ホーム  > 御住職の法話目次 御住職の法話 (第178号
   
   【災いは口より出でて身を破る、幸いは心より出でて身を飾る】 
 
内薫外護の法門について
 
     
   本日は、「内薫外護(ないくんげご)の法門について」と題しまして、少々お話をさせていただきます。題名だけ聞きますと、難しい事を言い出すのではないか?と既に心配されている方もおられるかも知れません。
 また、最初の頃は、「四苦八苦」とか「死について」とか身近な話だったけど、だんだん専門的になって、最近は難しいと感じておられる方もいるかもしれません。
 御報恩の法話ですので、時々に応じて皆さんに話させて戴いておりますが、今日はあまり教学的な話ではありませんので、どうか安心してお聴き下さい。

 さて、法華経供養の意義を讃歎された法門に内薫外護の教えがあります。
 「内薫」とは、内に薫(かお)るということです。正しい仏道修行によって衆生の内に存在する仏性が薫発されて功徳を得るということ。また、その功徳によって過去(かこ)遠々劫(おんのんごう)以来の謗法罪障の消滅をし、その結果、自らを外護することです。
 しかもこれは自分一人に留まることなく、周囲には善緑、勝緑となって様々な形で助けながら向上するように、内に薫ることによって外からの護り、仏の護り、法の護り、菩薩、諸天、十羅刹等の様々の護りが存することを表します。
  これらについては、大聖人様が四条金吾にあてられた『崇峻天皇御書』に書かれていますので、この御書を中心にお話をすすめて参ります。
  この御書は、建治三(一二七七)年九月十一日、大聖人様が五十六歳の御時に、身延より鎌倉長谷(はせ)の四条金吾に与えられた御消息です。
 残念ながら御真蹟は、明治時代の身延の大火で焼失しています。『崇峻天皇御書』と云う御書の題号は、蘇我馬子の指図によって、崇峻天皇が暗殺された故事を、日蓮大聖人が御引用なさっていることに由来します。 
  大聖人様がこの御書を書かれるにあたって、まず、四条金吾の身に何が起きていたのかを知る必要がありますので、これから御説明致します。
 この御書からも伺えますが、四条金吾は、信仰を貫いたが故に、主君の北条光時から、建治二年(1276年)までに、謹慎・所領替え等の難を受けられていました。また、ここぞとばかりに、主君からの信頼が厚かった四条金吾に対して、嫉みを持っていた同僚の者どもから、誹謗・中傷を加えられていました。
 よく女性は嫉妬深いと言われますが、男性も負けてはいません。また、一般的に男性の場合、恋愛よりも仕事に関して、より嫉妬の炎を燃やします。そこには、生活・地位・名誉・プライドなどが複雑に絡み合ってくるからです。殊に、男性が嫉妬しても表面上は体面を保ちますので、かえって姑息で陰湿であり、これは大聖人様の時代も現代も変わらないということです。
  建治三年(1277年)に入ると、六月九日に、鎌倉の桑ヶ谷において、『桑ヶ谷問答』が行われています。そして、『桑ヶ谷問答』では、日蓮大聖人の御弟子であった三位房が、破戒僧の竜象房を完膚無きまでに破折しています。
 そのことに恨みを持った竜象房や極楽寺良観が、『桑ヶ谷問答』に遅れて同席していただけの四条金吾殿を貶(おとしめ)めようとして、「北条光時殿の家来である四条金吾は、桑ヶ谷の問答の場で狼藉(ろうぜき)を働いた。」等と、執拗な讒言(ざんげん)を繰り返しました。
 ここで出てくる、地名・人物について説明をします。


 【桑ヶ谷】
 神奈川県鎌倉市にあり、鎌倉七ロ(ななくち)のひとつ、大仏坂切通しの西側に位置します。かつて極楽寺良観が療養所を立てて施療した場所で、「桑ヶ谷療養所跡」の石碑が建てられています。 現在は鎌倉能舞台があります。


 【竜象房】
 生没年不明。天台宗の僧侶。この竜像房の破戒っぷりは、尋常ではありませんでした。はじめは比叡山に住んでいましたが、人肉を食していることが知られ、住房を追われて鎌倉へと逃げ込みました。その後、極楽寺良観の庇護を受けて鎌倉の桑ヶ谷で法座を設けて説法し、その弁才によって人々は竜象を崇めたといいます。しかし、また悪癖が出て、下僧を使って墓地に埋葬した死体を切り取らせていたことが発覚し、政所(まんどころ)にて糾弾されました。(『秋元御書』『頼基陳状』)


 【三位房】
 生没年不明。はやくから大聖人の門下となり、弘教に活躍した弟子でしたが、たびたび大聖人より叱責を蒙ることがあり、その後、弘安年間に入り、大聖人より離れ、まもなく死去したようです。(『聖人御難事』)。
 このような経緯から、四条金吾は主君の北条時光より、法華信仰をやめる誓いの文証(「起請」)を書くように命ぜられました。
 これに対して大聖人さまは、四条金吾に代わってその無罪を訴える陳状(弁明)の書『頼基陳状』を建治三年(1277年)六月二十五日に御代筆されます。
  四条金吾の主君に対する抗弁は、死を覚悟してのことだと言えます。良観の讒訴(ざんそ)によって日蓮大聖人が佐渡に流罪された時、二月騒動という自界叛逆難が日蓮大聖人の予言どおりに起こりました。「頼基陳状」では、この二月騒動で「名越の公達(きんだち)」が「横死」したことが述べられています。これは重大なことなのです。この横死した「名越の公達」とは、四条金吾殿の主君である北条光時の弟の時章(ときあき)と教時(のりとき)のことです。その二人が二月騒動で殺されたのは、良観のせいだとしています。そして、四条金吾が「起請」を書くならば、主君も同じような目に遇うとまで言っているのです。その上で、正式に讒訴した者と共に調べてほしいと述べています。
 本来、家来が主君に対してこのようなことを言ったら、打ち首ものです。「頼基陳状」は、四条金吾に襲いかかった魔から金吾自身を守るために、日蓮大聖人がみずから認められました。日蓮大聖人が認められた「頼基陳状」を、日興上人が書写されたものが残っています。
 この事からも、正法を持つということは、正に命がけのことだったと分かります。四条金吾の抗弁の書は、日蓮大聖人が弟子の正法護持のために、不惜身命の思いで抗弁するように教えられたものでした。決して目先を変えたり、小手先で逃げることは許されなかったのです。
 なぜならば、もし退転すれば未来永劫に地獄に堕ちるからです。「今生、命を捨てることがあっても、法華経のために捨てることは最上の喜びである」という事を、日蓮大聖人みずから筆を執られ、強信な弟子に示されているのです。弟子たる者は、日蓮大聖人が難に臨まれたのと同じ覚悟でなければなりません。
 それから約3ヶ月後の建治三年(1277年)九月十一日に、日蓮大聖人は、『崇峻天皇御書』をお書きになられています。
 日蓮大聖人の御予言通り、北条光時は、この時、生死に関わるような悪質の疫病に罹患していました。その治療に当たったのが、医学・薬学の心得があった四条金吾です。それをきっかけにして、四条金吾は、主君の北条光時殿からの信頼を、再び得るようになりました。
 その折に当たって、日蓮大聖人は同僚からの嫉みへの対応・護身術・処世術等に対する綿密な御教示を、『崇峻天皇御書』を通して、四条金吾殿に御指南なされています。

 ところで、四条金吾殿と云えば、龍口法難で、連行される大聖人の馬にすがって、「一緒に私も死にます」と嘆き悲しんだり、御書によく出てくる「腹悪しき(短気な)人」等の御金言によって、勇猛・直情型のイメージをお持ちになっている方が多いようです。   
 しかし、四条金吾は、識字率が極めて低かった鎌倉時代において、漢文等も自在に読みこなすだけでなく、医学や薬学の知識も持ち合わせており、代々の執権の近親者であった北条光時の有力家臣でもありました。

 『崇峻天皇御書』で、
 「何よりも、主君(北条光時)の御病気のことを、嘆き入っております。たとえ、主君(北条光時)からは、貴殿(四条金吾)に対する御信用がないように見受けられますけれども、貴殿(四条金吾)は、その一門の内にいらっしゃって、主君(北条光時)に対する御恩の陰で、法華経(御本尊)を信行しておられます。因って、貴殿(四条金吾)の御祈念は、偏(ひとえ)に、主君(北条光時)の御病気を平癒するための御祈念となることでしょう。」【意訳】
と仰せであります。
 北条光時の病気を歎(なげ)かれ、金吾の法華経を供養する功徳は、廻って主君の病気平癒(びょうきへいゆ)の祈りとなることを御教示せられました。
 ここに、大聖人様の仏の御慈悲がみられます。普通の人間ならば、あれだけ信仰をやめるように迫害した者が、仏罰を被った場合、「ほら見たことか。ざまあみろ。罰が当たったんだ」と思いがちですが、「さては、何よりも何よりも主君が病気で苦しんでおられる事は、本当に嘆かわしく残念でなりません。確かに主君は法華経を信ぜず、今所領没収という命令を下し、あなたを苦しめているかも知れませんが、しかし過去から現在という長い時間で考えて見ますと、あなたは間接的には、主君のご恩お陰で法華経の修行ができ、これまでに私日蓮に多大なご供養をすることができたのです。だから、主君の病気平癒を心から祈り抜きなさい」と。病気を嘆かれ、金吾の祈りによって主君は必ず回復すると仰せです。
 また、主君が病気になった原因については
 「貴殿(四条金吾)の同僚の人々に、天魔が付いて、この法華経の法門を供養する貴殿(四条金吾)のことを、以前より知っていたが為に、この度の大妄語を造り出して、妨げようとしたことになります。
 しかし、貴殿(四条金吾)の御信心が深かったので、諸天善神である十羅刹女が、貴殿(四条金吾)を助け奉ったのであります。それ故に、主君(北条光時)が発病されたのでしょう。
 主君(北条光時)は、貴殿(四条金吾)のことを、御自分の敵とは思っていないかも知れません。けれども、一旦は、彼等(四条金吾の同僚)の妄言を用いたことにより、御病気が重くなって、長引くことになったのではないでしょうか。」【意訳】
と仰せです。
 法華信仰を反対した主君や主君の身内、さらには同僚たちが病魔に倒れたのは、信心堅固な金吾に対する十羅刹(じゅうらせつ)の加護であることを示し、もって正法の行者には障魔(しょうま)が起こること、その障魔が正法に勝つことはないが、ただし障魔に乗ぜられることのないように御注意されています。
 特に、金吾の気が短い性格を熟知される大聖人様は、その身を案じられ、出仕の際の心構えや言葉遣い、態度や服装など、驚くほど事細かに御教示せられ、仇敵(きゅうてき)の迫害に対する細心の注意を喚起されています。

 以下に箇条書きにします
・そりが合わなくても弟たちを、少しの間も、身の回りから離してはなりません。どれだけ、心に合わないことがあったとしても、親しく語らってください。
・あなたは短気な相が、顔に現れます。「短気な者には、諸天が守護されることはない。」と、承知しておきなさい。
・あなたが、人から危害を加えられたとしたら、彼等は悦びの言葉を発するでしょう。一方、たとえ成仏出来たとしても、それは、私の歎きとなります。
・彼等が何とかして、あなたを陥れようとしているのに、以前にも増して、主君から引き立てられているので、外見の姿は静まっているように見えても、彼等の心中は、怒りで燃え上がっているばかりでしょう。
・朝廷の貴族が主君の許を尋ねて来る際には、主君からのお呼び出しがあったとしても、しばらくの間は、同伴を慎んでください。
・主君に万一のこと(死去)があったとしたら、金吾に讒言をした人々は、世迷い人になってしまいます。彼等はそういうことを顧みずに、分別のない心を以って、金吾が益々出仕されるのを見るたびに、必ずや、胸の中に炎を燃やし、敵愾心を盛んにすることでしょう。
・もし、朝廷等の貴族や重臣の女房たちから、「主君の御病状は、どのような状態ですか。」と問われた時には、相手が如何なる人であったとしても、膝をかがめて掌を合わせてから、「自分の力では及ばない御病気であります。そのため、固く、辞退を申し上げました。しかし、厳命を仰せになられましたので、主君に御奉公させていただく者として、治療を行っている次第です。」と、答えなさい。
・髪をとかさず、直垂(ひたたれ)も粗末なものを用いて、鮮やかな小袖や色付きの衣服等も着ずに、しばらくの間は、忍耐をして、状況の推移を御覧ください。
・末法の世の有様を、釈尊は、「末法の濁世には、聖人も居し難い。」と仰せです。
・賢人も、五常(仁・義・礼・智・信)を口では説いていますが、実際、我が身に引き当てて、五常を振舞っていくことは難しいものです。
・何人かの者が、あなたを讒言によって、陥れようとしました。けれども、貴殿は陥れられずに、早くも、勝者の身となりました。ここで油断してはなりません。
・貴殿は、主君から部屋を与えられて、居住しておられますので、その場所は、安全で何事もないように思われます。彼等は、日暮れ時や暁の時や出入りの時などを選んで、必ずや、狙って来ることでしょう。
・貴殿の家の妻戸(家の隅にある両開きの戸)の脇や、持仏堂(仏間)、板間の下、天井の裏などを、充分に注意しながら、行動してください。
 今度は、前回の時よりも、彼等は、一段と考慮した上で、対応をしてくるでしょう。
などというものです。
 事細かに、ご指南されておりますが、いかにこの時代が物騒であり、かつ、命にも及ぶ法難が容易ならざるものであったか拝察できます。また、「短気な者には、諸天が守護をされることはない。」と仰せにも我々は留意しなければなりません。
 
 次に、意に違(たが)うことがあっても言動を慎むと共に、努めて心の財(たから)を積むことを勧められ、特に題号ともなっている崇峻天皇の故事を引かれて、心の財について道理の上から示されます。
 大聖人が仰せの、崇峻天皇の故事とは
・崇峻天皇がある時、聖徳太子をお召しになられて、「汝は聖者の者、と、聞いている。朕の相を、占ってみよ。」と申されました。
・聖徳太子は、三度まで辞退しました。しかし、崇峻天皇が頻繁に聞かれるので止むなく、聖徳太子は、崇峻天皇の相を占い奉りました。
その上で、聖徳太子は、「天皇は、人に殺される相をしておられます。」と申し上げました。
・すると、崇峻天皇の顔色がお変わりになって、「何の証拠を以って、太子が云う事を、信じるべきであるのか。」と、仰りました。
・聖徳太子は、「陛下の御眼に、赤い筋が通っておられます。これは、人から恨まれる相であります。」と答えました。
・重ねて、崇峻天皇は、「どのようにすれば、この難を免れることが出来るのか。」と、質問されました。
・聖徳太子は、「『五常』(仁・義・礼・智・信)を身から離さずに行動していけば、害をまぬがれることが出来るでしょう。この教えのことを、仏教では『六波羅蜜』(布施・持戒・忍辱・精進・静慮・智慧)における、第一の修行(忍辱)に挙げられております。」と答えました。
・崇峻天皇は、しばらくの間、『五常』(仁・義・礼・智・信)の教えをお持ちになっていました。しかし、天皇はややもすると、短気な天皇であったために、『五常』の教えを破るようになってしまいました。
・ある時、猪の子を献上してきた人がいました。すると、崇峻天皇は短刀を抜いて、猪の子の眼をずぶずぶと突き刺しながら、「いつか、憎いと思っている奴を、このようにしてやるんだ!」と、仰せになりました。
・聖徳太子は、「このままでは、崇峻天皇の発せられた御言葉が、陛下御自身を害する剣になってしまう。」と、考えました。
そのために、聖徳太子は多くの財宝を取り寄せて、崇峻天皇の御前で、先ほどの御発言を聞いた人々に、御引出物として与えました。
・けれども、或る人が、蘇我馬子という大臣に、崇峻天皇の御発言の内容を語ってしまいました。すると、蘇我馬子は、自分の事を指しているのであろうと思い込んで、東漢直駒(やまとのあやのこま)・直磐井(いわい)という者の子を教唆して、崇峻天皇を殺害してしまいました。
・このように、王位の身であっても、思った事を、たやすく、口に出してはならないのです。
というものです。

 大聖人様は、崇峻天皇を「腹あしき王」と言われ、一方、金吾にも「殿は腹悪しき人」と言い、考え方や性格において相通ずるところがあったようです。「腹悪しき」とは、腹黒いということではなく、豪毅(ごうき)で猛々(たけだけ)しく、短気で怒りっぽいという意味です。このことは、いかに正直一途で求道(ぐどう)の心が強くても、すぐに怒り、どなり散らすようでは、仏天の護りは薄いということを御教示されたものです。
 本抄では、金吾の性格を捉えて、これら三毒の中でも「瞋恚(しんに)」について、いかに誡めるかを教えられています。
 まず一に、積み重ねた功績、向上せしめた人徳も、短気によって一瞬にして壊(こわ)すことにもなりかねません。「忍辱(にんにく)」の心を養うことが大切です。
 二には、口から出た言葉は必ず他の人に伝わります。口の堅い人ほど多くの人から信頼を得ます。軽々に口に出す言葉により、時には命を失うこともあるのです。災いは口より出でて身を破るのです。
 三には、私情を交(まじ)えた言葉は怨嫉(おんしつ)を生み、異体同心の結束を破ります。私たちが出す言葉は折伏・育成のための御題目の声によって導き出されるのです。

 大聖人は四条金吾に対して、あくまで感情的にならず冷静に対応することを事細やかに教導されています。言動から生活態度にいたるまで四条金吾は大聖人さまの指示をよく守り、自身の責務を果たすことに心血を注ぎました。
 毅然とした四条金吾の態度、そして変わらぬ忠誠心に理解を示した北条光時は、やがて金吾への誤解を溶き、没収した所領をも返還します。そればかりか、このことで金吾への信任をいっそう厚くしたのです。四条金吾は、大聖人さまのご教示を拝しながら、主従の対立という窮地の事態を乗り越えたのでした。

 冒頭に述べた、『内薫外護』を四条金吾に当てはめますと、金吾が法華経に帰依(きえ)し、供養を努めることは、北条光時に仕えることによってなし得ることであるために、主君は不信の者であるけれども、金吾の積む功徳と祈りによって、病気が自然に治っていく姿があるのも内薫外護によるものと言えます。
 法華経『不軽品』に、
 「我深く汝等(なんだち)を敬ふ」
と、また涅槃経には、
 「一切衆生悉(ことごと)く仏性有り」
と説かれています。これは不軽菩薩があらゆる人の心に具(そな)わる仏性を、人々から馬鹿にされ杖や石で打たれてもなお礼拝したということで、この仏性が「内薫」です。
 私たちは、とかく外に表れ出たものに執着し、内に隠れたものを見失う傾向が強いのですが、内における真の徳を重ねることこそ、より大事にすべきという点から、不軽菩薩の礼拝行を心に留めるべきです。
 ややもすれば、最高の仏法を信行しているからといって、直ちに最高の人格者であると錯覚し、倣慢(ごうまん)な振る舞いや、倫理道徳の道から外れるようでは、法を蔑(さげす)む者としての責を免(まぬが)れることはできません。私たちの言動すべてが成仏のための仏道修行だからです。
 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、
 「人の身の五尺六尺のたましひも一尺の面にあらはれ一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候」
と仰せです。
 どんなにうわべだけ綺麗事を並べたり、取り繕おうとしても、表情や目つきに顕れてしまいます。唱題を重ねることによって、自己の内から滲み出る仏の命が、自然と表情に顕れ、接する人々を和ませていくのです。
 私たちが「人の振る舞い」を心がけ、お互いに尊び、励まし、ときには誡め、慎み合って、講中の異体同心の実を挙げたときに、広布への大前進が計られるのです。
 私たちが三宝様へのお給仕、御供養、朝夕の勤行、日々の唱題行、そして他人を思いやっての折伏行に誠心誠意努めること、これらの内から薫る用きが、外からの対応として、必ずや外護を呼び起こすことになると心得るべきであります。


                               住 職  ()  (はし) (どう) (ほう)

 
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