ホーム  > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第182号)
   
 
   成仏の利に違われば(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか】    
 
 四悉檀(ししつだん)と折伏(しゃくぶく)について その1
 
 
 今回(こんかい)は、青年部(せいねんぶ)の方より「四悉(ししつ)(だん)折伏(しゃくぶく)」について(はな)して()しいとの要望(ようぼう)がありましたのでお(はな)しさせていただきます。
 最近(さいきん)(とく)(かん)じるのは、青年部(せいねんぶ)(かた)(はな)して()しいと言う内容(ないよう)が、(とき)(かな)った重要(じゅうよう)なものばかりでありまして、そういう(こえ)()がることを非常(ひじょう)(うれ)しく、また(たの)もしく(おも)次第(しだい)です。
 (ただ)し、()きている以上(いじょう)種々(しゅじゅ)雑多(ざった)(なや)みが()てくることは当然(とうぜん)のことです。子供(こども)には子供(こども)なりの(なや)み、青年(せいねん)には青年(せいねん)(なや)み、壮年(そうねん)には壮年(そうねん)(なや)みとそれぞれある(わけ)です。御法門(ごほうもん)のことしか受け付(うつ)けないというつもりは(まった)くありません、(たと)えば「大聖人(だいしょうにん)(さま)夫婦(ふうふ)について(なん)()かれていますか?」とか「親子(おやこ)についてはどうですか?」など()いてみたいことがありましたら、遠慮(えんりょ)なく(もう)しつけて(くだ)さい。

 【摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)
 (みな)さんの(なか)には、折伏(しゃくぶく)()くだけで、(むね)(くる)しくなりうつむいてしまう(かた)もおられるかもしれません。
 諸経論(しょきょうろん)(ほとけ)()(どう)方法(ほうほう)として()かれてきたのが、この折伏(しゃくぶく)摂受(しょうじゅ)であります。摂受(しょうじゅ)とはしばらく相手(あいて)()()わせて、思想(しそう)見解(けんかい)仏法(ぶっぽう)(ちが)異議(いぎ)があってもそれを(ただ)ちに()(しゃく)することなく諸機(しょき)摂引(しょういん)する方法(ほうほう)()い、折伏(しゃくぶく)正法(しょうぼう)正義(しょうぎ)の上から衆生の邪義邪法を破折し正法(しょうぼう)()させる方法(ほうほう)()います。
 釈尊(しゃくそん)御化(ごけ)(どう)()てみると、爾前迹門(にぜんしゃくもん)のお(きょう)は、法華経(ほけきょう)人々(ひとびと)(みちび)くために(調機調(ちょうきじょう)(よう)()説法(せっぽう)()(ひと)()わせて(とく)(ずい)他意(たい)(おし)えであり、摂受(しょうじゅ)説相(せっそう)()かしたのに(たい)し、法華経(ほけきょう)衆生(しゅじょう)()(とと)った(うえ)で、衆生(しゅじょう)(ふつ)()(した)わせる(ずい)自意(じい)(おし)えであります。
 よって、()(きょう)成仏(じょうぶつ)(ゆる)さない二乗(にじょう)声聞(しょうもん)(えん)(がく))・女人(にょにん)悪人(悪人)成仏(じょうぶつ)(ゆる)し、また久遠(くおん)(じつ)(じょう)法華経(ほけきょう)(おし)えにおいて、釈迦(しゃか)三十五歳(さんじゅうごさい)(さとり)りを(ひら)いたのではなく久遠(くおん)過去(かこ)から仏となって輪廻(りんね)転生(てんしょう)してきていると()く。※)を()かすことは、そのまま()(ぜん)()()(やぶ)(ゆえ)折伏(しゃくぶく)説相(せっそう)()かしたものと()えます。
 その法華経(ほけきょう)の教えすら、末法(まっぽう)(じょく)(あく)時代(じだい)()ると大聖人(だいしょうにん)(さま)が、『(きょう)行証(ぎょうしょう)御書(ごしょ)』に、
 「(いま)末法(まっぽう)(いっ)ては(きょう)のみ()りて行証(ぎょうしょう)なく、在世(ざいせ)結縁(けちえん)(もの)一人(いちにん)もなし。(ごん)(じつ)二機(にき)(ことごと)()せり。(この)(とき)(じょく)(あく)たる当世(とうせい)逆謗(ぎゃくぼう)二人(ににん)(はじ)めて本門(ほんもん)肝心(かんじん)寿量品(じゅりょうほん)南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)(もっ)下種(げしゅ)()す。」
(おお)せであります。
 (すなわ)ち、釈尊(しゃくそん)()(ひゃく)(じん)(てん)(ごう)以来(いらい)(ぶっ)種化(しゅけ)(どう)は、正像(しょうぞう)二時(にじ)()きてしまい、末法(まっぽう)にはそうした釈尊(しゃくそん)とは(えん)のない(ほん)未有(みう)(ぜん)衆生(しゅじょう)のみ出現(しゅつげん)する(とき)なのです。
 そこで釈尊(しゃくそん)は、末法(まっぽう)衆生(しゅじょう)をも(すく)(ため)に、大慈悲(だいじひ)(うえ)から、末法(まっぽう)出現(しゅつげん)される本仏(ほんぶつ)相貌(そうみょう)()かし、上行(じょうぎょう)菩薩(ぼさつ)(しん)(ぽう)付嘱(ふぞく)し、末法(まっぽう)大法(たいほう)説明(せつめい)をされたのです。また、その()(たす)けるために天台(てんだい)伝教(でんぎょう)出現(しゅつげん)されたと(はい)せられるのです。
 大聖人(だいしょうじん)が『御義(おんぎ)口伝(くでん)』にて、
 「()妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)釈尊(しゃくそん)妙法(みょうほう)(あら)ず。(すで)(この)(ほん)(とき)上行(じょうぎょう)菩薩(ぼさつ)付嘱(ふぞく)(たま)(ゆえ)(なり)
(おお)せられるのも、(じつ)にこの(ところ)にあります。
 末法(まっぽう)法華経(ほけきょう)実体(じったい)は、上行(じょうぎょう)菩薩(ぼさつ)再誕(さいたん)内証(ないしょう)久遠(くおん)本仏(ほんぶつ)日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)一身(いっしん)所持(しょじ)される(ところ)であり、大聖人(だいしょうにん)(さま)御化(ごけ)(どう)(なか)において(はじ)めて法体(ほったい)意義(いぎ)内容(ないよう)()かされるのです。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)折伏(しゃくぶく)とは、(ゆい)(いつ)()(きょう)方軌(ほうき)であり、破邪(はじゃ)顕正(けんしょう)手段(しゅだん)でありました。その(さい)たるものが『四箇(しか)格言(かくげん)』であるといえます。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)御振舞(おふるまい)根本(こんぽん)は、(ほとけ)大慈悲(だいじひ)(うえ)での折伏(しゃくぶく)であり、勧持品(かんじほん)不軽品(ふぎょうぼん)(にょ)(せつ)修行(しゅぎょう)であります。この御慈悲(ごじひ)究極(きゅうきょく)として、
一念(いちねん)三千(さんぜん)()らざる(もの)には、(ほとけ)大慈悲(だいじひ)()し、妙法(みょうほう)五字(ごじ)(うち)にこの(たま)(つつ)末代(まつだい)幼稚(ようち)(くび)にかけさしめたもう」『(かん)心本尊抄(じんのほんぞんそう)
(おお)せの(ごと)く、下種(げしゅ)法体(ほったい)たる寿量(じゅりょう)文底(もんてい)(さん)大秘法(だいひほう)建立(こんりゅう)されたのであります。
 また、(さん)大秘法(だいひほう)建立(こんりゅう)されたということは、爾前迹門(にぜんしゃくもん)(ほう)はおろか法華本門(ほっけほんもん)脱益(だっちゃく)大法(たいほう)まで()すということになるのです。
 末法(まっぽう)(もん)法下(ぽうげ)(しゅ)正法(しょうほう)()くことによって、はじめて、(ほとけ)になる(たね)()えられる)の(とき)であり、(さん)大秘法(だいひほう)下種(げしゅ)()けた(もの)順逆(ぎゃくじゅん)(しん)じる(ひと)(しん)じない(ひと)(とも)成仏(じょうぶつ)できるのです。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)は『法華初心成仏抄(ほっけしょしんじょうぶつしょう)』に、
 「地獄(じごく)()ちても(ほとけ)になる法華経(ほけきょう)(みみ)()れるならば、これを(たね)として(かなら)(ほとけ)になることが出来(でき)る。それ(ゆえ)天台(てんだい)大師(だいし)(みょう)(らく)大師(だいし)()(こころ)

をもって、()いて法華経(ほけきょう)()くべきであると(しゃく)している。
 (たと)えば、地面(じめん)につまずいた(もの)が、かえって地面(じめん)()をついて()つようなものである。地獄(じごく)()ちるけれどもすぐに()かんで(ほとけ)になるのである。当世(とうせい)(ひと)はこれということもないのに法華経(ほけきょう)(そむ)(とが)によって地獄(じごく)()ちることは(うたが)いない。それ(ゆえ)、どのようにしてでも法華経(ほけきょう)()いて()()かすべきである。
 (しん)ずる(ひと)(ほとけ)になれる。(ぼう)ずる人は(どっ)()(えん)となって(ほとけ)になることが出来(でき)る。どのようにしても(ほとけ)(たね)法華経(ほけきょう)より(ほか)にない。」《意訳(いやく)
(おお)せであります。
 よって、末法(まっぽう)はどこまでも折伏(しゃくぶく)正意(しょうい)であることが理解(りかい)できるのです。
 (ただ)し、段階(だんかい)(てき)()(どう)としての摂受(しょうじゅ)当然(とうぜん)必要(ひつよう)になりますが、宗門(しゅうもん)全体的(ぜんたいてき)()(どう)としての摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)選択(せんたく)は、常に(つねに)御法主(ごほっす)上人(しょうにん)裁量(さいりょう)によります。一般(いっぱん)僧俗(そうぞく)は、その根本的(こんぽんてき)御指南(ごしなん)信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)していかなければなりません。
 なぜならば、末法(まっぽう)基本的(きほんてき)折伏(しゃくぶく)(おもて)ですが、摂受(しょうじゅ)すべき場合(ばあい)一時的(いちじてき)にあるからです。この(とき)一般(いっぱん)僧俗(そうぞく)においては、(しょう)(しゃく)是非(ぜひ)(めぐ)って見解(けんかい)()かれることがあり、未熟(みじゅく)部分的(ぶぶんてき)見解(けんかい)(おちい)ると、折伏(しゃくぶく)正意(しょうい)大義(たいぎ)名分(めいぶん)として、御法主(ごほっす)上人(しょうにん)背反(はいはん)することになるからです。
 池田(いけだ)大作(だいさく)正本堂(しょうほんどう)意義(いぎ)()げようとしたり、無許可(むきょか)御本尊(ごほんぞん)模刻(もこく)する(など)(ほう)(ぼう)(おか)した(さい)に、(にっ)(たつ)上人(しょうにん)(にっ)(けん)上人(しょうにん)創価学会(そうかがっかい)善導(ぜんどう)されようとしたことに(たい)して、顕正会(けんしょうかい)正信会(しょうしんかい)反抗(はんこう)して異説(いせつ)(とな)えるまでに脱線(だっせん)したのは、この筋道(すじみち)(わきま)えなかったからなのです。

如来(にょらい)寿量品(じゅりょうほん)第十六(だいじゅうろく)(いま)釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)は、(しゃく)()(みや)()でて伽耶(かや)(じょう)()ること(とお)からず、道場(どうじょう)()して阿耨多羅三藐三(あのくたらさんびゃくさん)菩提(ぼだい)()たりと(おも)えり。しかし、われは(じつ)成仏(じょうぶつ)してより已来(いらい)無量無辺百千万億那(むりょうむへんひゃくせんまおくな)由他劫(ゆたこう)なり」

 【四悉檀とは】
 (むかし)から竜樹(りゅうじゅ)『大智度論(だいちどろん)や、天台(てんだい)大師(だいし)『法華(ほっけ)(げん)()大聖人(だいしょうにん)(さま)御書(ごしょ)(なか)にも、(ほとけ)()(どう)には四つ(よっ)()(どう)姿(すがた)があるということが()かれています。それを仏法(ぶっぽう)言葉(ことば)では「四悉(ししつ)(だん)(よっ)つの(しつ)(だん)名付(なづ)けております。(しつ)(だん)の「(しつ)」というのは、ことごとくという意味(いみ)で、これは翻訳(ほんやく)しますと、ものごとが成就(じょうじゅ)する、あるいは究竟(くきょう)する、折伏(しゃくぶく)誓願(せいがん)するならばその折伏(しゃくぶく)成就(じょうじゅ)する、功徳(くどく)(ねが)うならばその功徳(くどく)成就(じょうじゅ)するということが、「(しつ)」ということであります。「(だん)」とは(ほどこ)すという意味(いみ)があります。 (したが)って天台(てんだい)大師(だいし)の『法華玄義』に、
(しつ)(だん)とは天竺(てんじく)(ことば)なり。(ほん)じて(翻訳(ほんやく)して)成就(じょうじゅ)究竟(くきょう)(とう)()す。(しつ)(ことば)(あまねし)なり。(だん)をば (はん)じて(ほどこし)()す。仏四法(ほとけしほう)()って(あまね)衆生(しゅじょう)(ほどこ)す。(ゆえ)(しつ)(だん)()うなり」
と言われております。
 この(しつ)(だん)は、日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)では折伏(しゃくぶく)意味(いみ)します。人はそれぞれ(かんが)(かた)境界(きょうがい)()(こん)(ちが)います。(ひら)たく()えば、性格(せいかく)()()ち・趣味(しゅみ)(この)みなどが(ひと)によって千差万別(せんさばんべつ)です。ですから、一方的(いっぽうてき)な、画一的(かくいつてき)()(きょう)だけでは、折伏(しゃくぶく)しにくい(めん)があります。折伏(しゃくぶく)円滑(えんかつ)(おこな)いやすくするために()かれた(ほう)()、それが四悉(ししつ)(だん)です。正法(しょうほう)時代(じだい)竜樹(りゅうじゅ)菩薩(ぼさつ)大智度論(だいちどろん)()かれたものを、日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)末法(まっぽう)相応(ふさわ)しい(かたち)(しめ)されました。折伏(しゃくぶく)(ぎょう)じていくうえで、心得て(こころえて)おく必要(ひつよう)があります。
 この四悉(ししつ)(だん)は、法統(ほっとう)相続(そうぞく)生活(せいかつ)において(ひと)正法(しょうほう)(おし)えていく場合(ばあい)に、非常(ひじょう)役立つ(やくだつ)方法(ほうほう)です。折伏(しゃくぶく)()()いたことは、(そく)生活(せいかつ)()かすことで快適(かいてき)にし、安穏(あんのん)境地(きょうち)()えていけるのです。それが日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)仏法(ぶっぽう)()ける醍醐味(だいごみ)です。
 この(よっ)つの(しつ)(だん)とは(なに)かと(もう)しますと、世界悉(せかいしつ)(だん)為人悉(いにんしつ)(だん)対治悉(たいじしつ)(だん)第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)()します。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)は、
 「()法門(ほうもん)四悉(ししつ)(だん)(こころ)()けて申すなれば、(あなが)ちに成仏(じょうぶつ)()(ちが)はざれば、(しばら)世間(せけん)普通(ふつう)()(もち)ゆべきか」『太田左衛門尉(おおたさえもんのじょう)御返事(ごへんじ)
(おお)せであります。
 我々(われわれ)は、(とき)には「しばらく世間(せけん)普通(ふつう)()(もち)ゆべき」ことを、四悉(ししつ)(だん)並行(へいこう)し、折伏(しゃくぶく)(かんが)える必要(ひつよう)があります。これは、折伏(しゃくぶく)短所(たんしょ)回避(かいひ)する御指南(ごしなん)です。
 「世間(せけん)普通(ふつう)()」とは、信心(しんじん)(はな)(まえ)常識的(じょうしきてき)言動(げんどう)心得(こころえ)信心(しんじん)(はな)しをする準備(じゅんび)調(ととの)えることです。折伏(しゃくぶく)する相手(あいて)気持ち(きもち)を、信心(しんじん)(はな)しが()(やす)状態(じょうたい)に、世間(せけん)普通(ふつう)()(もち)いて下準備(したじゅんび)入念(にゅうねん)(おこな)います。(かた)(とざ)ざした相手(あいて)気持(きもち)ちを(やわ)らかくさせるのです。「世間(せけん)普通(ふつう)()」には、以上(いじょう)意味(いみ)があります。
 準備(じゅんび)とは、日々(ひび)勤行(ごんぎょう)(しょう)(だい)根本(こんぽん)に、御本尊(ごほんぞん)(さま)から(いただ)智慧(ちえ)御法主上人猊下(ごほっすしょうにんげいか)御指南(ごしなん)(はい)し行うことです。この準備(じゅんび)(おこた)ることなく、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)言動(げんどう)()めていければ、折伏(しゃくぶく)順調(じゅんちょう)(すす)みます。
 四悉(ししつ)(だん)は、自分(じぶん)自身(じしん)我見(がけん)折伏(しゃくぶく)しないように、(いまし)められたものでもあります。折伏(しゃくぶく)確実(かくじつ)成功(せいこう)させるために心得(こころえ)るよう、日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)私達(わたしたち)()(がた)御指南(ごしなん)(のこ)されたのであります。
 この四悉(ししつ)(だん)法門(ほうもん)のうち、世界悉(せかいしつ)(だん)為人悉(いにんしつ)(だん)摂受(しょうじゅ)相当(そうとう)します。対治悉(たいじしつ)(だん)とは折伏(しゃくぶく)相当(そうとう)します。この三種(さんしゅ)(かり)()(どう)であるのに(たい)し、第一義悉(だいいちぎしつ)(だん)とは、この(しょう)(しゃく)二門(にもん)善導(ぜんどう)によって、真理(しんり)(ただ)ちに()いて衆生(しゅじょう)(さと)らせることを()します。
 楽欲悉(ぎょうよくしつ)(だん)ともいい、一般(いっぱん)世間(せけん)(ねが)(ほっ)する(ところ)にしたがって(ほう)()き、凡夫(ぼんぷ)歓喜(かんき)させ利益(りやく)(あた)えることです。『法華(ほっけ)(げん)()()(なか)に、この「世界悉(せかいしつ)(だん)」について、
大聖(だいしょう)(ほとけ))は衆生(しゅじょう)()かんと欲楽(よくぎょう)する((ほっ)する)(ところ)随順(ずいじゅん)して、分別(ぶんべつ)して(ため)正因縁(しょういんねん)世界(せかい)(ほう)()いて、世間(せけん)(しょう)(けん)()せしむ。(これ)世界悉壇(せかいしつだん)(そう)()づく」と()かれております。
 ですから私達(わたしたち)も、そのことを(こころ)()めて、信仰(しんこう)というのは、(なに)特別(とくべつ)修行(しゅぎょう)をしなければいけないとか、あるいは(なに)特別(とくべつ)生活(せいかつ)()いられるとか、あるいは偏頗(へんぱ)(ひと)つの(おし)えに(どく)されてしまって、社会(しゃかい)一般(いっぱん)常識(じょうしき)(つう)じないというものではありません。本当(ほんとう)(ただ)しい信心(しんじん)というものは、家庭(かてい)安穏(あんのん)にし、一人一人(ひとりひとり)(みずか)らの(こころ)健康(けんこう)身体(しんたい)健康(けんこう)というものを充実(じゅうじつ)発展(はってん)させて、自分(じぶん)人間性(にんげんせい)向上(こうじょう)品格(ひんかく)向上(こうじょう)、より(ゆた)かな心根(こころね)()った立派(りっぱ)人格者(じんかくしゃ)になっていくために絶対(ぜったい)必要(ひつよう)なのです。
 そうしていくと、人生(じんせい)のいかなる苦悩(くのう)にも()()てる自分(じぶん)になれるのです。(また)、ものごとをしっかりと全体(ぜんたい)(かん)にわたって、見渡(みわた)せる人間(にんげん)になっていけるのです。
 よく「仕事(しごと)(いそが)しくて信心(しんじん)をする(ひま)がない」ということを()(かた)がいます。(なに)も、仕事(しごと)(やす)んでまでとか、仮病(けびょう)使(つか)ってまで参詣しなさい・活動(かつどう)しなさいとは()いません。しかしながら、忙しいからこそ計画性(けいかくせい)をもって、テキパキと処理(しょり)していくということが必要(ひつよう)なのです。(いそが)しい大事(だいじ)(からだ)大事(だいじ)(いのち)であるからこそ、(こころ)(からだ)健康(けんこう)必要(ひつよう)なのです。ですから(いそが)しい(ひと)ほど本当(ほんとう)にその立場(たちば)立場(たちば)重要(じゅうよう)地位(ちい)()っています。そういう(ひと)であればあるほど、信心(しんじん)生活(せいかつ)健康(けんこう)と、(すべ)てが大事(だいじ)なのです。
 (いそが)しい(にん)ほど、仕事(しごと)にかまけて信心(しんじん)出来(でき)ないというのはおかしいのです。むしろ信心(しんじん)(とお)して仕事(しごと)()勝つ(かつ)信心(しんじん)(とお)して(ひと)信頼(しんらい)()られる自分(じぶん)になっていく。信心(しんじん)(とお)して福徳(ふくとく)()につける。
 また、これらの重要性(じゅうようせい)を、人々(ひとびと)(うった)(いし)えていくということが、言葉(ことば)()えて()うと「世界悉(せかいしつ)(だん)」ということなのです。
 仕事(しごと)(つう)じて、あるいは生活(せいかつ)(つう)じて、家庭(かてい)というものを(かんが)え、あるいは政治(せいじ)教育(きょういく)一般(いっぱん)諸々(もろもろ)社会(しゃかい)必要(ひつよう)なもの、そういうものを(とお)して、相手(あいて)自分(じぶん)とが、うまく話合(はなしあ)いの出来(っでき)関係(かんけい)を、まず自分(じぶん)がしっかりと(つく)って、そうしてそういう(おな)共通(きょうつう)話題(わだい)(なか)から、一歩(いっぽ)一歩(いっぽ)この信心(しんじん)(たい)する覚醒(かくせい)を、その(こころざし)()こしていくということが「世界悉(せかいしつ)(だん)」ということなのであります。
 こうして、私達(わたしたち)がそういう(ほう)()以上(いじょう)は、やはり、こちらも「世界悉(せかいしつ)(だん)」に()らして、それに相応(ふさわ)しい人間(にんげん)になっていくということが必要(ひつよう)であります。自分(じぶん)会社(かいしゃ)何一(なにひと)信頼(しんらい)されていない。友人(ゆうじん)(たち)(なか)でさえ信頼(しんらい)されていない。そういう(ちゅう)で、いくら一生懸命(いっしょうけんめい)世界悉壇(せかいしちだん)」を(もち)いて(ほう)()いても、だれも()いてくれません。相手(あいて)にもしてくれません。やはり、その(ほう)()以上(いじょう)は、こちらもそれに相応(ふさわ)しい人間(にんげん)になることが大切(たいせつ)であります。
 (みな)さんが、正宗(しょうしゅう)信心(しんじん)をしておられるということは、地域(ちいき)会社(かいしゃ)でも、多分(たぶん)存知(ぞんじ)だと(おも)います。その(なか)(みな)さんがいい加減(かげん)なことをしていますと「信心(しんじん)しているのに(なん)だ」とか「(えら)そうなことを()ったって、あいつの日頃(ひごろ)やっていることは(なん)だ」と()われてしまうのです。ですから、そういう(ふう)()われない人間(にんげん)()わせない自分(じぶん)になっていくことが、これ(また)世界悉(せかいしつ)(だん)」をもって(ひと)教化(きょうか)する以上(いじょう)大切(たいせつ)なことなのです。
 世間(せけん)(にん)は、御本尊(ごほんぞん)がどうだとか、大聖人(だいせいじん)教義(きょうぎ)がどうだとか、そういう尺度(しゃくど)日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)()ているのではありません。(みな)さん(かた)がどういう振舞(ふるま)いをするか、(みな)さんが何を()い、どういう姿(すがた)自分(じぶん)(たち)(せっ)するかという、そういう尺度(しゃくど)で、日蓮(にちれん)正宗(しょうしゅう)()法華講(ほっけこう)()ているのです。
 また、別名(べつめい)楽欲悉(ぎょうよくしつ)(だん)」とも()われています。これは相手(あいて)(ねが)うところに(したが)って、こちらも、それに相対(あいたい)して、そして(おな)土壌(どじょう)(なか)で、(ひと)(ひと)相手(あいて)(みちび)いていくということです。
 これは(また)非常(ひじょう)大切(たいせつ)なことであります。(みな)さんが折伏(しゃくぶく)()けて信心(しんじん)(いた)った経緯(けいい)(かんが)えてみますと、「(いの)りとして(かな)わざるはなし」ということを(こころ)から(しん)じて、入信(にゅうしん)されたと(おも)います。その「(いの)りとして(かな)わざるはなし」ということが、この「楽欲悉(ぎょうよくしつ)(だん)」なのです。(ほとけ)衆生(しゅじょう)(ねが)いや(のぞ)みに(たい)して、それを(かな)えさせて、歓喜(かんき)利益(りやく)信心(しんじん)(よろこ)びを(あた)えるのです。それを()して、(ほとけ)は「世界悉(せかいしつ)(だん)」をもって衆生(しゅじょう)教化(きょうけ)し、歓喜(かんき)(やく)(ほどこ)すということなのであります。

為人悉(いにんしつ)(だん)とは】
別名(べつめい)生善悉(せいぜんしつ)(だん)」ともいいます。(ひと)によって性欲機(しょうよくき)(こん)不同(ふどう)のために、(ひと)(おう)じて(ほう)()き、信心(しんじん)(いた)らしめる方法(ほうほう)です。
 日本(にほん)(せま)土地(とち)(なか)でも、江戸(えど)()大阪人(おおさかじん)九州(きゅうしゅう)男児(だんじ)など、()まれ(そだ)った環境(かんきょう)(なん)となく、そういう気質(きしつ)(ちが)ってきます。
 また、お(くに)(なま)りというのも、簡単(かんたん)には(なお)りません、故郷(ふるさと)(かえ)ったり、家族(かぞく)()えばすぐ()てきます。
 やはり(おな)理屈(りくつ)で、信心(しんじん)(うえ)でも(かなら)ずこういう傾向(けいこう)はあるのです。(たと)えば、自分(じぶん)(いえ)先祖(せんぞ)代々(だいだい)念仏(ねんぶつ)だったなら、その念仏(ねんぶつ)(いえ)()まれた(いのち)罪障(ざいしょう)が、宗教的(しゅうきょうてき)なことには一切(いっさい)無関心(むかんしん)()きてきたというような(ひと)であったとしても、わが()(うえ)(なが)れて()ているということを()らなければいけないのであります。
 大聖人(だいしょうにん)(さま)『佐渡(さど)御書(ごしょ)に、
 「(からす)(くろ)きも(さぎ)(しら)きも先業(せんぎょう)のつよくそみけるなるべし」
ということを(おお)せです。
 私達(わたしたち)がこの信心(しんじん)(とお)して、一人一人(ひとりひとり)(いのち)六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)(いのち)転換(てんかん)していくということは、ただ御本尊(ごほんぞん)(たも)ち、漫然(まんぜん)お題目(おだいもく)(とな)えてさえいれば、なんとなく、いつかは罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)されていくというような単純(たんじゅん)なものではありません。信心(しんじん)はいつも(もう)()げますように、「功徳(くどく)(くだ)さい。あれを(くだ)さい。これを(かな)えて(くだ)さい」と、ただ(もの)()いをすることが、大聖人(だいしょうにん)

【世界悉檀とは】

(さま)弟子(でし)として()きる(みち)ではないのであります。私達(わたしたち)は、この御本尊(ごほんぞん)命懸(いのちが)けで(たも)って、そうして大聖人(だいしょうにん)(さま)(おな)御精神(ごせいしん)()って、お題目(だいもく)(とな)えることが重要(じゅうよう)なのです。
 (しん)()()三業(さんぎょう)()いますが、(こころ)(くち)行動(こうどう)もやはり大聖人(だいしょうにん)(さま)御指南(ごんしなん)(とお)して、自分(じぶん)(いのち)(まっと)うすることが肝要(かんよう)です。大聖人(だいしょうにん)(さま)御精神(ごんせいしん)(たい)して一生懸命(いっしょうけんめい)勉強(べんきょう)をする。大聖人(だいしょうにん)(さま)御指南(ごしなん)(とお)して、仕事(しごと)従事(じゅうじ)する。そして大聖人(だいしょうにん)(さま)御指南(ごんしなん)(とお)して、(やまい)なら(やまい)克服(こくふく)していく。あらゆる(しょう)(ろう)病死(びょうし)一切(いっさい)(なや)みに(くる)しみに、その(かべ)にぶち(あた)たって、それを()()えて()く。常に(つね)大聖人(だいしょうにん)(さま)御指南(ごんしなん)(とお)してということを根底(こんてい)()いて、この生涯(しょうがい)()きていく、人生(じんせい)(まっと)うしていくときに、私達(わたしたち)(こころ)も、()(みみ)(はな)(くち)も、(いのち)一切(いっさい)大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)裏打(うらう)ちされた、六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)即身成仏(そくしんじょうぶつ)境涯(きょうがい)へと()まれ()わっていくのであります。
 ただお題目(だいもく)さえ(とな)えていればいい、ただ(もの)()いの信心(しんじん)をしていればいい、ということではないのであります。やはりそのことを(こころ)()いて、(すこ)しでも大聖人(だいしょうにん)(さま)御精神(ごんせいしん)近付(ちかづ)ける自分(じぶん)になる。(すこ)しでも自分(じぶん)振舞(ふるま)いを、大聖人(だいしょうにん)(さま)御義(おんぎ)(かな)自分(じぶん)振舞(ふるま)いになれるよう(こころ)がける。一人一人(ひとりひとり)がそうした六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)(いのち)へと()わっていけるように誓願(せいがん)し、その(うえ)御本尊(ごほんぞん)(しん)じ、題目(だいもく)(とな)え、()きていくということが大切(たいせつ)だと(おも)います。
 そうしますと、いつの()にか、いい加減(かげん)自分(じぶん)(こころ)脆弱(ぜいじゃく)(こころ)(また)怠惰(たいだ)(こころ)というものが淘汰(とうた)されて、大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)()らされた自分(じぶん)(こころ)()わっていけるのです。
 あるいは(ひと)()()、ものを()()自然(しぜん)と、本当(ほんとう)情愛(じょうあい)慈悲(じひ)()って、()ることができるようになります。
 (ひと)言葉(ことば)紛動(ふんどう)されないで、正邪(せいじゃ)判断(はんだん)できるような(みみ)()つことが出来(でき)ます。(くち)からは、大聖人(だいしょうにん)(さま)仏法(ぶっぽう)(かな)った言葉(ことば)(はっ)せられるようになります。折伏(しゃくぶく)()きましても、なんとかして相手(あいて)(すく)ってあげようという大聖人(だいしょうにん)(さま)(こころ)(したが)った言葉(ことば)に、いつのまにか()わっていけるのです。
 そういう(ふう)にして自分(じぶん)(いのち)がいつのまにか()わっていけるのだ、ということを(かんが)えて(いただ)きたいと(おも)うのであります。功徳(くどく)にも、すぐ(あらわ)れる(けん)(やく)と、なかなか(あらわ)れない冥益(みょうやく)とがありますが、顕益(けんやく)より冥益(みょうやく)のほうが(おお)きな功徳(くどく)でありまして、(いのち)(みが)かれ清浄(せいじょう)になっていくことは冥益(みょうやく)該当(がいとう)します。
 ですから信心(しんじん)はただ漫然(まんぜん)とやるのではなく、(すこ)しでも自分(じぶん)(こころ)(かんが)え、信心(しんじん)生活(せいかつ)大聖人(だいしょうにん)(さま)御指南(おんしなん)近付(ちかづ)けるように心掛(こころが)けながらお題目(だいもく)(とな)え、この信心(しんじん)(まっと)うしていって(いただ)きたいと(おも)うのであります。
 この「為人悉(いにんしつ)(だん)」とは、相手(あいて)立場(たちば)境遇(きょうぐう)(なや)みに()って、(くる)しみを()理解(りかい)してあげることが大切(たいせつ)です。その(うえ)で、相手(あいて)(すこ)しでも大聖人(だいしょうにん)(さま)御義(おんぎ)(かな)信心(しんじん)ができるように、また、(なが)い間に謗法(ぼうほう)(よご)れた(いのち)が、御本尊(ごほんぞん)(とお)して六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)(いのち)へと転換(てんかん)していくお手伝(てつだ)いをすることが、「為人悉(いにんしつ)(だん)」ということなのです。
 天台(てんだい)大師(だいし)『法華(ほっけ)(げん)()で、
 「大聖(だいしょう)(ほとけ)(さま))は(ひと)(こころ)(かん)じて(ため)(ほう)()きたもう。善根(ぜんこん)増長(ぞうちょう)して()善法(ぜんほう)(ほどこ)すなり」
ということをおっしゃっておられます。
 私達(わたしたち)はよく折伏(しゃくぶく)をするときに「この御本尊(ごほんぞん)(ふく)として(きた)らざるはなしの御本尊(ごほんぞん)ですよ」と()って折伏(しゃくぶく)をします。その「(ふく)として()たらざるはなし」ということは、その(ひと)その(ひと)(こころ)(ねが)いを()って、この御本尊(ごほんぞん)(おが)むわけです。そして、(ひと)(ひと)(ねが)いが御本尊(ごほんぞん)(さま)によって(かな)えられていく。これが(ほとけ)の、「為人悉(いにんしつ)(だん)」なのであります。
 私達(わたしたち)弘通(ぐつう)における「為人悉(いにんしつ)(だん)」の折伏(しゃくぶく)とは、病気(びょうき)(ひと)には病()克服(こくふく)した功徳(くどく)体験(たいけん)(はな)してあげる。夫婦(ふうふ)問題(もんだい)(なや)んでいる(ひと)(たい)しては、その夫婦(ふうふ)問題(もんだい)(なや)んだその(ひと)体験(たいけん)(はな)してあげる。仕事(しごと)(なや)んでいる(ひと)には、それを克服(こくふく)した(ひと)体験(たいけん)(はな)してあげる。
 そういうことが、全部(ぜんぶ)為人悉(いにんしつ)(だん)」につながっているのです。(すく)なくとも(また)折伏(しゃくぶく)自分(じぶん)のためにするのではなく、相手(あいて)立場(たちば)()って、相手(あいて)(すく)ってあげたいという一念(いちねん)が「為人悉(いにんしつ)(だん)」なのです。ですから、相手(あいて)立場(たちば)()って(しあわ)せを(いの)りつつ、何回(なんかい)となく(あし)(はこ)んで、相手(あいて)(こころ)()(ひら)いてあげるということが大切(たいせつ)であります。
 (にっ)(けん)上人(しょうにん)は「(すく)なくとも一(ひと)(ひと)(すく)うためには、その(ひと)二十回(にじゅっかい)三十回(さんじゅっかい)(あし)(はこ)んであげなさい」ということを()われております。それほど(あし)(はこ)んで誠意(せいい)()くさなければ、(ひと)というものは本当(ほんとう)のところはわかってくれません。本当(ほんとう)()()けた関係(かんけい)(むす)ぶということは、(とお)一遍(いっぺん)(はな)しでは絶対(ぜったい)(つう)じません。電話(でんわ)手紙(てがみ)だけでは(むずか)しい部分(ぶぶん)があります。(きら)われようが(うと)んじられようが、やはり相手(あいて)(いえ)何度(なんど)何度(なんど)(あし)(はこ)んで、相手(あいて)(はな)()える関係(かんけい)(つく)っていくという執念(しゅうねん)必要(ひつよう)だと(おも)います。これが自分(じぶん)(いの)りも相手(あいて)(いの)りも(とも)に「(ふく)として()たらざるはなし」という、生(しょうぜん)利益(りやく)につながっていくということを、しっかりと(こころ)()いて(いただ)きたいと(おも)います。
 とにかく、完璧(かんぺき)人間(にんげん)などどこを(さが)してもいません。過去(かこ)(あやま)ちの()人間(にんげん)などいません、しかし、どんな(ひと)であれ(ただ)しい御本尊(ごほんぞん)(さま)(まえ)(ただ)しく(いの)れば()わっていけるのです。「自分(じぶん)なんかが(はな)したって(だれ)()いてくれない」「散々(さんざん)(いろ)んな(こと)をしてきたから(いま)さら真面目(まじめ)な話など出来(でき)ない」などと自分(じぶん)卑下(ひげ)する必要(ひつよう)(まった)くありません。
 (よう)は、御本尊(ごほんぞん)(さま)素晴(すば)らしさを純粋(じゅんすい)(つた)えていきたいという一念でありす。
 ※続きは来月にお話しさせて頂きます。
皆さって参ろうではありませんか。


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