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日蓮大聖人御書の一節
毎月の暗記御書
                                  20年22232526〜30
月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。聖人御難事 平成新編御書一三九七

意訳 月々日々に奮い起(た)ちなさい。すこしでも油断する心があれば魔が近づいてくるであろう。(平成25年12月) 
 
設(たと)ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして、只(ただ)法華経のみはぐらせ給ふべし。兄弟抄 平成新編御書九八七

意訳 たとえどのような煩わしい嫌なことがあっても、それらは夢の中のこととして、ただ法華経(御本尊)のことだけを思い続けなさい。(11月) 
(11月
) 
 
法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。百六箇抄 平成新編御書一六八七

意訳
法は自然に弘まらない。人が法を弘めるから、人も法も尊いのである。(10月) 
 
功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。御義口伝 平成新編御書一七七五頁

意訳  功徳とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄の果報である。所詮今日蓮や弟子檀那が南無妙法蓮華経と唱えれば六根清浄となる。9月
 
法華経を信ずる人のをそるべきものは賊人強盗夜打ち虎狼師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり。兄弟抄 平成新編御書九八〇頁

意訳法華経を信ずる人の恐れなければならないものは、賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも、現今の蒙古の攻めよりも、法華経の行者の信心を悩ます人である。(8月)
 
仮令強(たといごう)言(げん)なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設(たと)ひ軟語なれども、人を損(そん)ずるは妄語(もうご)・強言なり。『善無畏三蔵抄(ぜんむいさんぞうしょう)平成新編御書四四五頁

意訳  たとえ強い言葉であっても、人を助けるためであれば、真実の言葉であり、柔らかい言葉である。たとえ口調が柔らかく、耳当たりのよい言葉であったとしても、人を不幸に陥れるようなことを教えるとすれば、それは妄語であり、人を傷つける強言である。(7月)
 
皆法華経のゆへなればはぢならず。愚人にほめられたるは第一のはぢなり。開目抄下平成新編御書五七七頁

意訳〉  全て法華経の信心の為に悪口罵詈されるのであれば、誉れでこそあれ恥ではない。仏法を知らない愚人にほめられることが第一の恥なのである。(大聖人・御本尊にほめられよう)(6月) 
 
人に物をほどこせば我が身のたすけとなる。譬へば人のために火をともせば我が前あきらかなるがごとし。食物三徳御書平成新編御書一三二一頁

意訳人に物を施せば我が身を助けることになる。譬えば人のために火をともせば自分の前も明るくなるようなものである。(5月)
  
 
法華経は、初めは信ずる様なれども後遂ぐる事かたし。松野殿女房御返事平成新編御書一四九五

意訳 法華経を初めは信ずるようであっても最後まで信じとおすことはむつかしいのである。(4月)
 
 
我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。草木成仏口決平成新編御書五二二

意訳我等衆生が死んだ時に塔婆を立てて開眼供養するが、これが死の成仏であり、非情草木の成仏である。(3月)

 
当年の大厄をば日蓮に任させ給え。釈迦・多宝・十方分身の諸仏の法華経のお約束の実不実は是にて量るべきなり。太田左衛門尉殿御返事平成新編御書一二二四

意訳 あなたの当年五七歳の大厄は安心してこの日蓮に任せなさい。厄を払いのけてあげます。釈迦・多宝・十方分身の諸仏が法華経の会座で守護すると誓ったのであるから、それが履行されるかどうかは、あなたの厄が払い除かれることによって証明されるのである。(2月
 
 
仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。法華初心成仏抄平成新編御書一三二一

意訳 仏するためには、驕(おご)りや偏(かたよ)った考えの心をなくし南無妙法蓮華経と唱えることが肝要なのである (平成25年
1月
 
一生が間賢(けん)なりし人も一言(いちごん)に身をほろぼすにや。兄弟抄』 平成新編御書九八三頁

意訳一生の間賢明であった人も話す一言で身を滅ぼすのである。
  (平成24年12月)
 
この文は始めて我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。『御義口伝』 平成新編御書一八〇一頁

 意訳 
法華経五百弟子授記品には「貧なる人此の珠を見て其の心大に歓喜す」と説かれている。この経文からはじめて自身の当体が本来仏であると知ることを大歓喜というのである。南無妙法蓮華経と唱えることは仏界の湧現であり、成仏を現していくから大歓喜の中の大歓喜である。
(11月)
 
いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給ふべし 『四条金吾御返事』 平成新編御書一四〇七

 〈意訳 
どのように日蓮があなたの事を祈っても、肝心なあなたが御本尊を信じないならば、ぬれた口火に火を打ち掛けるようなもので、あなたの願いは叶わない。従って自らを励まして強盛に信力を出しなさい。 10月
 
無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧(すす)めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。 『持妙法華問答抄』 平成新編御書三〇〇頁

 〈意訳 
南無妙法蓮華経と自身も唱え、他人にもそう勧めることこそが、人間として生まれてきた今生の思い出なのである。 (9月) 
 
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書九九一頁

 意訳 
苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。 (8月)
 
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来もまたしかるべし。是あに地涌の義に非ずや。 『諸法実相抄』 平成新編御書六六六頁

 〈意訳 
初めは日蓮大聖人一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人三人百人と次第に唱え伝えたのである。未来もまた同じであろう。これこそ地涌の義ではないか。 (7月)
 
 
一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給ふべからず。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御書一一六二頁

 〈意訳 
人間の一生は夢の上の出来事のように、はかないもので、明日の命も分からないものである。いかなる乞食になっても、法華経にきずをつけてはならない。 (6月)
 
末代の凡夫、三宝の恩を蒙(こうむ)りて三宝の恩を報せず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地(しんじ)観(かん)経(ぎょう)・梵網経(ぼんもうきょう)等には仏法を学し円(えん)頓(どん)の戒を受けん人は必ず四(し)恩(おん)を報ずべしと見えたり。 『四恩抄』 平成新編御書二六八頁

 〈意訳 末代の凡夫は、仏法僧の三宝の恩を受けながら三宝の恩を報じようとしない。どうして仏道を成ずることができようか。そこで心地観経や梵網経などには、仏法を学び法華経の円頓(功徳が円満に具わり速やかに成仏を遂げる)の戒を受けた人は、必ず四恩(父母・衆生・国土・三宝の恩)を報じなければならないととかれている。 (5月)
 
 
 知者とは世間の法より外(ほか)に仏法を行(ぎょう)ず、世間の治世(ちせい)の法を能(よ)く能(よ)く心へて候を知者とは申すなり。  『減劫(げんこう)御書(ごしょ)』 平成新編御書九二五頁

 〈意訳 知者というのは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである。仏法を根本にして、世の中の法をよくよく心得ている人を知者というのである。
 (4月) 
 
賢人(けんじん)は八風(はっぷう)と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・樂(たのしみ)なり。をゝ心(むね)は利(うるおい)あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。 『四条金吾殿御返事』 平成新編御一一七頁

意訳 賢人は、八風という八種の風に侵されない人を賢人というのである。八風とは利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・樂(たのしみ)の八つをいう。主旨は、望み通りことが成就した時でも喜ばない。反対に望み通りにならず不満・不足の時でも嘆かない等をいうのである。 (3月)
 
但(ただ)在家(ざいけ)の御身(おんみ)は余念(よねん)もなく日夜(にちや)朝夕(ちょうせき)南無妙法蓮華経と唱(とな)へ候(そうら)ひて、最後(さいご)臨終(りんじゅう)の時を見させ給へ。松野殿御返事  平成新編御一一六九

 〈意訳 但(ただ)し在家(ざいけ)の御身は、謗法(ほうぼう)の他念なく、毎日朝夕に南無妙法蓮華経と題目を唱え、最後(さいご)臨終(りんじゅう)の時を迎えるよう心がけなさい。 (2月)
 
法華経を二人・三人・十人・百千万億(ひゃくせんまんのく)人(にん)唱え伝うるほどならば、妙(みょう)覚(がく)の須弥山ともなり、大涅槃(だいねはん)の大海ともなるべし。仏になる道は此(これ)よりほかに又もとむる事なかれ。 『撰時抄 平成新編御書八六八

 意訳 法華経の題目を二人・三人・十人、さらに百千万億人の人が次第に唱え伝えていくならば、妙覚の極果(ごっか)の須弥山ともなり、大涅槃の覚りの大海ともなるのである。我々が仏になる道は法華経の題目を唱え伝えるということ以外に求めてはならない。 (平成24年1月)
 
 
法華経と申すは随(ずい)自意(じい)と申して仏の御心(みこころ)をと(説)かせ給ふ。仏の御心(みこころ)はよき心なるゆへに、たとい(仮令)し(知)らざる人も此の経をよみたてまつれば利益(りやく)はか(計)りなし。『衆生身心御書』平成新編御書一二一二頁

意訳 法華経という教えは、随自意といって仏の御心、すなわち悟りをそのまま説かれた教えである。仏の御心は最善の心である故に、たとえこの意義を知らない人であっても、この経を読み奉るならば、その利益は計り知れないほど大きい。 (平成23年12月)
 
大地はさゝばはづるゝとも、虚空(こくう)をつなぐ者はありとも、潮のみち(満)ひぬ(干)事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず。『祈祷抄』平成新編御書六三〇

意訳 大地を刺してはずれることがあろうとも、虚空をつなぎ合わせる者がいようとも、潮が満ち干ないことがあろうとも、日が西より出ることがあろうとも、法華経の行者の祈りが叶えられないことはあろうはずがない。(どのようなことがあっても、法華経の行者の祈りは絶対にかなうのである。(11月)
 
夫(そ)れ以(おもん)みれば 末法流布の時 生(しょう)を此(こ)の土(ど)に受け此の経を信ぜん人は如来の在世(ざいせ)より猶多(ゆた)怨嫉(おんしつ)の難甚(はなは)だしかるべしと見えて候(そうろう)なり『如説修行抄』 平成新編御書五〇一頁

意訳 つらつら考えてみるに、この末法という三大秘法の南無妙法蓮華経が流布する時に、生をこの日本国に受け、この経をたもち、信行に励んでいく人に対しては、法華経法師品第十に「末法においては、釈迦在世よりも猶怨嫉が多いであろう」と、釈迦は多くの大難が競い起こることを予言しているのである。 (10月) 
 
提婆(だいば)達(だっ)多(た)は阿鼻地獄(あびじごく)を寂光(じゃっこう)極楽(ごくらく)とひらき、竜女(りゅうにょ)が即身成仏(そくしんじょうぶつ)もこれより外には候はず。逆(ぎゃく)即(そく)是(ぜ)順(じゅん)の法華経なればなり。これ妙(みょう)の一字の功徳なり。『上野殿後家尼御返事』 平成新編御書三三七頁

 意訳 法華経を持つ人は、その功徳によって地獄を寂光土に転じていくのである・・・。提婆達多が阿鼻地獄を寂光土と開くことができたのも、竜女の即身成仏も、法華経を信ずること以外にはあり得ないのである。逆縁の衆生をたちまちに順縁にして救いきっていく法華経なればのことである。まさに法華経の妙の一字の功徳である。 (9月)
 
御いの(祈りの叶ひ候はざらんは、弓のつよ(強)くしてつるはよは(弱)く、太刀(たち)つるぎ(剣)にてつか(使)う人の臆病なるようにて候べし。あへて法華経の御とが(失)にては候べからず。『王舎城事』平成新編御書九七四頁
   
意訳
 御祈念が叶えられないのは、弓は固い者の弦が緩く、
立派な太刀、剣をもちながら使う人が臆病であるのと同じである。法華経(南無妙法蓮華経の御本尊)への信仰が弱いのを棚に上げて、法華経のせいにしてはならない。 (8月)
 
 
末代の悪人等の成仏不成仏は、罪の軽重に依らず、但(ただ)此の経の信不信に(の、は間違いです。)任すべし。『南部六郎三郎殿御返事』平成新編御書六八四頁

 〈意訳 末法の悪人等の成仏、不成仏は、罪の軽いか重いかによるのではなく、ただ、この法華経(御本尊)への信心があるかないかによって決まるのである。
(7月)
 
この曼荼羅能(よ)く能(よ)く信ぜさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は獅子吼(く)の如しいかなる病さは(障)りをなすべきや。『経王殿御返事』平成新編御書六八五頁

意訳 この御本尊をよくよく信じられよ。南無妙法蓮華経は獅子のほえるようなものであり、いかなる病気も障害をなすことはできないのである。末法の悪人等の成仏、不成仏は、罪の軽いか重いかによるのではなく、ただ、この法華経(御本尊)への信心があるかないかによって決まるのである。
 (6月)
 
仏智の及ばぬ事何かあるべき、なれども法華の題名(だいみょう)受持の功徳ばかりは是を知らずと宣(の)べたり。法華一部の功徳は只(ただ)妙法等(とう)の五字の内(うち)に籠(こも)れり 『聖愚問答抄』 平成新編御書四〇七頁

 〈意訳 仏の智恵の及ばないものはない。けれども法華経の題名(南無妙法蓮華経)を受持する功徳ばかりは、その大きさを知らないと述べている。法華経一部の功徳は、ただ妙法蓮華経の内におさまっているのである。 (5月)
 

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ。仏種は縁に従って起こる、是の故に一乗を説くなるべし。『米穀御書』 平成新編御書一二四二頁

意訳 其の国の仏法流布は、あなたにお任せする。仏種は縁によって起こるものである。この故に一乗の法である法華経を説くのである。(4月)
 
忠言(ちゅうげん)は耳に逆らひ良薬は口に苦しとは先賢(せんけん)の言(ことば) なり。やせ病の者は命をきらう、佞人(ねいじん)は諌(いさ)めを用いずと申すな り。 『八幡宮(はちまんぐう)造営事(ぞうえいのこと) 平成新編御書一五五六頁

意訳 忠告する言葉は耳に逆らい(なかなか聞き入れられない)、 良い薬は口に苦いとは、むかしの賢人の言葉である。病身の者は、生きることを きらう(苦しみに耐えられず死んだ方がよいと思う)、心の曲がった人は、人の いさめを用いないといわれている。(3月)
 
蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。『崇峻天皇御書 平成新編御書一一七三頁
 
意訳 蔵に蓄える財(財産)よりも身の財(健康や身に備わる才能、技芸)の方がすぐれ、身の財より心の財(正しい信心、人格、人間性)が第一にすぐれている。 この御文を御覧になってからは心の財を積むようにしなさい。(2月)
 
法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔より()かず()ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫(ぼんぷ)となる事を。 『妙一尼(みょういちあま)御前御返事』 平成新編御書八三二頁)

 〈意訳 法華経の信心をしている人は、冬のような厳しい状態に置かれることになる。しかし、冬の次には必ず春が来る。昔から今に至るまで、冬が秋に戻る、などということは、聞いたことも見たこともない。それと同じように、法華経を信仰している人は必ず仏になることが出来るのである。不幸な凡夫に逆戻りする、などということはありえない。(平成23年1月)
20年22232526〜2