ホーム 御住職の法話目次  御住職の法話 (第174号)
   
 
 

 【先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし

 
 
 死は一定なり
 
    前回の法話で、私は四苦八苦について申し上げました。その中の死について、
 『どんな手段を使っても、どれだけ信心があっても、どんなに良い人でも、絶対に死ぬことからは逃れられません。永遠に生きることは不可能なのです。しかし、私たちはどうしても「死ぬ」という現実から目を背けてしまいます。』
と申し上げました。
 これは、人類のみならず、有情界(うじょうかい)の一切にわたるものであり、成住壊空(じょうじゅうえくう)の四劫と言って、人智を遥かに超えた時間・空間に渡り誕生から消滅までを無限に繰り返していくという、仏様の大きな視野から見れば、情・非情の一切に訪れるものなのです。
 「死は一定(いちじょう)」と大聖人が仰せになられるのも、正にこの意からです。
 「鬼平犯科帳」「剣客商売」「梅安シリーズ」で有名な作家の池波正太郎氏は、かつてエッセイの中でこう述べています。
『人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向かって歩みはじめる。死ぬために、生きはじめる。そして、生きるために食べなくてはならない。何という矛盾だろう。これほどの矛盾はあるまい。
 つまり、人間という生きものは、矛盾の象徴である。だが、人間はうまくつくられている。生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する...というよりも、これは本能的に感じることができるようにつくられている。
 一腕の熱い味噌汁を口にしたとき、(うまい!)と感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。
 愛する人を得ることもそうだし、わが子を育てることもそうだろう。だから生き甲斐が絶えぬ人ほど、死を忘れることにもなる。
 しかし、その生き甲斐も死にむすびついているのだ。』
 また、「人間40歳を過ぎれば、一日一度は死というものを考えた方がいいよ。」と周囲にアドバイスしていたそうです。
 なかなか含蓄のある、意見だと思います。私自身池波正太郎のファンなので、ただ流してよむと、妙に納得してしまいます。
 しかし、惜しむらくは、本当の意味での『生き甲斐』『生きる意味』を知らなかったという事です。
 何も、我々は死ぬ事を目的として生まれてきた訳ではありません。我々は何のために生まれてきたのか、端的に言うならば、仏の境涯を開く為であります。
( 仏の境涯とは、どんな困難があっても、必ずそれを自分自身で乗り越えるとことができるという境涯です) 。
 濁悪の末法に生まれてきた我々が、仏の境涯を開く唯一の道は、「上求菩提 下化衆生」(じょうぐぼだい げけしゅじょう)。すなわち、上=仏に菩提を求め、下=衆生に布教化導していくことが、仏の境界を開くことを願い菩薩道を修する。これに尽きるのであります。 
 これが本当の、『生き甲斐』『生きる意味』であります。聞いただけだと難しく思われるかもしれませんが、正直に余事を交えず、この法を信じ・行じ、他の人にも説いていくという事です。
 大聖人様は、
 「須らく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ今生人界の思い出なるべき」と仰せであります。
 「今度の住職は、苦しむとか死ぬとか、暗い話しかしない。」と思われる方もおられるかも知れませんが、生きるという事は、大変なことの方が多いものですが、「自分もいつかは必ず死ぬ」と思い定める事によって、かえって日常のあらゆるものに心から報恩感謝出来、己の生き様も定まって来るのではないでしょうか。
 大聖人様も、
 「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(一二四六頁)
と仰せであり、死というものにきちんと向き合い、学んでいくことの大切さをご指南されています。
 人間は生まれ落ちた瞬間から死へ向かって歩み続けています。誰一人免れることはできません。昔から不老不死を求めた人は多いのですが、そんなものは存在しません。
 中国を初めて統一し、万里の長城を築いた秦の始皇帝は、不老不死の薬を持っていると言われる仙人を求めて、方士(仙人を招き寄せる方術の使い手)徐芾(じょふつ)の「東の海中に3つの神山があり、そこに仙人がいる。仙人を求めたい。」
との進言により、何度も東方の海岸に巡幸しました。
 この徐芾は、不老不死の妙薬を持つ仙人の存在など、はじめから信じておらず、始皇帝から金と人を出させるのが目的で、最後は日本へ渡って神武天皇になったという説があります。
 始皇帝も最後は、方士が飲ませた薬(水銀という説がある)でさらに体を悪くし、紀元前210年に5度目巡遊中に死去しました。
 また、此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧け(欠け)たる事も無しと思へばと詠い、位人臣を極めた藤原道長も不老長寿を願いましたが、そればかりは、願いはかないませんでした。     
 道長は浄土教に対して信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で、苦しみながら、仏像と自分の手を五色の紐で結んで臨終の時を迎えたとされています。
 栄華を極めた世の権力者の、皮肉な最期を思うと、今生において何が大事かよくよく考えさせられます。
 法華経では、死について「方便現涅槃(方便に涅槃を現ずる)」と説かれます。生も死も命の一形態であって、命は過去から未来へと連続しているのだと説きます。
 また、そこには厳然と因果の理法が存在します。人生のすべては仏智によるものではあっても、その長短は各々違っています。これは差別であって、平等ではありません。
 性別も、顔も、身長も、境遇も、考え方も、みな様々です。これらはすべて縁起であり、それぞれが過去世からの因果なのです。
 したがって、差別即平等、平等即差別であって、二而不二なのです。
 差別界にいる我々は、平等に即した差別の上で、信仰生活をすることが大事なのです。
 『兄弟抄』に、
 「なにとなくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」
と、大聖人様の大慈悲の上での厳しいご指南があります。
 そもそも大聖人様が、諸宗の教えに疑問を持たれたのは、高僧・名僧と世間で言われる人の、悶死の状態と死相の悪さも一因としてありました。
 『妙法尼御前御返事』に、
 「法華経に云く『如是相乃至本末究竟等』云云、大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云、守護経に云く『地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相』等云云、天台大師の摩訶止観に云く『身の黒色は地獄の陰に譬う』等云云」
と臨終の相にふれられています。
 先の「いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」とのご指南は、大聖人様の教えから退転してしまい、隠す事の出来ない自分の死相が、真っ黒で周囲の笑い者にならないようにしなさいよというご指南です。


 私事になりますが、二月二十六日の入院式から、しばらく私の両親が手伝いで、慈本寺にいてくださいました。私が二十九年前に十二歳で出家してよりこのかた、一緒に暮らすことは無かったので、あまりしみじみ話す機会も無かったのですが、一人ここの本堂で唱題していた父が、入ってきた私の顔を見るなり「道芳さんも立派なお寺の住職さんになったし、ワシはもう思い残すことは無い。あとは、真っ黒な顔をして死んで、道芳さんに恥をかかせないように、それだけを祈っている。」と淡々と言われました。
 一度父は、胃癌で胃の四分の三を摘出するという大手術をしているので、それ以来死への覚悟が出来ているのか、何の気負いもなく静かに言われたその言葉に、深い愛情とともにむしろ凄みを感じ、そこまでの境涯に至っていない己の未熟さを痛感いたしました。


 さて、先に挙げた『兄弟抄』ですが、大聖人様がこの御書を書かれた、池上兄弟と、当時の状況について御説明いたします。
 日蓮大聖人は、建長五年四月二十八日に立宗宣言をなされた後に、安房の清澄寺を追放されました。
 その後、間もなく、日蓮大聖人は鎌倉にお出ましになり、松葉ヶ谷の草庵にお住まいになられます。
 兄弟の入信は、日蓮大聖人が立宗宣言されてから数年後の頃といわれ、最も早く大聖人の弟子になっていた日昭の甥に当たることから、その関係で入信したものと思われます。 
 建長八年頃に、まず、池上兄弟の兄である宗仲が、四条金吾殿と共に入信されて、その直後に、池上兄弟の弟である宗長も入信された、と云われています。
 どちらかというと、兄の池上宗仲は信心強情なタイプで、弟の池上宗長は付和雷同的なタイプのように、周囲からは見られていたようです。
 池上兄弟の父である池上康光は、作事奉行(建設・修繕・土木工事等を管轄)として、鎌倉幕府に仕えていました。本姓が藤原氏であった池上一族は、当時、名門の家柄でもありました。
 また、池上康光は、極楽寺良観に帰依していました。
 そして、僭聖増上慢の極楽寺良観は、日蓮大聖人から破折されたことに恨みを持っていたため、鎌倉幕府に取り入って、日蓮大聖人への讒言や迫害を行っていました。
 そのため、池上康光も極楽寺良観に感化されて、宗仲・宗長殿の兄弟が入信されたことに対して、憤りを持っていたようです。
 そして、極楽寺良観は池上康光と共謀して、池上兄弟の離叛を試みようとします。
 遂には、兄の宗仲が父の康光から文永十二年(一二七五年)と建治三年(一二七七年)の二回にわたって勘当され、家督を弟の宗長殿に譲ろうとする事件が起こります。
 当時の武士にとって、親から勘当される事は死を意味し、親の意に逆らう事は、「あってはならない・不知恩極まりない」事でした。
 そのために、日蓮大聖人が池上兄弟に対して、そして、池上兄弟の御夫人方に対して、退転の誡め等の御慈悲溢れる御指南を与えられた御書が、この『兄弟抄』であります。
 大聖人はその中で、法華経を信仰すれば、必ず魔は信心を妨げようとする。それはまた、過去世の謗法の罪が現れて消滅しようとしているのであるから、何としてもそれを乗り越えて仏道を成就しなければならない、と御教示されています。そして、兄弟の夫人達には、もし仮に夫が信心をやめようとした時には夫人同士で結束して諌めていくよう仰せられ、兄弟・夫人が団結していくよう教えられています。
 法華経の信仰をやめれば家督相続権が自分に転がり込み、父の所領などすべてを受け継げるという大きな誘惑に弟、宗長はともすると動揺を見せましたが、兄弟が力を合わせて父を諌め、弘安元年(1278年)には反対を続けた康光も念仏を捨てて大聖人に帰依。翌弘安2年、康光は題目を唱え安らかにこの世を去りました。このとき大聖人は池上兄弟に『孝子御書』を与えられました。
 このことは、封建社会において、最も難しい親の折伏を成し遂げ、最高の孝養を尽くしたことになります。
 我々はありがたいことに、池上兄弟と異なり、自由に布教できる時代に生まれ合わせています。いたずらに死を畏れず、唱題を根本に身命を賭して大法弘通に励むならば、
 「いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す 大事の法門これなり」(上野殿後家尼御返事三三六頁)
と大聖人が仰せのように、その徳は今生にのみ留まらず、未来永劫にまで及んで行くのです。

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