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 勇気、正直、正義の木、心に3つの木を持とうどんなに小さな苗木でも未来はおおきくそびえてる】

 
 
 勇気・正直・正義 
 
 
 先月の15日の寺族同心会の砌、御師範日顕上人猊下より、「隠居の身で出過ぎたことかもしれないが」とされながらも、弟子一同にたいし有り難いご指南を頂戴しました。
 その中で、
「先に行われた、西日本・九州・北海道での決起大会は素晴らしかった。私は特にその中で、小さな子供たちの鼓笛隊が演奏する『唱えていこう妙法を』を聞くと涙が出そうになるんだ。この歌の歌詞に『勇気、正直、正義の木、心に3つの木を持とう 今は小さな苗木でも 未来は大きくそびえてる』とある。この三つの木は大聖人様の正義を実践し、護っていく上において、非常に大切な事なんだよ。ここにいる殆どの者の預かっているお寺は、小さな講・小さな苗木かも知れないが、未来には大きく成長することを信じて励んでもらいたい。」(趣意)
との温かいご指南を賜りました。
 世間では、勇気、正直、正義と言われて、子供の道徳の教科書には載っていても、実生活ではどこか小馬鹿にしたり、軽視されがちな事柄であります。
 しかし、この三つがとても重要なことは、「ささやき女将」として世間で揶揄され、とうとう廃業にまで追い込まれた「船場 吉兆」を見れば明らかであります。食品の産地偽装・賞味期限改ざん等の不祥事が発覚した際、最初から自らの非を素直に認め、正直に行った悪事を公表し、どこまでも消費者に心から反省懺悔すればよかったのです。
 それをいつまでも女将の座にしがみつき、客に出した料理の使いまわしが発覚しても「社長がやったこと」「私としても考えられない」と他人事のように会見している様は、実に醜悪でありました。
 過ちを犯した場合、正直に謝るにも勇気が必要です。また日常の行いに正義がなければ、勇気も正直さも出て来ないのです。
 食品偽装・耐震偽装など過去にも問題になりましたが、世の人々は何の教訓としても活かさず、バレなければいい、自分は関係ないと思い込むのでしょう。
 中国では先の大地震で、校舎の手抜き工事(おから工事と言われていますが)によって、多くの子供たちがもろく崩れた校舎の下敷きになり、亡くなっています。人災による被害の方が大きいとまで言われています。
 世界中で目先の欲のみに振り回され、人心が荒廃している証です。マネーゲームによって原油をはじめ穀物が高騰しておりますが、これから益々世界中で混迷を極め、世情は不安定になっていくでしょう。
 これから、益々大聖人様の正法が求められていくことは必定であります。

 それでは、大聖人様の仰せと照らし合わせながら、話を進めて行きたいと思います。

  勇 気
 勇気とは、「いさましい意気。困難や危険を恐れない心」と辞書にあります。
最初から勇気を持った人などこの世にいません。基本的に人は皆、臆病なのです。正しいことを正しく行い、間違っていることを間違っていると指摘するには、心を練磨するしかありません。
 心を磨くには、勤行唱題の実践の修行をするしか無いのです。
 日蓮大聖人は、御一生を通じて「四箇度の大難そのほかは風の前の塵なるべし」といわれる程の大難をしのがれました。
 そして法華経の三類の強敵の出現の経文を身口意の三業の上に読み切られて「一閻浮提第一の法華経の行者」なりとの大宣言をされました。
  大聖人様の仰せの通りに修行すれば、私達にも此の強さとたくましさと勇気と、仏力と法力と功徳力と、逆風に負けない忍耐力や気力を賜ることができるのです。
 勤行、唱題と折伏弘通に精進すると、そうした総合した力と人間の品格が無意識の中に形成されるのです。
 日蓮大聖人は「観心本尊抄」に、
 「釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足(ぐそく)す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく無上宝聚(むじょうほうじゅ)、不求自得(ふぐじとく)云云」(御書六五三)と仰せられています。
  久遠元初の御本仏、本師の修せられた因位の修行は因果倶時の果徳と共に我等の身の上にも譲り与えられるのです。
  また日蓮大聖人は「聖人御難事」に、
 「各々師子王(ししおう)の心を取り出だして、いかに人をど(嚇)すともを(怖)づる事(こと)なかれ。師子王(ししおう)は百獣(ひゃくじゅう)にを(怖)ぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干(やかん)のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼(ほ)うるなり」(御書一三九七)
と、此の師子王の勇気を持って日蓮大聖人への信仰を通すよう激励されています。
 お題目をしっかり唱えていくところに、必ず仏様が悟られた人即法・法即人、法界全体の妙法の尊い法の力で、勇気を持つことができるのです。勇気を持つには、とにかく修行が大切なのです。
 御隠尊日顕上人は【平成16年 法華講連合会第13回少年部大会】の砌、
 『しっかり唱題してみると、なんとなく自分に自信が持てるようになり、そこからさらに色々な面で気持ちがはっきりしてきます。唱題をしっかり行うということにおいて「自分の命が変わってきたな」ということを自分自身で感ずる意味があると思うのです。そのなかで勇気が自然に湧(わ)いてきます。湧いてこなくても、問題にぶつかったときにお題目を唱えるのです。そうすると、不思議にその問題に対して勇気が湧いてくるのです。私自身も普段はずっと臆病だったのです。勇気なんかなかったのです。けれども、ものにぶつかったときにお題目を唱えると不思議に勇気が湧いてくるのです。
 完全な勇気を持った人など世の中にいません。だれもいません。今、偉そうなことを言っている政治家でも、その他の人でもみんな根底は臆病なのです。少しでも悪いことをしている人は、必ずそこに臆病な心が出てくるのです。勇気がないということは、また正直でないということにもなるのです。ですから、本当に勇気を出していくということは、しっかり唱題していくことが根本なのです。』
と仰せであります。

 正 直
 正直とは、「嘘や誤魔化しのないこと。裏表のないこと。また、そのさま。」と辞書にあります。
 お山の小僧さんが得度して、まず徹底的に叩き込まれるのが正直という事です。不祥事を起こした場合、少しでも言い逃れをしたり隠すような事があれば、徹底的に追及します。それは、本当に反省懺悔させるには、正直に言わせることが不可欠だからです。また、不正直なまま物事が通ってしまえば、やがてその空気は蔓延し、他の修行している者にまで悪影響を及ぼしてしまうからです。    
 大聖人様は、
 『日蓮が一門は、正直に権教(ごんぎょう)の邪法邪師(じゃほうじゃし)の邪義(じゃぎ)を捨てて、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華(とうたいれんげ)を証得(しょうとく)して常寂光(じょうじゃっこう)の当体の妙理(みょうり)を顕(あら)はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり』(御書 七〇一)
と明言されています。正直に正法正師の正義に付いて修行している者が、はじめて当体蓮華を証得し得るのであり、嘘・偽りを述べる事は、大聖人様のお心に背くばかりか、成仏もままならない事になるのです。
 日寛上人は、安国論愚記で、
 『邪智にして心諂曲(てんごく)文。是れ正直ならざる故に邪曲と云うなり。仁王の「悪比丘」、涅槃経の「悪知識是れなり』
と、諂曲とは媚びへつらうという意味ですが、世の邪宗の輩が人にへつらう命になってしまうのは、正直でないが故に邪に心が曲がってくるのである。仁王経で説かれる「悪比丘」や、涅槃経の「悪知識」がこれに当たると仰せです。
 御隠尊日顕上人は、正直について先ほど紹介した少年部大会で、
 『「正直」ということですが、私はこのことについて、いつも周りの者達、すなわち私の弟子達に言っております。これはもちろん、私の弟子というよりも大聖人様のお弟子として、白衣(はくい)を着て、あるいは袈裟・衣を着けて毎日修行しているのですが、この者達にもいつも「必ず正直ということを忘れるな」ということを言っています。
 正直にすると損をするように思っていませんか。これまでに、本当のことを言わないで嘘をうまく言うと、何か得をしたようなことがあったと思います。だから、うまく嘘を言っていったほうがよいと思うかも知れないけれども、そこが違うのです。どんなに損をしてもよいから正しいことを正しく言おうと、自分の気持ちを素直に出し、また悪いことしたら誰に対してもそのことを素直にはっきりと話をする。すなわち正直に「私はこういうことをしました」と言うことが大事だと思うのです。そこで自分をごまかしてはいけません。自分をごまかさないということが正直ということなのです。
 ですから、あなた方がしょっちゅう歌っているこの歌は本当に立派な歌ですから、この歌を歌いながら、しかも歌の文句で自分自身の気持ちを顧(かえり)みて、そしてお題目を唱えていくことがよいのです』
と仰せであります。
 但し、正直という事と、何でも思った事を口にするというのは違います。何でも胸の内にあることや言わなくていいことは言わないのも知恵です。
 極端な例ですが、自分のどうしても好きになれない人に、面と向かって「あなたのことが嫌いです」と言ったり、伴侶のいる相手に「好きです」と告白したところで、人間関係が崩れるだけです。
 他人の秘密を包み隠さず暴露するのは正直とはいいません。また、自分の過去の出来事であっても、何でも吐露する必要も無い時もあります。
 そういうのを「馬鹿正直」と言いまして、思慮の足りない愚かな行為であります。

 正 義
 辞書には「正しい道義。人が従うべき正しい道理。正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された」とあります。
 仏法では「しょうぎ」と言う場合が殆どですが、意味合いとしては同じです。究極の正義は大聖人の法・御振舞にあり、さらに日興上人が「日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候」(聖典五六〇)
と仰せの如く、日興上人をはじめ唯授一人の御歴代上人の中にのみ存するのです。
 さらに御隠尊日顕上人は同大会の砌、正義について、
 『これは正しいということでありまして、大聖人様の教えは根本的な、一切を含む正義なのです。一切を包含(ほうがん)したところの正しい教えが大聖人様の教えなのです。ですから、どのような人がどのような気持ちのところからも、お題目の教えによって、また修行によって、その人の命がだんだんはっきりと素直な形になって、幸せになっていく道が開かれるのであります。(中略)今の世間は色々な面でめちゃくちゃで、隠れて悪いことばかりしているような人がいるのです。そのような人が多いのは中心がないからです。すなわち仏法の正しい教えという中心が失われているからなのです。あなた方は子供だけれども、その教えをきちんと受けていますから「南無妙法蓮華経」と唱えて信心していくなかに、本当に仲の良い人達がまとまっていく意味の中心がそこにあるのです。そういう気持ちで立派な歌を歌いながら、立派に成長していってもらいたいと思うのであります。 』
と仰せになられました。


 勇気も正直も正義も無い池田
 以上見て参りますと、ハッキリしたことが見えてきます。池田や創価学会のの振る舞いには、この三つの木が完全に欠落しています。
 池田大作は今回の宗門との問題で、ただの一度も、文章による正式な弁明書なり反駁書を出していません。もともと、猊下の甚深のご指南が「ドイツ語聞いてるみたいで分からない」と平気で言う様な、恥も文才も教学も無い輩ですので、書けないのでしょう。
 更に、勇気もない臆病者なのです。「私を守れ」と会員に連呼する様によく顕れています。やりたい放題・言いたい放題の破天荒な言動をしていながら、国会や裁判所に引きずり出される事を、極端に怖がります。
 世界の指導者ならば、「安心して下さい。皆さんは私が守ります。」とどうして言えなかったのでしょうか?
 何も自分に非が無いと言うのなら、一人ででも本山に来て、日顕上人にお目通り申し上げて、堂々と自らの主張をすればよかったのです。
 ほんの少しの勇気を拒み我見に執著しているが為に、いつまで経っても謗法のままなのです。謗法を犯してしまったことを誤魔化し、その罪を恐れて、根本の御本仏の大慈大悲を忘れてしまったのです。
 ここに「人間革命」があります。一応大作が書いた事になっています。この本は、私が慈本寺に赴任する少し前に、お山の倉庫を整理し、焼却するというので頂いてきました。今にして思えば、ご仏智だと思っております。
 誰も、山積みにされた学会の「人間革命」など見向きもしませんでしたが、これは学会破折に使えると思い頂きました。今回初めて読みましたが、意外と読み物としては面白いです。しかし、それ以上に学会破折ネタの宝庫です。持ってらっしゃる方もいないかもしれませんが、もしありましたら大切にしてください。
 学会員の折伏は、御書よりも「人間革命」を持って行った方が話が早いかも知れません。
 この中で大作は、いちおう著者の言葉として、
・仏法の真髄を基調とした伝記小説
・戸田先生の歩まれたその道と指導理念を誤りなく後世に残したい
・執筆の最初から、総本山に関することは、現日達上人猊下のご指導をつぶさに頂いており感謝している
等と述べております。
 その人間革命の中にこんな行があります。
 『或る人は利口気にいう。布教に、ラジオを使うべきだ、テレビを使用すべきだーと。何と浅はかな言であろうか。
 俗にいう、PRなど学会には絶対に必要ないのだ。これこそ、多くの新興宗教の取るべき、悪質な企業宗教の手段にほかならない。
 正法は、断じて法を下げるような方法は取らない。取る必要がないのである』
(2巻117頁)と言っております。
 今ではどうでしょうか?学会や聖教新聞のコマーシャルが流れない日はありません。
 学会は、過去の学会によって無慙にも「新興宗教」「悪質な企業宗教」「法を下げる」と破折されています。
 たぶん、三つの木の無い学会は指摘されても、知らん顔でしょう。

 御本仏の眷属としての命
 今まで縷々述べてきた本当の意味での3つの木とは、この正法を信じ行じていかなければ顕現することはありません。
 大聖人ご在世の鎌倉時代、大聖人のお弟子やご信者など多くの人々がその許(たもと)から離れて行ったという記録があります。それは大聖人が龍ノロの頸の座の難を逸れて佐渡ケ島への流罪が決ったその前後の事でした。
 大聖人は立教開宗宣言の直後、地頭東条景信に追われて清澄山を下山することになります。その後鎌倉の松葉ケ谷のご草庵を何者かに焼かれ、伊豆の伊東では流罪にあわれる。小松原では母君の病気見舞に来たところを東条景信に襲われ、最後は幕府の手によって捕らえられて、瀧ノロの刑場で首を刎ねられんとする、そして佐渡ケ島に流罪になりました。
 この大聖人のお姿を当時の弟子信者は目のあたりにして一つの疑問を抱くのです。それは『法華経の薬草喩品第五というお経の中に「現生安穏。後世善處」(現世は安穏にして後には善處に生ず。)と書いてあるではないか』と。
 これは大聖人の弟子、信徒のみならず、我々でも皆願うことです。信心していて現世が安穏になることは、真に有難い功徳です。その中で生き通すことができたならば、願わなくとも後には善き拠に生まれると書いてある。現世安穏なれば、後には善き拠に生まれる。だから皆信心したのであります。
 ところが自分たちのお師匠様である大聖大のご生涯を拝見するとき、「どこが現世安穏なのか、大難は四箇度、小難は数知れず、一つも現世安穏ではないのではないか」。
 「ということは、法華経に説かれている釈尊のことばに偽りがあるから、大聖人は現世安穏が実現しないのか。あるいは大聖入御自身が真の仏のお使い、法華経の行者ではないのではないか・・・。」とこういう疑問が涌いて来たわけです。
 それを弟子、信徒がお師匠様にお尋ねになる。日蓮大聖人はそれに対してこう答えます。「それは、現世安穏とは、困ったことや悩み事が全部解消するとか、今まで辛くあたっていた人が優しくなる等のように、自分を取り巻く環境が全て変わって、自分も穏やかになるということを言っているのではない。」と仰せになるのです。「それではお師匠様にとっての現世安穏とは何なのですか。」と、お弟子が尋ねると、何と驚くべきことに、「難来たるを以て安楽行と心得べし」と、こうおっしやるのです。
 御自分が法華経の行者として布教の務めを果たすその途上で、これを妨害する人が出て来る、これが法難であります。それが次から次に来る。これをもって、これはたまったものではない、といって背を向けたら法華経の行者ではありません。様々な妨害がそこに加わるということは、お経に説かれた仏様の未来記すなわち予言です。これが適中したということは、自分が法華経の行者であることの何よりの証であるから、「難来たるを以て安楽行と心得べし
これが現世安穏の偽わざる姿なのだと、こう解釈あそばされたのです。
 しかし、大聖人はこういう説明を信者に対し、日夜怠らず、繰り返していたにもかかわらず、真の時に皆退転して逃げてしまいました。
 干人いれば九百九十九人までがいなくなってしまったのです。なぜ逃げ出したのか、お弟子にはお弟子の言い分かあるのです。
 では何といったか。それは、「日蓮大聖人はお師匠様にておわしますが、あまりに恐し。」それは、あの鎌倉幕府が日蓮大聖人の一門を弾圧している時に、南無妙法蓮華経と自ら声を出して大音声に唱えるということは、自分は日蓮大聖人の信者であるということを世に公言することになったわけです。今、皆さんがお寺の本堂で、あるいは家の仏壇で南無妙法蓮華経と唱えたときに、警察に引っぱられて罰せられることがあり
ますか。これはない。まして命の危険に及ぶことはまずない。
 しかし鎌倉時代はそれをすれば命にかかわる迫害を受けることもあるので、日蓮大聖大の信者であることを宣言し、御題目を唱えることを世に訴える手段とした場合、大変な勇気がいる行為になるわけです。でも大聖人はそれをしなさい、と言う。「南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱うべし」と言う。
 今、平成の今日に我々が御題目を声に出して唱えましょうという意味あいと、鎌倉時代の頃に大聖人が信者に声を出して唱えろと言った意味とはずいぶん趣が違うことも事実であります。
 しかし、それを要求されますと、お弟子は牢獄につながれる。信徒が武士なら、お家断絶か所領没収という苛酷な制裁が待ち受けている。その通りやったのでは、身がもたない、家庭がもたない。そこでお弟子は、「日蓮御坊はお師匠様におわしますがついて行けない」と訴えるわけです。
 また、残った弟子は、「もっと和らかに法を広めてはどうだろう」と進言するのです。お師匠様のように真正面から行ったら身がもたない。しかし私達は法華経を捨てはしない。「もっと和らかに、穏やかに法を広める方法があるかも知れないから、これを探し求めて研究したい」とこう進言しました。その時に大聖人が「そうか、それも一つの道だから君たち、よく研究して努力しなさい。」とお認めになったかどうか、ということが問題であります。
 私たちはこれをよくよく注意して見ていく必要があります。日蓮大聖人はこうおっしやっている。「私の弟子ならば、わたしがやったように、その通りに正しい道理を修行しなさい」というのです。

 「日蓮より別の才覚無益なり」と末法の御本仏が、この手段しかないと旗印を挙げて折伏逆化の題目布教をした。それに対して、弟子たちは和らかな法を広むべしとの考えの上に別の方法を講じてみて何とか研究しましょうという。これは大聖人の眼からすれば「別の才覚」ということになる。君たちの才能や工夫の世界でそういうものがあろうはずがない。これはいくら詮索してみても「無益だ」利益がないといわれるのです。
 確かに私達の眼から見れば平成と鎌倉は違うように映ります。しかし、大聖人様の眼に映る平成も鎌倉も共に、末法という時代の一部であります。これを覆すことはできません。
 それを法華経の寿量品には「失心狂子」(本心を失い狂ってしまった子供)と表現し、日蓮大聖人も観心本尊抄に「末代の幼稚」と表現しておられます。これは、仏法のことが何もわからない人を指すのです。ただ知識が無いだけではなく、残念なことに、大聖人様の救済の大慈悲に対しても背を向けてしまう。こういう人たちが生まれて来る時代、これを末法と定義されたのです。
 私たちは、この末法という時代、大聖人の大慈大悲を身に体し、四箇の格言に示されるような誤った信仰・思想を持つ人々の邪義を悉(ことごと)く破して、正法を顕現する破邪顕正の折伏を行じていくことが肝要です。
 『秋元御書』に、
 「謗国(ぼうこく)と申すは、謗法の者其の国に住すれば其の一国皆無間大城になるなり」(御書 1450頁)
とあるように、謗法の罪は身を破り、家族を不幸にし、また一国を没し、ついには世界全体をも滅ぼしてしまいます。
 大聖人の正法を持つ者は、日本はもちろんのこと、世界中の人々を救うために、正法の正義とその功徳の大なることを説き弘め、親が子の悪行に心を痛めるように、慈悲の心を以てその謗法を除いてあげることが大事です。
 折伏を行ずる者は仏の使いであります。ゆえに自然と御本仏の眷属としての生命力が湧いてくるのです。さまざまな折伏の功徳の中でも、このことが最もはっきりとわかるのです。
 たとえ、打ち沈んだ弱々しい境界であっても、折伏を行ずると、生き生きとしてくるのです。そして人を救うに当って、智恵と勇気が具わってくる。いままで自分のことだけで頭がいっぱいの愚痴の凡夫が、このように人を救い国を憂うる境界に一変するのは、まさに御本仏の眷属としての命が湧いてきたゆえである。
 諸法実相抄には 「日蓮と同意ならば、地湧の菩薩たらんか」 と仰せられています。大聖人に同心し奉るゆえに「地湧の菩薩」すなわち
御本仏の眷族の命が出てくるのです。


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