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   婦人部総会の砌
 
     
   みなさん こんにちは。慈本寺の小橋道芳と申します。
 四月とは思えないような気候ではありますが、このように会場は、華やかでかつ熱気に包まれた中、婦人部広布推進会が盛大に開催されましたこと、誠におめでとうございます。

 実は、私にとりましてこの広布推進会でお話しさせて頂きますことは、非常に有り難いことではありますが、一年で最も緊張する日であります。

 それは、大勢の御信徒の前でお話しさせて頂くことに不慣れという事もありますが、それ以上に、この東京第二教区の御住職方は、宗内でも第一線で多方面にわたって御活躍されている蒼々たる方々だからです。

 有り難いことに、教区の御住職様方と先日お会いしましたら、「今度の推進会で話すんだって。原稿は出来てるの?」とか「婦人部の方にお話するのは難しいよ~」と気にかけて頂きました。

 私が、「実は、何かヒントになるかと綾小路きみまろのDVDを買って見ましたが、確かにおもしろいのですが下品すぎて、御宝前で話すには不向きだと分かりました。」と答えましたら、

 「そうか、じゃあそれをネタにすればいいよ。」とアドバイス戴き「婦人部総会の話、楽しみにしてるからね~」と愛情のこもった激励を頂きました。

 前置きはこれぐらいにさせて戴いて、本題に入りたいと思います。

昔から、結婚という漢字を辺とつくりに分けて、「糸がよろしく、女のたそがれ」とひねくれて読まれております。さらに、夫婦とは「夫を女が箒で掃く」という読み方もあるそうです。

 二つを合わせますと、愁いを含んだなんとなく儚げな新妻も、そのうち強くなって、休日寝転がっている夫を、掃除の時にじゃまにして箒(今で言えば掃除機)で追い立てるようになってしまうという事でしょうか?

 離婚率が上がったとよく報道されますが、少々調べてみますと、明治時代の方が、今よりも離婚率は高かったようであります。これは、明治時代の女性は処女性よりも労働力として評価されており、再婚についての違和感がほとんどなく、嫁の追い出し・逃げ出し離婚も多かったこと、離婚することを恥とも残念とも思わない人が多かったことが理由とされているそうです。

 この離婚率も、大正・昭和初期には減少し、平成に入ってまた上昇傾向にあるようです。

さて、大聖人様は、夫婦の在り方について、実に細かくいろいろと述べておられます。さらには親子、兄弟、夫婦等、肉親のいわば本能にも近い愛情について、何度もふれておいでになります。

ここでは次の三点についてふれてみたいと思います。

第一に、妻は夫を信頼して頑張っていきなさいということについては、たとえば
 「いへ(家)にをとこ(男)なければ人のたましゐなきがごとし」(新編一四七六頁)とか、「女人となる事は物に随て物を随へる身也」(新編五二二頁)
といって女性を励ましておられます。

これを読み替えると、初めから夫のことをダメだと思うのではなくて、「女人となることは、夫にしたがって夫をしたがえる身となることである」ということですから、つまり、夫を信頼することが大事ですよということになります。

第二は、逆に夫の働きの陰で、夫を支え動かす妻の力の大切さについては、
 「や(矢)のはしる事は弓のちから、くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざは女のちからなり」(新編九五五頁)
と言われています。

つまり大聖人は、夫だから男だから、あるいは働きがあるから女より偉いとか、逆に妻のほうが働きがあるから夫より偉いとか、そういう夫婦の在り方についての固定観念は全く持っておられなかったのです。夫婦のありようはそれぞれの夫婦によって千差万別であっていい、ただ大事なことは夫婦が信頼しあうということであります。

そこで第三は、夫婦がお互いを尊重し合って暮らすことの大切さについてですが、それについては、夫婦を一羽の鳥・家の骨組みにたとえられています。

夫婦が別々になったら飛ぶことはできませんし、家に例えるなら、家が倒れてしまいます。

だから
 「夫たのしくば妻もさかふべし。夫盗人ならば妻も盗人なるべし。是偏に今生計りの事にはあらず、世々生々(せぜしょうじょう)に影と身と、華(はな)と果(このみ)と、根と葉との如くにておはするぞかし……夫と妻とは是くの如し」(新編987頁)
 「女人はおとこを財とし、おとこは女人をいのちとす」(新編1349)
ということがもっとも大切であります。

夫婦がおたがいを「財」とし、「命」とするような、何ものにもかえがたい存在として尊重しあい、大事にしあう結びつき。それこそ夫婦のあるべき姿であると大聖人様は述べられました。夫婦は二をもって一とし、はじめてその働きが全うするのであります。? 

 現代の夫婦のあり方とは多少違うかもしれませんが、夫婦の本質は普遍であります。夫婦となることは過去世からの因縁であり、決して偶然では無いのです。

 大聖人様は、

 『心地観経に云く「有情輪廻して六道に生ずること 猶 車輪の始終(しじゅう)無きが如く 或いは父母と為り 男女と為り生生世世(しょうじょうせぜ)互いに恩有り」等云々』(新編三四四頁)

と仰せであります。

 皆さんの御主人は、一年中素足に革靴を履いて 女性に甘い言葉を囁くタレントとは ほど遠いかも知れません。

 中には、気の利いたこと一つも言わない御主人に、幻滅している方もいるかもしれません。

 しかし、現実の生活の上で、御本尊様を信じ共に歩んでいる伴侶ほど頼もしい相手は居ません。

 しかも、厳格に勤行をし、御仏智を頂いて、正直で素直な性格であれば、必ず大成し大きな傘となって家族を守ってくれるでしょう。

 皆さんの御主人はどうですか?

 今日は、是非とも御主人を見直す日にしていただきたいと思います。また、中には残念ながらまだ信心を出来ない御主人もおられるかも知れません。ただ、信心をしないことを嘆くのでは無く、今日こうやって推進会に行くことを認めてくれている訳ですから、その部分では感謝しなければなりません。

また、皆さんは、妻であると同時に母でもあります。

母親の役目は、優しさや慈愛です。貪むさぼり・瞋いかり・癡おろかの三毒に左右されることなく、御題目を唱えて変毒為薬し、優しさと慈愛に満ちた人格で、子供を育成することが必要です。

子供の微妙な心の変化を見逃すことなく、日々勤行唱題を根本に五感を鋭く磨く必要があります。五感を常に磨くことで微妙な子供の心理が分かるはずです。子供に家事や仕事で気持ちが集中出来ない問題もありますが、「柔和忍辱の衣」を心がけ忍耐力をもって対応することが大切です。

様々な自分自身に力がないことを御本尊様から御教示いただき、それがまた智慧に変わり、子育てに活かされるはずです。

子どもを育てるということは、親の大切な仕事ですが、同時に仏道の功徳を積むことでもあるのです。それは親の子でありながら、御本尊さまの子であるからに他なりません。

 大聖人様は、四条金吾に子供が生まれた際には

『就中 夫婦共に法華の持者なり 法華経流布あるべきたね(種)をつぐ所の 玉の子出で生れん 目出たく覚え候ぞ』(新編四六四頁)
と仰せであります。

 このように、功徳を積むということは、じつは何気ない日常生活の中にたくさん潜んでいるように思います。

 夫婦喧嘩は、法統相続にマイナスとなります。子供が幼少の頃は、判断基準が未熟なため、心に多くの障害を植え付けトラウマを形成しかねません。夫婦喧嘩をする暇があるなら、御本尊様に向かう時間に費やしましょう。夫婦喧嘩は、一家和楽を破壊する原因となります。夫婦喧嘩は、三毒が強盛になるため心が汚れていることを物語っています。唱題をして心の汚れを御本尊様に洗い流して頂くことが必要です。夫婦で御本尊様に向かう姿を見て、子供は育ちます。そして自然と勤行唱題を覚えていきます。

 要は、どれだけ真剣に子供の将来を思い、御本尊様に願っていけるかに尽きるのです。

 次に信心のあり方についてお話し申し上げます。

大聖人様は『妙一尼御前御返事』にて

『夫信心と申すは別にはこれなく候。妻のをとこをおしむが如く、(乃至) 親の子をすてざるが如く、子の母に はなれざるが如くに(乃至)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり』
と御指南されています。

 この御文の前段には、大聖人様御自身が、竜ノロの死罪、伊豆・佐渡の流罪は過去世からの宿業であり、過去の重罪が今生の信心により軽く現れたものと示され、その中で、涅槃経に説かれる例えを引かれています。

 経文は大変長いので通釈すると、

 「身寄りも助ける人も住む家もなく、病と飢えに苦しむ貧しい女性がほうぼう回ってようやく泊めてくれる家を見つけました。しかし、そこで女性は子供を産んだので、迷惑がった主人に追い出されました。

 女性は生後間もないその子を抱いて余所の国を目指しました。道中は、暴風雨や寒さが襲い、蚊やアブ、蜂、毒虫などに狙われる大変なものでしたが歩き続け、大きな河にぶつかりました。

 河を渡らなければ目指す国に辿り着けないので、子供を抱いて渡りましたが、河の水はとても急で流されてしまいました。女性は必至に子供を抱き、離さなかったのですが、急流に呑まれてついに母子共に河に沈んでしまいました。

 しかし、どんな大変な状況でも子供を守ろうとした慈恵の功徳によって、女性は命終の後、梵天に生じた」というものです。

 釈尊は続けて、文殊師利菩薩に対し

 「正法を護ろうとするならば、貧女が恒河に在って子供を愛念するあまり身命を賭した如くしなさい。

 そうすれば、貧女が、自分は子供を守りたいだけで、天に生じたいなど願わずとも梵天に生じたように、解脱を求めずとも得られる」
と仰せられています。

 このお経文を大聖人様は御白身に当てられて、貧しいとは法財(正法の信によって積んだ功徳)がないこと、女性とは少し慈悲のある者、客舎とは娑婆世界、子供とは法華経の信心・了因の子、追い出されるとは流罪、産後間もないとは信仰して間がないこと、悪風とは流罪の勅宣、蚊虻とは無智な人に悪口を言われること、母子共に水に没するとは、最後まで法華経の信心を捨てずに頭を刎ねられたこと、梵天に生ずるとは仏界に生ずること、と示されています。

 因みに最初の、貧女が病や飢えに苦しむとは、自らの罪障に苦しむことです。

 大聖人様御自身は、御本仏としてのお振る舞いですから、罪障などあるはずもないのですが、もったいなくも示同凡夫の上から御身に当てられて仰せられるのは「私もそうだから、お前達もいちいち疑わずに、真っ直ぐ精進しなさい」と、弟子檀越の信仰の指針を定められたものと拝せられます。それは、法難をはじめとして、何かあると不信を抱く人が、大聖人様御在世中にも沢山いたということです。

我が慈本寺の講中の方を見ますと、皆さんそれぞれに悩みがあり、次々と起こる諸問題にも、「なんでこうなるの?」という疑問を信心で飲み込んで、必死に信行に励まれています。

 とにかく、御題目を唱えて一歩一歩階段を登るように、障害を乗り越え、そして、現在は幸せであり、それが御本尊様のお陰、さらに、その恩返しをしたいと決意されている方もおります。

まさに「諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし」との、大聖人様の仰せのままの心持ちです。

大聖人は、『南条殿女房御返事』にて

『夫れ水は寒(さむさ)積れば氷と為る・雪は年累(かさな)つて水精と為る・悪積れば地獄となる・善積れば仏となる・女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。』(新編一二二七頁)
と女性の業の深さを述べられていますが、一方で、

『この法華経のみに、「この経を受持する女性は、他の一切の女性に優れるだけでなく、一切の男性をも超えている」と説かれています。所詮、たとえ一切の人々に悪く言われたとしても、女性にとっては、最愛の人と思う男性に愛おしく思われる事を超える喜びはないでしょう。それと同様に、一切の人が憎むならば憎めばよい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏をはじめとして、梵天・帝釈・日天・月天等にさえ愛おしく思っていただけるならば、何の不足がありましょうか。法華経(御本尊様)にさえ、誉めていただけるならば、何の不足がありましょうか。』(四条金吾女房御返事 新編七五六頁 取意)

と仰せであります。

 これほど有り難く、心強い御指南はありません。この御文は、もちろん男性にも通じます。正法を信受している我々は、常に御本尊様に護られているのです。

 最近よく使われる言葉に「勝ち組・負け組」があります。色んな場合に使われています。例えば、年収であったり、正社員かどうか、結婚しているかどうか、子供がいるかどうかなどです。

 人をこういう些末なことで線引きすること自体、おかしいのですが、私達は目先の損得や条件より、大切なものがある事を知っています。ですから我々は「勝ち組か 負け組か」と言われれば、勝ち組です。

しかも、広大無辺なる御本尊様の功徳に浴し、過去の先祖も救い・現在の罪障も消滅させ、来世は善処(ぜんしょ)に生まれると約束されていますので、これほどの勝ち組はおりません。

大聖人様は『上野殿御消息』に
 「我より劣りたらん人をば我が子の如く思ひて一切あはれみ慈悲あるべし」(新編九二二頁)
と仰せです。

自分が唯一最高の仏法にめぐり会って、幸せへの道を知ったのであれば、他の人へも自分の子の様に思い、教えて共に幸せになっていこうと願っていくべきで

正しく唱題を重ねると、まさに妙法の不思議なはたらきによって、自他の幸福の実現のために祈れるようになり、慈悲の心が生じてきます。 そうなると、先程から言われている日如上人の御指南を素直に拝する事が出来、自然と御命題達成へと体が動いて行けると思います。 どうか、本日参詣の皆様には、この推進会でお話し下さった体験発表・指導の数々を胸に刻んでご精進されますことを心よりお祈り申し上げ、本日の話とさせていただきます。

 ご静聴誠にありがとうございました。 

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