさんです。」とか()われると、ついつい()てしまい、(うれ)しくなったり不安(ふあん)になったりするのでしょう。
 (わたし)も、「どういうことを()って人々(ひとびと)(まど)わしているのか?」という視点(してん)興味深(きょうみぶか)()ています。()っていることは、「やらなければいけないことは、後回(あとまわ)しにしないで片付(かたづ)けることが(きち)。」とか「対人(たいじん)関係(かんけい)(わる)くなります。一歩(いっぽ)()がって人の(はなし)をよく()きましょう。」など、()たり(まえ)(こと)()っているに()ぎません。
 これらの(うらな)いは、まだ()たり(さわ)りのないものですが、スピリチュアルカウンセラーなどと、胡散臭(うさんくさ)(にん)登場(とうじょう)してます。イタコの現代版(げんだいばん)とでもいいますか、()くなった(かた)()えるというらしいのですが、全国(ぜんこく)にはかなりの(ひと)がいるようです。相談料(そうだんりょう)(やす)さをウリにしている(ひと)がいたのでホームページを()ましたら、「もともと所属(しょぞく)していた(かい)は、どんどん相談料(そうだんりょう)をあげておかしいと(おも)独立(どくりつ)しました。そこは相談料(そうだんりょう)一時間(いちじかん)五万円(ごまんえん)ですがうちは一万七千円(いちまんななせんえん)です。」などと()ていました。(ひと)(よわ)みにつけ()んだあこぎな商売(しょうばい)であると断言(だんげん)します。
 (だれ)しも、大切(たいせつ)(かた)()くされれば、(かな)しみに()れ、(きず)つき、また、生前(せいぜん)充分(じゅうぶん)してあげられなかったのではないか?と自問(じもん)自答(じとう)自分(じぶん)()める傾向(けいこう)にあります。そんな(とき)に「あなたのお(とう)さんの(れい)は、いつも(そば)にいてあなたを見守(みまも)っているのが(わたし)には()えます。」などと()われれば、イチコロです。
 盂蘭盆(うらぼん)御書(ごしょ)にあるように、慳貪(けんどん)(つみ)地獄(じごく)()ちたお(かあ)さんを(たす)けようとした目連(もくれん)尊者(そんじゃ)が、神通力(じんつうりき)使(つか)っても結局(けっきょく)(すく)うことは出来(でき)ず、法華経(ほけきょう)によってはじめて(すく)われたのです。ましてや、神通力(じんずうりき)(なに)もない我々(われわれ)凡夫(ぼんぷ)が、()くなった(かた)()ることなど出来(でき)ませんし、ましてや(すく)うことなどとうていできません。(すべ)てを見通(みとお)し、()くなった(ほう)成仏(じょうぶつ)させる(こと)出来(でき)(かた)(ほとけ)(さま)だけなのです。

 (おお)くの(まよ)(ひと)がいるからこそ、私達(わたしたち)は、正邪(せいじゃ)分別(ぶんべつ)をしっかり()てる必要(ひつよう)があります。そして、信心(しんじん)というものはどこまでも(ただ)しいものを、(すぐ)れたものを、(とうと)いものを、第一(だいいち)()のものを(えら)んで、意味(いみ)のある信心(しんじん)をしなければいけないということを、しっかりと(おし)えていかなければなりません。こういうことが、一つの「対治悉(たいじしつ)(だん)」ということなのです。
 天台(てんだい)大師(だいし)は『法華(ほっけ)(げん)()』という(ほん)(なか)で「対治悉(たいじしつ)(だん)」につきまして、「対治(たいじ)とは貪欲(どんよく)(おお)きには不浄(ふじょう)(かん)ずることを(おし)え」つまり欲張(よくば)りの(ひと)(たい)しては、その(こころ)(みにく)さ、その不浄(ふじょう)(かん)というものを(おし)えなさい、ということを()っておられます。
 また、「瞋恚(しんに)(おお)きには()(しん)(しゅう)することを(おし)ゆ」と、(いか)りに(くる)(ひと)には、本当(ほんとう)(ひと)気持(きも)ちを(うご)かすものは、恐怖(きょうふ)(しん)ではなく、慈悲(じひ)(こころ)(いつく)しむ(こころ)であることを(おし)えなさいとあります。
 やはり人間(にんげん)(あか)るく、気高(けだか)く、安穏(あんのん)(おお)きな気持(きも)ちで、物事(ものごと)()()んでいくということが大切(たいせつ)なのです。ですから信心(しんじん)(うえ)でも、(おな)じことであります。(いか)(くる)って、あるいは(ひと)(うら)んで、(のろ)って、そうして信心(しんじん)してもそれでは(なに)もなりません。
 それから、
 「愚癡(ぐち)(おお)きには因縁(いんねん)(かん)ずることを(おし)ゆ」
つまり愚癡(ぐち)ばかり()(にん)(なに)かあると「自分(じぶん)(そん)だ、(そん)だ。」とか「ついてない。」と()う。「自分(じぶん)はこの世の中(よのなか)(なに)()まれて()たくはなかったけれども、(おや)自分(じぶん)()んでしまった。」とか、「こんな(まず)しい(いえ)()まれてきた。」とか、あるいは「こんな(みにく)姿(すがた)()んでくれた。よくも()んでくれた。」と、お(とう)さん、お(かあ)さんを(うら)(ひと)がいます。
 こういう(ひと)(たい)しては、よく因縁(いんねん)(おし)えるべきです。そこにはちゃんと因縁(いんねん)があって、やはり道理(どうり)があって、今日(こんにち)自分(じぶん)(いのち)というものがあるのです。「(そう)(しょう)(たい)(りき)()(いん)(ねん)()(ほう)(とう)勤行(ごんぎょう)(なか)にも「方便品(ほうべんぽん)」に、(じゅう)如実相(にょじっそう)ということが()かれています。この「(そう)(しょう)(たい)(りき)()(いん)(ねん)()(ほう)」によって、(いま)自分(じぶん)(いのち)があるのです。こういう姿形(すがたかたち)で、こういう因縁(いんねん)のもとに、こういう性質(せいしつ)()って、そういう(からだ)、そういう(はたら)きがあって、(はじ)めて今の自分(じぶん)があるのだという、その因果(いんが)道理(どうり)を、しっかりと(おし)えていってあげるということが大切(たいせつ)なのです。
 「偶然(ぐうぜん)あなたはは()まれて()(わけ)じゃない。お(とう)さん、お(かあ)さんが(あそ)半分(はんぶん)に、あなたを()んだ(わけ)じゃない。」ということを、しっかりとその(ひと)(はな)し、(あやま)りを指摘(してき)してあげるということが大切(たいせつ)なのです。
  大聖人(だいしょうにん)(さま)は「如説(にょせつ)修行抄(しゅぎょうしょう)」という御書(ごしょ)(なか)に、 「法華(ほっけ)折伏(しゃくぶく)()権門(ごんもん)()金言(きんげん)なれば(つい)(ごん)(きょう)権門(ごんもん)(やから)一人(ひとり)もなく、せめをとして法王(ほうおう)家人(かじん)となし」と(おお)せです。
 「法華(ほっけ)折伏(しゃくぶく)にして権門(ごんもん)()()す」これが『法華経(ほけきょう)精神(せいしん)です。何事(なにごと)自行化(じぎょうけ)()ということが大切(たいせつ)なのです。自行(じぎょう)だけでもいけません。やはり(こころざし)()てて()()(ぎょう)ずる。これは信心(しんじん)だけじゃありません。一切(いっさい)自分(じぶん)行動(こうどう)規範(きはん)全部(ぜんぶ)これは自行化(じぎょうけ)()です。どういう職業(しょくぎょう)についても、どういう分野(ぶんや)(すす)んでも、自行(じぎょう)だけではいけません。自行化(じぎょうけ)()、やはり相手(あいて)(おも)いやり、また、相手(あいて)(おし)え、そうして後輩(こうはい)()()っていく。そうしたことは職場(しょくば)においても大切(たいせつ)なことなのです。ですから自行化(じぎょうけ)()実践(じっせん)ということは社会(しゃかい)においてもそうです。世界(せかい)()かって、やはり日本人(にほんじん)自行化(じぎょうけ)()精神(せいしん)()きていくことが肝要(かんよう)です。
 日本(にほん)が、地球(ちきゅう)温暖化(おんだんか)()けて、二酸化炭素(にさんかたんそ)削減(さくげん)努力(どりょく)しましょうと「京都(きょうと)議定書(ぎていしょ)」を作成(さくせい)世界(せかい)(うった)えても、企業(きぎょう)利益(りえき)優先(ゆうせん)し、アメリカをはじめ無視(むし)する(くに)(おお)いのも現状(げんじょう)です。最近(さいきん)世界(せかい)風潮(ふうちょう)(もう)第一(だいいち)主義(しゅぎ)で、マネーゲームに狂奔(きょうほん)し、(もう)かることが正義(せいぎ)としてきました。その結果(けっか)百年(ぴゃくねん)一度(いちど)という世界的(せかいてき)大不況(だいふきょう)(まね)き、世界中(せかいじゅう)疲弊(ひへい)しています。
 我々(われわれ)自分(じぶん)だけ()ければいいという(かんが)えではいけません。やはり大聖人(だいしょうにん)(さま)自行化(じぎょうけ)()精神(せいしん)(のっと)って、()貢献(こうけん)していくということが大切(たいせつ)なのです。ですから自行化(じぎょうけ)()は、ただ勤行(ごんぎょう)折伏(しゃくぶく)だけが自行化(じぎょうけ)()ではありません。自行化(じぎょうけ)()によって生きる。自行化(じぎょうけ)()によって日本(にほん)社会(しゃかい)(うご)かしていかなければいけない、ということを(かんが)える必要(ひつよう)があります。
 これは、政治(せいじ)権力(けんりょく)をもってどうこうするという小手先(こてさき)のものでなく、(ただ)しい因縁(いんねん)道理(どうり)によってしか、自分(じぶん)(ふく)世の中(よのなか)()わっていかないのです。遠回(とおまわ)りなようで、それが一番(いちばん)結果的(けっかてき)には近道(ちかみち)になるのです。また「如説(にょせつ)修行抄(しゅぎょうしょう)」の結論(けつろん)として、大聖人(だいしょうにん)(さま)は、「誰人(だれひと)にても()(しょ)(きょう)無得道(むとくどう)()地獄(じごく)根源(こんげん)法華経(ほけきょう)(ひと)成仏(じょうぶつ)(ほう)なりと(こえ)()しまずよばはり(たま)いて諸宗(しょしゅう)人法(にんぽう)(とも)折伏(しゃくぶく)して御覧(ごらん)ぜよ」ということをおっしゃっております。
 「誰人(だれひと)にても(おわ)せ」ということは世間(せけん)(ひと)(おそ)れてはいけない。相手(あいて)学者(がくしゃ)であろうと、あるいは知識人(ちしきじん)であろうと、(なん)であろうと、どういう立場(たちば)(ひと)であっても、折伏(しゃくぶく)(ひと)(おそ)れてはいけない。世間(せけん)(おそ)れるな。(ひと)(おそ)れるなということです。
 やはり私達(わたしたち)勇気(ゆうき)()って、上司(じょうし)であろうと、あるいはもっと私達(わたしたち)より(うえ)立場(たちば)(ひと)であろうと、その信心(しんじん)における(あやま)りを(あやま)りとしとて、きちっと()(しゃく)をしていかなければなりません。「対治悉(たいじしつ)(だん)」をもって相手(あいて)(すく)っていかなければいけないということであります。
 また、「(こえ)()しまず」ということを()われております。その(はなし)をする言葉(ことば)()しんではいけない。その(こえ)()しんではいけない。慈悲(じひ)(こころ)()しんではいけない。実践(じっせん)()しんではいけない。あるいはその労力(ろうりょく)()しんではいけない。勇気(ゆうき)()しんではいけないのです。
 (ほう)道院(どういん)女子部(じょしぶ)(とう)大生(だいせい)折伏(しゃくぶく)した(はなし)()きましたが、その(とう)大生(だいせい)がなぜ入信(にゅうしん)したか()かれると「教義的(きょうぎてき)なものが全て(すべて)納得(なっとく)出来(でき)(わけ)ではありませんが、とにかく(はなし)をしてくれた女性(じょせい)が、一生懸命(いっしょうけんめい)自分(じぶん)のために(はなし)をしてくれた(こと)(つた)わってきたから。」というものだったそうです。
 私達(わたしたち)自分(じぶん)(こころざし)()しみ、労力(ろうりょく)()しみ、言葉(ことば)()しみ、そうして相手(あいて)立場(たちば)()って相手(あいて)のもとへ何回(なんかい)何回(なんかい)(かよ)う、その誠意(せいい)()しんで、そしてただ「折伏(しゃくぶく)出来(でき)ない、折伏(しゃくぶく)出来(でき)ない」と、折伏(しゃくぶく)出来(でき)ないことを(なげ)いているのが現状(げんじょう)です。
 その実態(じったい)をよく冷静(れいせい)分析(ぶんせき)すると、結局(けっきょく)、その言葉(ことば)()しみ、慈悲(じひ)(こころ)()しみ、労力(ろうりょく)()しみ、誠意(せいい)()しんで、ただ「出来(でき)ない、出来(でき)ない」と()っているだけに()ぎない部分(ぶぶん)が、なきにしもあらずだと(おも)うのです。ですから大聖人(だいしょうにん)(さま)は「言葉(ことば)さえも、(こえ)さえも()しんではいけない」ということをおっしゃっている(わけ)すから、私達(わたしたち)もその大きな(おお)慈悲(じひ)()くし、その言葉(ことば)()くし、(こえ)()くし、労力(ろうりょく)()くし、誠意(せいい)()くし、努力(どりょく)()くして、やはり自行化(じぎょうけ)()にわたっての信心(しんじん)(まっと)うしていくということが大切(たいせつ)なのです

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