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 ()(いと)い悲しめる生死(しょうじ)は、法身常住の(みょう)理にて(あり)けるなり

 
 
 三世の生命について 
 
 
 死は終りではない

 死の先に何があるのか?ということは、古来より人々が(なや)み考えてきたことであり、出した答えも様々あります。
 先日ある地区の座談会でもこの話になり、生命が永遠であるという事が、信じられないという意見も出て、活発な議論が展開されました。
 本日は、大聖人様はどう(おお)せになられ、我々はどう信受(しんじゅ)しなければならないか、限られた時間ではありますがお話ししたいと思います。
 一般的(いっぱんてき)に、「人は()くなっても生まれ変わる。」と言われても()()れがたいようです。
代表的な意見は、
 「私は過去世を(おぼ)えておりません。体験として実感できません。したがってあるともないともいえません。」
「私の祖母は“霊媒(れいばい)”ができます。私の過去世も言い当てます。私はそうゆうのもあるんだろうと思います。」
「過去世、現世、来世がある事で現世をよく生きようと思わせる事が、宗教の役割であればそれもあるのかなと思います。」
などです。
 よくテレビなどで、「私の前世を(うらな)ってもらったら、中世の貴族のお(ひめ)(さま)だったと言われた。」と笑いながら言う芸能人がいますが、占う側のいい加減さにうんざりし、占ってもらう側の単純さに(おどろ)きます。
 人々は、「死んだらそれで終わり」と強がっていても、不安や恐怖(きょうふ)(いだ)くのは何故(なぜ)でしょうか?本能的に、仏の教えを知らなくても、何かを感じているのではないでしょうか。
 余談になりますが、右翼(うよく)団体と名乗る人から、「北方領土問題の記念誌が出来たので8万円で買ってくれたら、そちらの悪いようにはしない。協力して()しい。」と執拗(しつよう)に電話が来ました。最初は相手にせず、家内にも「非通知の電話を取らないように。」と(もう)(わた)しました。しかし、家内は「信者さんだったら困る。」と言っては電話を取って、こちらに(まわ)すので、いい加減ウンザリした私は、右翼(うよく)の人に「こんな所へ電話してたかるようなマネをして、良い死に方しないよ。」と言いましたら「わしゃあ、三途(さんず)(かわ)(わた)ろうとは思うとりませんのじゃ。」と言うので内心しめたと思いながら「あのね?三途の河どころじゃないよ。地獄(じごく)の苦しみって、未来(みらい)永劫(えいごう)に続くし、あなたが生まれ変わってきてもまだ続くよ。お金は出せないけど、お話しは聞くから、お寺に来てね。」と(やさ)しく言ったのですが、それ以来、二度と電話はかかって来ませんでした。
 さて、大聖人様は、三世の生命、換言(かんげん)すれば永遠の生命について、「現世(げんせ)後生(ごしょう)」「現当(げんとう)二世(にせい)」と表現されています。現世とは今の世、後生とは次に生まれてくる世ということであり、御書の至る所で御指南されています。
 また、「現当二世」とは先の意味と同じで、現世と当世(来世)という事であり、御本尊(ごほんぞん)様の右上にも「(ため)現当二世」とお(した)めになられています。現当二世の大利益とは、現世には宿命が変わって幸せになり、後生においても大楽を得るという事です。
 『法華経(ほけきょう)薬草(やくそう)喩品(ゆほん)()には「()(もろもろ)衆生(しゅじょう)(これ)の法を聞きおわりて、現世安穏(あんのん)にして、後に善処(ぜんしょ)に生じ、道をもって(らく)を受く」と、大切な(みょう)文があります。これは、決して観念上の気休めではありません。大聖人様の教えを信奉(しんぽう)する者は、三世を信じなければ、本当の意味で大聖人の教えを信解することは出来ないのです。


 連続する生命

 まず、生命が三世にわたって連続している、ということについて、一般的(いっぱんてき)な道理の上から考えてみたいと思います。
 現代の科学で「質量(しつりょう)不変(ふへん)の法則」というものがあります。
これは、宇宙に存在しているものは、たとえ形が変わっても、その絶対的な質量は変わらない、それを構成している分子の数は不変である、ということです。
 たとえば、紙に火をつけて燃やしますと、その紙は灰になって紙という形での存在はなくなります。では「無」になったのかといえば、そうではありません。紙を構成していた分子が空気中の酸素と結合し (これを燃焼(ねんしょう)といいます ) 、紙は(じん)(ぱい)へと変わりましたが、紙を構成していた分子それ自体は、なくなるわけでも、減るわけでもありません。酸素と化合して、別の形となっただけのことです。
 これを「質量不変の法則」というのです。しかして「宇宙間の(すべ)ての存在が形は変わっても無くなってしまうことはない、質量不変の法則で永遠に存在している」といいながら、ただ一つ生命だけは、死ねば無になってしまう、というのでは、実に整合性(せいごうせい)のないおかしな話であります。
 仏法では、この「質量不変の法則」と同じように、「私(たち)の生命も、生から死へ、死からまた生へと、形を変えながら、永遠に存在している」と説くのです。
 死は決して終りではありません。生も死も、永遠の生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎません。生命そのものは新たに生ずるものでもなければ消滅(しょうめつ)するものでもないのです。これを「本有(ほんぬ)常住(じょうじゅう)」といいます。
 「本有(ほんぬ)」とは、我らの生命は、神が作ったとか(だれ)が作ったなどというものではなく、大宇宙と共に本から有るということ、また「常住(じょうじゅう)」とは、一瞬(いっしゅん)の断絶もなく存在し続けているということです。
 この生命の本質について大聖人は『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、
『生と死の二つの現象を、生命そのものの新たな発生とか消滅(しょうめつ)と思うのは夢の理であり、妄想(もうそう)である。もし本有常住の(さとり)(もっ)()が生命の本質を見れば、生ずべき始めも無いのであるから死すべき終りもない。まさに生死を(はな)れた無始(むし)無終(むしゅう)の存在なのである。したがってこの生命は、劫火(ごうか)にも焼けることなく、水災にも()ちることなく、刀にも切られず、弓矢にも射られるものではない。また芥子粒(けしつぶ)のような小さなものの中に入れても、芥子粒(けしつぶ)が広がったり心法が縮まったりすることもない。
 逆に虚空(こくう)の中に遍満(へんまん)させても、虚空(こくう)が広すぎたり、心法が(せま)いということもない』(意訳)と。
 これすなわち、大宇宙と共に常住する我々の生命の不可思議な本質を御指南(ごしなん)下されたものであります。


 なぜ生死があるか
 では、この本有常住の生命になぜ生死があるのかといえば、生死は生命が常住する上での(みょう)理なのです。
 換言(かんげん)すれば、生命は一瞬(いっしゅん)たりとも静止しているものではなく、絶えず変化し、生死・生死を()(かえ)しながら常住しているのです。このことは我らの生命だけではありません。およそ宇宙にある万物はみな因縁(いんねん)によって生じ、因縁(いんねん)によって(めつ)しているのです。
 しかし形の上に生滅(しょうめつ)はあっても、その質量は不変であり、エネルギーは不滅(ふめつ)です。さらに大きく見れば、宇宙そのものも成・住・壊・空という生滅(しょうめつ)のリズムを()(かえ)しつつ存在しているのです。
 人間の生命もまた(しか)り、生死・生死を()(かえ)しながら、大宇宙と共に常住しているのが実相(じっそう)なのです。
 ゆえに大聖人は、
 「我()(いと)い悲しめる生死は、(ほっ)(しん)常住(じょうじゅう)(みょう)理にて有けるなり」(『色心二法抄(しきしんにほうしょう)』)と。
ここにいう「(ほっ)(しん)」とは生命(せいめい)のことです。
また「生死(しょうじ)二法(にほう)一心(いっしん)(みょう)用、有無(うむ)の二道は本覚の真徳」(『生死(しょうじ)一大事血脈抄(いちだいじけつみゃくしょう)』)とも(おお)せられています。
『生死という現象は、生命そのものに(そな)わる不可思議な作用であり、また「有無(うむ)」すなわち「生」は形づくられるから「有」、「死」は目に見えぬ無相(むそう)の状態になるから「無」、この有相(うそう)無相(むそう)の変化も、永遠の生命を覚知した目で見れば、本有(ほんぬ)の生死・本有の有無(うむ)となる』との意です。

 ところで凡夫(ぼんぷ)が「死は生滅(しょうめつ)、すべての終り」と思うのは、死によって生命が無相(むそう)の状態になることを、(そく)「無」と錯覚(さっかく)するところから起きるのです。
 しかし無相(むそう)とは、姿・形はないがそのものは存在しているという状態なのです。たとえば空中に存在する紫外線(しがいせん)・赤外線・電波などは、肉眼(にくがん)では姿・形をとらえることはできません。
 しかしその存在を疑う者はいないでしょう。無相を「無い」と即断(そくだん)してはいけないのです。仏法では死後の生命を「中有(ちゅうう)」といいまして、中有の生命は無相なのです。
 『涅槃経(ねはんきょう)』には、
 「中有の五陰(生命本源の五要素たる色・受・想・行・識)は肉眼(にくげん)の所見に(あら)ず、天眼(てんげん)の所見なり」と説いています。
 この無相の生命が、父母を(えん)として肉体を形づくり相を現わすのが「生」であり、組織した色法(肉体)を大宇宙に還元(かんげん)して再び無相の心法に帰するのが「死」であります。
 このことを『色心二法(しょう)』には、
 『天地冥合して有情(うじょう)・非情の五色とあらはるる(ところ)を生と()い、五色の色(かえ)って本有無相(ぬむしょう)の理に帰する(ところ)を死とは()うなり』と説かれています。
 「天地」とはここでは父母の意であります。これらから、生死という現象が、永遠の生命における有相から無相、無相から有相へという存在形態の変化に過ぎないことがわかると思います。
 そして大事なことは、我々の生命はこの生死をくり返しながら、過去世・現世・未来世と、三世にわたって連続し、これに(ともな)い幸・不幸の因果も(くさり)の輪のごとく三世につながっているということなのです。


 仏法の道理から三世の生命を考える
 生命の三世にわたる連続の中で最も難解なのは、死後の生命が再び生まれ出るということではないでしょうか?
 まず『前世がある』ということですが、我々は、生まれながらにして、(みな)、差別をもってこの世に誕生しています。
 これについて説明すれば、死んでから再び来世の生を受けるまでの中間の生命を「中有(ちゅうう)」といいます。前述のごとく中有の生命は姿・形もなく、肉眼(にくがん)で見ることはできません。いわゆる無相の状態です。
 生命が中有(ちゅうう)にある期間については、あるいは七日、乃至(ないし)四十九日、あるいはさらに長期と、長短不定ですが、
『極悪・極善には中有(ちゅうう)なし、極善の人は直ちに成仏(じょうぶつ)す、極悪(ごくあく)の者は直ちに(あく)(しゅ)()つ』(『十王讃歎抄(じゅうおうさんたんしょう)』)とあるように、死後直ちに成仏(じょうぶつ)する極善の人と、直ちに地獄(じごく)に生ずる極悪(ごくあく)の者の中有(ちゅうう)は限りなく短く、無いに等しいのです。

 ゆえに中有(ちゅうう)は極善・極悪を除いた一般(いっぱん)について論じられるところであります。『本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)』には、臆病(おくびょう)のゆえに信心を(つらぬ)けなかった(どう)善房(ぜんぼう)の死去に際し、大聖人が(じょう)顕房(けんぼう)(おお)せられた次の御文(おんふみ)があります。
()道善御房(ごぼう)師匠(ししょう)にておはしまししかども、法華経(ほけきょう)故に(ゆえに)地頭(じとう)におそれ(たま)いて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ(たま)いぬ。後にはすこし信じ(たま)いたる やうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ、おぼつかなし、地獄(じごく)まではよもおはせじ、(また)生死をはなるる事はあるべしともおぼへず、中有(ちゅうう)にやただよひましますらむ、と(なげ)かし』
と、極善でも極悪でもない道善房のゆえに、直ちに地獄(じごく)とも思えない、さりとて成仏(じょうぶつ)するとも思えない、ゆえに「中有(ちゅうう)にや、ただよひましますらむ」と(おお)せられるのです。
 また大聖人は、一般(いっぱん)凡夫(ぼんぷ)の死から中有(ちゅうう)に至るまでの状態を、(たと)えを(もっ)てわかり(やす)く次のように説かれています。
『人、一期の命()きて死門に(おもむ)んとする時、断末魔(だんまつま)の苦とて、八万四千の(ちり)労門より色々の病起って(きそ)い責むる事、百千の(ほこ)(けん)(もっ)(その)の身を切り()くが如し。(これ)()って(まなこ)(くら)く成って見たき者をも見得ず、舌の根すくんで()いたき事をも()い得ざるなり。――(たましい)の去る時は目に黒(やみ)を見て、高き(どころ)より底へ落ち入るが如くして(おわ)る。さて死してゆく時、(ただ)独り渺々(びょうびょう)たる広き野原に迷う、(これ)中有(ちゅうう)の旅と名くるなり。されば(みち)にゆかんとすれども求むべき()(りょう)なく(また)(やみ)き事闇夜(やみよ)の星の如し』(『十王讃歎抄(さんたんしょう)』)と。
 さて、このような中有(ちゅうう)にある無相の生命が、生前の(ごう)力によって、生まれるべき父母を定めて胎内(たいない)に宿るのです。この母胎(ぼたい)に入った極微(ごくび)の生命を、「(しき)」といいます。
 すなわち識とは、父母の精血・赤白の二滯(受精卵(じゅせいらん))に宿った心法であり、「識神」ともいわれます。 大聖人様は、『我()()の根本を(たず)ね究むれば、父母の精血・赤白二滯和合して一身と()る』(『始聞仏乗義』)
 また、『(ぎょ)(ちょう)を混丸して赤白(せきびゃく)二滯とせり、()の中に(しき)(じん)をやどす』(『佐渡(さど)御書(ごしょ)())と(おお)せであります。
 さらに日(かん)上人(しょうにん)は、中有(ちゅうう)の生命が母胎(ぼたい)に宿る過程について、
 『衆生(しゅじょう)、全生に善悪の(ごう)を作り(おわ)って死して中有(ちゅうう)にある時、()(ごう)力に()り、()生処(しょうしょ)の父母の交会(こうえ)を見て愛心を起こし胎内(たいない)にやどる、これを識と()うなり。識と()うはココロ (心法)なり」と御指南(ごしなん)されています。

 こう見てくれば、親と子の生命は本来別々のものであることが理解できます。親が子を作るのでもなければ、子は親の延長でもない。それぞれ独自の生命が、宿習(しゅくじゅう)によって親子の(えん)を持つにすぎないのです。
 ゆえに大聖人は、
 『父母となり、()の子となるも、必ず宿習なり』(『(じゃく)日房(にちぼう)御書(ごしょ)』)と(おお)せられるのです。
 したがって邪見(じゃけん)の親を持つのも、あるいは()()に苦しめられるのも、お(たが)いに親となり、子となる宿習によるのであります。
 ゆえにもし親が信心して自分の宿習を変えれば子が変化し、また子が信心して境界を変えれば親も変わってくるのである。

 また、遺伝ということを仏法ではどう見るかという問題について、少し述べます。親の形質は遺伝子によって親から子、子から孫へと()()がれます。この限りにおいては、子は親の延長のように見えますが、仏法はさらに深く親子の関係を見つめます。
 すなわち遺伝子により子が親の形質を()()ぐことは事実ですが、そのような遺伝子を持つ親のところに生まれるということ自体が、過去世の(ごう)力による宿習なのです。
 あくまでも親子の生命は別々であって、親は(えん)にすぎません。ゆえに同じ親から生れた兄弟でも、性格・果報(かほう)はそれぞれ異なるのです。
 (えん)は同一でも、過去世からのそれぞれの生命が異なるからにほかならないのです。


 『死後の無差別』はありえない
 一般的(いっぱんてき)に、「死ねば(みな)、どんな人でも差別なく、一様に光の世界に入って行く」などということも言われますが、これも絶対にありえないことです。
 もし、それがありえるのなら、なぜ臨終の後の死相(しそう)に、変化が出るのでしょうか。
日蓮大聖人は、
『一代聖教(しょうきょう)の論師・人師の書釈(しょしゃく)あらあらかん(勘)がへあつ(集)めて(これ)明鏡(めいきょう)として、一切(いっさい)諸人(もろもろのひと)の死する時と並びに臨終の(のち)とに引き向けてみ候へば、すこ(少)しもくもりなし』
(おお)せです。
 つまり「一切(いっさい)の人の死ぬ時の状態、または死んだ後の死(そう)の状態を、経典(きょうてん)に照らしてみれば、一点の(くも)りもない。大謗法の者は(みな)地獄(じごく)(しょう)になるし、正しい仏法を行じた者は、成仏(じょうぶつ)(しょう)を現ずるのである」と(おお)せられ、すべて、経典(きょうてん)に説かれているとおりだ、と断ぜられています。
 そして事実、我々も、その例を数多く見てきております。その体験の上からいっても、まさに、本当に(くも)りがなく、経典(きょうてん)に説かれているとおりなのです。
 であるならば、死後の生命は、その境涯(きょうがい)に厳然たる差別があるはずです。
 また、因果の(ことわり)の上からいっても、生前に悪事をなした者と善事をなした者が、死後に同じ果報を受けるなどということは、絶対にありえません。
 悪因によって悪果が生じ、善因によって善果が生じる、というのが道理であって、悪因・善因も、死んでしまえば全て善果になるなどという、こんな馬鹿(ばか)なことがあるはずがないのです。
 なお、また、『臨終の相』に対する批判として、「臨終の相が人によって違うのは、死後の状態を表わしているとはかぎらない。あるいは、ただ生前の生き様の結果を表わしているのかもしれないではないか」などと言う人もいます。
 死ぬ時の相に『成仏の相』とか『地獄の相』の違いがあるというだけなら、そうも言えるかもしれませんが、しかし、苦しそうな相で亡くなって、死後何時間か()っている遺体であっても、正法で追善供養(くよう)すれば、きれいな相に変わっていくー、これも、私達が何度も体験してきている現実です。
 ということは、正法による供養(くよう)で死後の生命が救われているからこそ、その生命と一番(えん)の深い遺体に、そういう明らかな変化が出ている、としか考えられないではありませんか。
このことからも、仏法に説かれるとおり、たしかに命は死後にまで継続(けいぞく)しているのであり、なおかつ、そこには堕獄(だごく)成仏(じょうぶつ)(ちが)い、差別が、厳然とあるのであります。


 三世の因果
 人の果報はさまざまです。生まれついて(めぐ)まれた福徳を持った人もいれば、一生病気・貧乏(びんぼう)で苦しんだり、人に(かろ)んじられたりする者もいます。
 これらの幸・不幸は偶然(ぐうぜん)生ずるものではありません。因なくして果はなく、果のあるところ必ず因があるのです。
 仏法はこの因果を、現世だけでなく三世にわたって説き切っています。
 大聖人は『開目(しょう)』に、
 『過去の因を知らんと(ほっ)せば、()の現在の果を見よ。未来の果を知らんと(ほっ)せば、()の現在の因を見よ』と御指南(ごしなん)下されています。
 「自分が過去にどんな事をしてきたかを知りたかったならば、現在受けている結果を見よ。また自分が将来どんな果報を得るかを知りたかったら、いま()しつつある所行を見よ」ということです。
 まことに因果は(くさり)の輪のごとくで、(だれ)人もこの因果の理の外にあることはできないのです。

 さらに『開目(しょう)』には、
 『善男子よ、過去世に無量の罪業(ざいごう)悪業(あくごう)を作れば、その罪の(むく)いとして今生に、あるいは人に(かろ)んじられたり、あるいは顔かたちが(みにく)く生まれたり、着るものも着られなかったり、食べ物も思うようにならなかったり、お金を(もう)けようと思っても損ばかりしたり、貧賤(ひんせん)の家や邪見(じゃけん)の家に生れたり、あるいは権力によっていじめられたり、そのほかさまざまな人間としての苦しみを味うであろう。
 しかしそのような受くべき苦報を転じて現世に軽く受けるのは、実に正しい仏法を護持する功徳(くどく)によるのである』(取意)と、般泥洹経(はつないおん)(きょう)を引かれて(おお)せです。


 大聖人の仰せを信じる者としての生き方
 また、過去世、当世、来世の三世の生命感に立つときには、四苦八苦を苦しみと捉えるのではなく、成仏(じょうぶつ)のために仏様から(あた)えられたものである、と前向きに捉えることで人生は変わります。
 四条(きん)()(あた)えた御書(ごしょ)には、
『苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無(なん)妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや』という有名な御文(ごもん)があります。
 自受法楽は法の楽しみを自らの身に受けることで、仏様の境界のことです。したがって、私たちも、「苦しみも楽しみも別の命の中にあるのではなく、一人ひとりの命の中にあるのだ」と知り、御本尊(ごほんぞん)様にお題目を唱えることが成仏(じょうぶつ)の境界である、と教えて下さるのです。

 苦しみから目をそらすことなく、苦しみから()げることのない自分でありたい、苦しみも楽しみも永遠には続かない、周囲の出来事に影響(えいきょう)を受けずに、そのようなことに執着(しゅうちゃく)をしない人生でありたいと願うのが、信仰(しんこう)の本質です。
 三世の生命観から物事をみてゆく場合には、自分の現在を(だれ)にうらむでもなく、ここに自ら反省し自覚して正しい信仰(しんこう)を持つことが大切となるのです。
 今月拝読の『最蓮(ぼう)御返事(ごへんじ)』に、
 「法華経(ほけきょう)の行者は信心に退転無く身に詐(さ)親(しん)無く、一切(いっさい)法華経(ほけきょう)()の身を任せて金言の如く修行(しゅぎょう)せば、慥(たし)かに後生は申すに(およ)ばず、今生も息災延命にして勝(みょう)の大果報を得、広宣流布(るふ)の大願をも成就(じょうじゅ)すべきなり」
(おお)せられるように、一切(いっさい)御本尊(ごほんぞん)にお任せして、日夜、御金言(ごきんげん)のごとく自行化他の修行(しゅぎょう)(はげ)むことこそ最も大切であり、そこに現当二世にわたる磐石(ばんじゃく)な境界を築く、「現世安穏(あんのん)・後生善(しょ)」の功徳(くどく)(あらわ)れるのです。

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