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 【先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし】  
 即身成仏について 

 
 

 
   本日は、即身成仏について少々お話しをさせて頂きます。皆さんも、この即身成仏ということは、入信以来、何度か耳にされていると思います。
 大聖人様も、御書の実に一八〇箇所以上におきまして、即身成仏という事をお述べになっておられます。
 『妙一女御返事』では「即身成仏と申す法門は、世(よ)流布(るふ)の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ。就中(なかんずく)予が門弟は万事をさしをきて此の一事に心を留むべきなり。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣(の)べたる法門繁多なりといへども、所詮は只此の一途なり」(御書 一四九八頁)と仰せになられ、今まで説いてきた法門も、即身成仏を述べんが為であると仰せであります。
 それだけ大切な御法門ですので、私も皆様に少々お話しをさせて頂きます。


 
【爾前経で説く成仏】
 そもそも、釈尊が法を説いたきっかけは、一切の人々を苦しみから救い、成仏させたいという思いからです。
 しかし、いきなり難解な法門を説いても人々は理解できない為、真実の法華経を説くまでの方便として、四十二年間さまざまなお経を説かれました。これらのお経を法華経と比較して、爾前経と言います。
 爾前経で説かれている菩薩の修行は歴劫修行といい、初発心のあと、三阿増祇百大劫、または動踰(どうゆ)塵劫などの長い修行を経て初めて涅槃に入るとされました。
 一生のうちにはとても成仏は出来ず、何度も生まれ変わって少しずつ修行をすすめて行くこと、修行の妨げになる女人・悪人・自己の解脱にのみ執着する二乗も成仏出来ないとされました。
 女人は男性に、悪人は善人に生まれ変わらなければ成仏は許されないと説きます。要するに、衆生が仏身を成ずるまでには幾(いく)段階もの過程があり、かつ凡夫はその凡身を離れて初めて仏身を成ずるものとされてきたのであります。
 また修行過程の戒律も厳しく、多数の戒が説かれました。小乗教においては五戒、八斎戒(はっさいかい)、十戒、二百五十戒、五百戒、大乗教でも十重禁戒、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)などが網羅されています。
 要するに、これらの厳しい戒律の修行によってどんなことを悟ろうとするのかと申しますと、自己の肉体も精神も煩悩と罪悪で汚れたものであるから、この悪業の固まりである人心を滅して「空」に帰し、再び苦しみの多いこの世には生まれてこないことを目的とするものです。灰身滅智(けしんめっち)といって、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態を目指し、煩悩を断じきる為に行うのですが、末法の衆生に、そんなことが出来るわけがありません。
 爾前迹門の次元は迷いより悟りへ、九界より仏界へ進むことを説くからどうしても改転の成仏となるので、即身とはなりません。しかも、爾前経においてもそれぞれ応分の作仏が許されましたが、十界互具(十界の衆生のどの生命にも他の九界を具足)、一念三千(一念の心に三千の諸法を具える)が明かされていないので有名無実なのです。


 【真言等でも説く即身成仏】
 即身成仏は、一般社会では弘法大師の著書『即身成仏義』の影響もあって、「生きているまま仏になること」と辞書でも解釈されています。また、平安時代以来出羽三山などの修験道の様に即身仏として、断食によって死し、身体をミイラ化することを連想させるかもしれません。
 一般仏教では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼びました。この背景にあるのは入定(にゅうじょう)という観念で、「入定ミイラ」とも言われます。入定とは本来は悟りを開くことですが、死を、死ではなく永遠の生命の獲得とする場であると考えました。そして入定した者は肉体も永遠性を得るとされたのです。
 日本においては山形県の庄内地方などに多く存在し、現在でも寺で公開されています。また、中国の禅宗寺院では、今もなおミイラ化した高僧が祀られています。
 これらは死を前提にするため当然ながら大変な苦行であり、途中で断念したものも多数存在しました。また、死後腐敗してミイラになれなかったものも多いようです。現在は自殺にあたるとし禁止されています。
 また、即身成仏を開くためには、日常の枠に留まっては駄目で一定以上の修行が必要とされました。時には比叡山の千日回峰行のように限りなく死に近接することもありました。これらの修行の面を重視したのが天台・真言など密教や山岳信仰の流れを汲む修験道で、現代でも行われているようす。
 即身仏とはただの自殺であり、このように、秘密の通力、天眼力、荒行等をもって人々を惑わし、これを即身成仏と誇称しているのです。このような絶対的なものでない神秘力、念力が即身成仏と考えられるところに、むしろ本来の教道を忘れて、呪術化した仏教上の誤りが存するのです。
 しかし、これだけ科学が発達し、オカルトを信じない人が多い中だからこそ、少しでも不思議な宗教的現象にあうと、逆に簡単に洗脳され、さながら生き仏の如く尊信するのです。こういう迷いの衆生に乗じて、様々なおかしな宗教が出て民衆を誑(たぶら)かしていることは今も昔も変わりません。
 現在では、宗教的現証を演出したり、薬漬けにして幻覚を見せたりが殆どのようです。
 しかし、たとえ熱湯に身体を沈め、何キロも離れた人の行動を透視する精神力があるとしても、それが真の即身成仏の手本ということはできません。
 私達はあくまでも『利根・通力』を信じてはいけません。通力無比の目連尊者が、実母が餓鬼道で苦しんでいる姿を透視することは出来ても、結局自力では助けられなかったのは何故でしょう。ここに即身成仏とは大聖人の仰せの如く利根と通力によらず、まず法の正邪を分別して、選び取っていくことが大切なのです。
 この即身成仏という語を最初に用いたのは、中国唐代の妙楽大師湛然(たんねん)です。日本では、伝教大師最澄の著書『法華秀句』で述べられたのが最初です。後に述べますが、法華経においてのみ即身成仏が成立するのです。
 その後、平安時代の比叡山では、その即身成仏の本来の意味に密教の要素も加わって、「そのままが仏」「あなたが仏」「わたしが仏」という間違った方向へ進んだのです。この考え方を天台本覚論あるいは本覚法門というのです。仏教的頽廃(たいはい)主義とも東洋思想のクライマックスともいわれています。やがてそれは、絶対他力によって一切衆生は救われているという鎌倉新仏教の浄土系の宗派を生み、一方その絶対的一元論に反発し、自力仏教として鎌倉新仏教の禅宗系の宗派を誕生させたのです。
 大聖人は、「法然善導等がかきおきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候いき」(御書 三二六頁)
と仰せでありました。法然等が一生かかって極めたことを大聖人さまは青年の頃には既に到達していたのであります。
 そして、大聖人は真言で説く即身成仏は、天台の即身成仏・一念三千という言葉だけを自宗の法門に盗み入れたものであり、全く成仏の義が明確に説かれていないと破折されています。
 真言宗は、真言三部経を第一として法華経を第三の戯論と下し、また大日如来を最上の本尊と立て、鎮護国家を祈っています。さらに『法華経』に説かれる一念三千の法門が、『大日経』にも説かれているとし、その理は同じであっても大日経には印と真言が説かれているから、事相のうえでは大日経が法華経より勝れている(理同事勝)などと主張しています。
 しかし大聖人は、大日如来が生国不明の架空仏であり、「理同事勝」の説も、もともと大日経には説かれていない一念三千の義を法華経より盗み取ったに過ぎないこと、真言の呪術的神秘的現証を借りなければこれをよく説明することはできないこと、最上の法華経を第三の戯論と下していることなどを挙げて、真言宗は衆生救済の根本である仏と法を倒す教えであり、亡国の教えであると破折されています。
 

 【法華経で説く即身成仏】
 即身成仏とは、文字どおり衆生が凡夫の身そのままで仏に成ることでありますが、法華経以前の諸経においては、真実の即身成仏はいまだ説かれず、法華経に至って初めて凡夫の身そのままの姿で成仏することができるとされました。
 先程も述べましたが、爾前経で説く長い時間をかけて、煩悩を消していく為に繰り返し修行をすることを「歴劫修行」といいます。爾前経の菩薩たちが、生死生死の繰り返しの中で、長い長い時間をかけて修行をしたことを意味します。ところが、このように修行に励んでも爾前の経々では仏になることはできませんでした。
 しかし、伝教大師は、法華経の提婆達多品第十二の中で説かれる竜女の成仏を挙げて、「能化所化倶に歴劫なし。妙法の経力を以って即身に成仏し」と示され、法華経の教えは、爾前権教とは違い生死生死を繰り返し、その間に長く苦しい修行を経なくとも、妙法蓮華経ととなえる修行によって成仏の功徳を受けることが叶う、と教えています。
 伝教大師の『法華秀句』には、この竜女の成仏を釈して、
「能化の竜女、歴(りゃっ)劫(こう)の行無く、所化の衆生、歴劫の行無し。能化・所化、倶(とも)に歴劫無し。妙法の経力をもって即身に成仏す」
とあります。すなわち爾前権経とは異なり、法華経を信受するその勝妙なる功(く)力(りき)により、無量劫にも及ぶ歴劫修行を経ずとも、そのままの姿で成仏することができると明かされたのであります。
 仏の現実の化導においては、二乗作仏、久遠実成の二箇の大事として法華経に示されています。この二箇の大事は、釈尊が法を説き始めて爾前四十余年の経々には、全く顕わされていません。のみならず、極悪の提婆、愚痴の竜女、つまり悪人・女人の成仏も、法華経に初めて開顕されるのです。ここに純円の妙旨が初めて法華経に余りなく発揮される所以があります。
 純円とは、欠けることのない完璧な法を意味します。そして、その妙旨とは、仏の知照したまう仏界即九界、九界即仏界の円融の悟りの中へ、衆生が誘引せられ眼を見開いたことを意味しています。ここに十界が互具しさらに本門において無始の九界仏界十界互具して、百界千如一念三千の悟りを大衆が悟達し、自己の生命の開覚を遂げ、釈尊の化導が完了しました。したがって、法華経は仏の金口をもってみずから
 「正直に方便を捨てて但無上道を説く」
といわれ、法華経が真実本懐の経典であることを説き、多宝仏も来って真実を証明しているのです。
 ここに爾前大小の諸経は、衆生の即身成仏の実義が隠されているので方便権教と言われるのであり、法華のみ真実の仏知見が開かれた教法であるのです。
 法華経に至って一念三千の法門が説き出されたことにより、煩悩と菩提は衆生の十界互具の生命に共に具わったものであり、しかも根本において本来、相即不二であることが説かれたのです。すなわち、法華経の妙法の開顕によって、衆生の生命は九界即仏界、妙法蓮華経の当体であることが明かされ、煩悩はそのまま菩提と開会されたのです。
 日蓮大聖人は『大田殿女房御返事』に、
 「諸大乗経の煩悩即(ぼんのうそく)菩提(ぼだい)・生死即(しょうじそく)涅槃(ねはん)の即身成仏の法門は、いみじくをぞたかきやうなれども、此はあえて即身成仏の法門にはあらず。(中略)灰身(けしん)なれば即身にあらず。滅智(めっち)なれば成仏の義なし」(御書一四七一頁)
と、煩悩を断尽する小乗を含む諸大乗経の教えを法華経の上から破折されました。


 【大聖人が説かれる即身成仏】
 大聖人様が説かれる即身成仏とは、煩悩に覆われた凡夫の身のままで仏になることをいいます。
 大聖人は『六難九易抄』のなかにおいて、
 「悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く、百千万年くらき所にも灯(ともしび)を入れぬればあか(明)くなる。世間のあだなるものすら尚(なお)加様に不思議あり。何(いか)に況んや仏法の妙(たえ)なる御法(みのり)の御力をや。我等衆生の悪業・煩悩・生死果縛(かばく)の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即ち法・報・応の三身と顕はれん事疑ひなかるべし。『妙法の経力をもって即身に成仏す』と伝教大師も釈せられて候。心は法華経の力にては、くちなは(蛇)の竜女も即身成仏したりと申す事なり」(御書一二四四頁)
と仰せであります。
 この即身成仏は、爾前教で説くような煩悩をすべて滅することでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るということで、これは日蓮大聖人の仏法を信仰することによってのみ可能となるのです。
 大聖人様の御出現の目的は、末法の一切衆生をしてことごとく即身成仏せしめるためであります。そのため大聖人様は、末法本未有善の、成仏の種すら持っていない衆生が、三世にわたって永遠に崩れることのない、成仏という絶対の境界を碓立すべく、本因下種の妙法をお説きあそばされ、末法の修行として、直達正観・事行の一念三千の法門を御建立あそばされたのであります。
 要するに、これが本門戒壇の大御本尊様と大聖人が御所持されている法・お題目であります。
 『当体義抄』に、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり」(御書 六九四頁)
と、文底下種の南無妙法蓮華経の功徳により、煩悩を直ちに菩提と転ずる仏法の究極の利益を御指南をされています。
 私たち末法の衆生は、大聖人の御当体である大御本尊に対する不惜身命の強盛な信心と唱題により、御本尊と境智冥合して煩悩が浄化され、少しの悟りもない凡夫身そのままで、即身成仏の大果報を得ることができるのです。
 しかし、それがどういうことかということをもう少し具体的にいうならば、煩悩の我々の命、すなわち我々の迷いの当体がそのまま、妙法蓮華経を無二に信じ、正しく信心修行をして疑わないならば、自分が六根清浄であると自覚したとかしないとかに関係なく、自然に仏様に守られ、その加護によって、毎日の生活のなかで六根清浄の功徳が生じているということなのです。
 大聖人の仏法を信受し、題目を唱える功徳によって、自身の煩悩・業・苦の三道が、清浄にして不動の心(法身)となり、深い智慧と慈愛に満ちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)していくことができるのです。
 すなわち、正しい御本尊を信じ唱題に励むとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり(煩悩即菩提)、苦悩の人生を克服できる力強い生命へと転換(生死即涅槃)されていくのです。
 さらにこの即身成仏の境界は、大聖人が、
 「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(上野殿御家尼御返事 三三六頁)
と仰せられているように、その徳は今世だけにかぎらず、未来永劫にまで及んでいくのです。また、これらの功徳の実証は、ひいては父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、さらに未来の子孫に福徳をもたらすことにもなるのです。このように、御本仏大聖人の大慈大悲による仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって三世にわたる福徳がそなわり、清浄にして自在な仏の境界を実生活のなかに現していくことができるのです。これが六根清浄であり、即身成仏の大功徳なのです。
 総本山代三十五世 日隠上人は『御本尊渇仰得意』にて、御本尊様への勤行唱題の功徳を、こう御指南されています。
 「抑も御本尊の功徳と申すは、久遠の本仏を初め奉り三世十方の諸仏の御魂にてまします故に、是に向かひ奉りて信心あつく御経題目を御供養し奉れば、鏡に影の浮かぶがごとく、我れらがいやしき当体、とりも直さず仏の御心と一体不二とあらわれ、其の所則ち即身成仏なり。去れば御書に「法華経の一々の文字は仏の御たましいなれば此の経を行ぜん人をば、釈迦如来我が御眼のごとく守り給ふべし」とも遊ばし、又「日蓮が魂を墨に染めながして書きて候ぞ、信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし」とも遊ばされて候へば、此の御本尊に打ち向かひ奉る所は、直ちに大聖人に御目見へ申し上ぐるにて候。今日三十五代嫡々相承して、日穏がつたなき筆にあらはし奉るすら、なを一閻浮提の一切衆生の本尊と成り、現当二世の大願を成就せしめ給ふ」


 【即身成仏の要諦は師弟相対の信心】 
 ここで最も注意しなければならないのは、本宗の即身成仏は、仏界即九界・九界即仏界、師弟相対しての成仏であるということです。
 第三十一世 日因上人は、
 「当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少しも余念無き処を云ふなり、此則師は是れ仏果なり、弟子は是九界なり、師弟和合して余念なき処は事の一念三千の妙法蓮華経なり、若し少も余念有らば師弟不和なり、何を以て事の一念三千即身成仏を論ずべけんや」(『有師物語聴聞抄佳跡』)
と説かれているように、弟子においては、師匠が仏界を表する、との余念なき信心によって、即身成仏するのである。
 要するに、時の猊下の仰せのままに、信心をしていくということなのです。猊下の御指南を拝して、「何故」とか「無理」とか「関係ない」と思ったならば、これは余念であり、成仏の妨げとなってしまいます。
 我々はせっかく人間として生まれ、正法に巡り会っている訳ですから、どうせ生きるなら、大聖人様や猊下にお認め頂ける信心を、精一杯やっていきましょう。
   
                              
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