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 六十八世御法主日如上人猊下指南
              
                        年度/2223| 24〜2728〜30
 
 三十年<一月> 
 私仏法の上から申し上げるならば、自分を折伏してくれた人に対する感謝と恩返しは、今度は自分が折伏する立場に立って、いまだこの大法を知らない人のために、一切衆生救済の秘法たる大聖人の仏法を説いていくこと、すなわち折伏することこそが、最高の恩返しとなるのであります。
           平成二十九年九月三日 於 総本山
 <十二月> 
 私達日蓮正宗僧俗の真実の報恩行とは、三大秘法の御本尊様を御建立あそばされた大聖人様の大慈大悲をお心とし、不自惜身命の信心で破邪顕正の折伏を実践するところにあることを、よく明記するべきであります。
          
平成二十九年九月三日 於 総本山 
  <十一月> 
 お題目をしっかり唱えて折伏する、これが私達の信心の原点であります。
 それが、世の中のためでもありますが、同時に、自分自身の一生成仏のためでもあるわけです。このことを念頭に置いて、これからもしっかりと頑張っていただきたいと思います。
        平成二十九年五月二十八日 法華講夏期講習会第二期の砌 
  
 
 <十月> 
 結局、折伏は、出来ないのではなく、やらないからできないのです。だから、やれば必ず出来るのです。大聖人様の弟子檀那たるならば、たとえ一文一句なりとも、折伏することが肝要であります。『諸法実相抄』のなかで、大聖人様は、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と、たとえ一文一句なりとも折伏をしなさいとおっしゃっております。
        平成二十九年五月二十八日 法華講夏期講習会第二期の砌 
 
 <九月> 
 折伏は、間違った宗教への頑迷な執着を取り除き、真の幸せを招来する正しい信仰に導き入れる最善の方途であります。それだけに、単なるものの勧誘とは異なり、相手の命に食い込む真剣な対話がなければならないのであります。折伏する側の言葉、態度が相手に与える影響は極めて大きいことを知らなければなりません。
 したがって、折伏に当たっては、まず己自身が大御本尊様の広大無辺なる功徳を拝信して、絶対的な確信を持って唱題に励み、その功徳と歓喜をもって折伏に当たることが肝要であります。
        平成二十九年七月二日 於 総本山

                      
 
 <八月>
常に信心を中心にして対処していくことを、きちんと頭の中に入れておかなければだめなのです。何かあったら、お題目で乗りきる、折伏で乗りきる。これはあらゆる事に通じます。これが、我々の信心ななのです。
 人生にはいろいろなことがありますけれども、信心の根本をしっかりと持っていれば、きちんと御本尊様に対する絶対信をもって一生懸命にお題目を唱え、折伏することによってどのような大変な問題も乗り越えていくことができるのであります。  
        平成二十九年五月二十一日 於 総本山
 
 <七月>
  厳しい戦いであればこそ、困難を乗り越え、戦いきって請願を達成した時の喜びと充実感は計り知れないものがあると思います。かつ、様々な障魔や障害を乗り越えて、請願達成に戦っていくことは、一人ひとりが御本仏大聖人様の弟子檀那として、御遺命を拝して広布の戦いに挺身しているわけでありますから、その功徳はまことに計り知れない大きなものがあると存じます。
 されば、皆様には誓願達成へ向けて、なお一層の御精進を願うものであります。   

      平成二十五年八月度広布唱題会の砌
 
 <六月>
  徳を積むことは、まことに大事なことであります。同じことを言っても、徳のない人の言葉は相手に通じません。まさに徳を積むと言うことが、非常に大事なことでありまして、その徳を積む秘訣こそ、唱題であります。
 しっかりとお題目を唱えて、妙法の功徳を我が身に植え付けていくことが大事なのです。
 
 <五月>
よく聞く話ではありますけれども、折伏できない理由に折伏できない理由に「小さい支部だから」「都会と違って田舎だから」「大きい支部だから」「いくら言ってもみんながやらないから」などなど、これは愚痴ではあります。愚痴を言って、負けた理由を他人に転嫁するようなことは、かえって講中の和を乱し、ますます泥沼化するだけであります。
 法華講講頭会でのお言葉


 
  <四月>
 我々は人間に生まれてきて、そして何をなすべきなのか。(中略)やはり世のため」人のために尽くしていくということが大切なのであり(中略)我々が折伏をするのは、やはり一切衆生救済という慈悲行に徹するからであり、世のため、人のためなのです。そこに尽くしていくところにまた、己に尽くす因が篭められてくるのです。
 (折伏要文59頁)


 
  <三月>
  折伏をしてそのままにしておくことは、あたかも赤ん坊を産んでそのままにするようなものであり、これほど無慈悲なことはありません。また、育成をおろそかにするようなことがあれば、まことにもって、その人に対しても、また自分自身に対しても無責任極まる行動となってしまいます。
                二月度  広布唱題会の砌

 
 
  <二月>
  謗法に接触したならば、我々は折伏をすればいいのです。
折伏をしないで、まあまあ、やあやあと、お世辞ばっかり言って付き合っていると、やはり仏罰が下りますよという事です。
 大聖人様の教えは、非常に厳しいところがある。けれども、本当に私たちが幸せになろうとするならば、やはり謗法は絶対にしてはいけないのです。
 創価学会の姿を見てご覧なさい。
 戒壇の大御本尊様に対する信仰を否定してしまった。初め皆さん方も、その差は少しだったと思うかも知れません。しかし、何年も経った今はどうでしょう。完全に邪義邪宗そのものでしょう。学会自身も昔は、そういう謗法を破折していたのです。しかし今や、破折していた邪義邪宗になってしまった。だから、やはり小さな謗法から、しっかりと気をつけていかなければならないのです。
                   大百法29年2月1日 教徳寺移転新築の砌
 
   <平成二十九年一月>
 折伏と育成は一体であり、折伏した人を正しく育成していく責任は、折伏した人は勿論のこと講中全体の責任であります。
 講中が折伏と同様、組織を挙げて育成に取り組むことによって、はじめて激烈なる広布の戦いに耐え得る強靱な組織が構築され、更に教線を拡大して一天広布に向かって大きく前進することが出来るのであります。
                        平成29年1月1日 新年の辞より
 
   〈十二月〉
 大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「善なれども大善をやぶ()る小善は悪道に堕つるなるべし」(御書 三二三n)と仰せであります。すなわち、自分だけの幸せを求める信心は、たとえそれが善であったとしても、その善は「大善をやぶる小善」であり、「悪道に堕つるなるべし」と厳しく仰せられているのであります。
 そもそも、自分だけの幸せを求めて利他に欠けた、つまり折伏行に欠けた利己的な信心は、仏様が最も嫌った姿勢であります。爾前経において、二乗が(よう)不成仏、すなわち永遠に成仏できないと嫌われたことも、ここに起因しているのであります。
 されば、私どもは一人ひとりが自行化他の信心に徹し、自らも(ごう)(じょう)なる信心に励むとともに、邪義邪宗の害毒によって苦悩に(あえ)いでいる多くの人々に対して、救いの手を差し伸べ、折伏を行じていくことが、今、最も大事なのであります。
           平成28年10月度広布唱題会の砌

 
   〈十一月〉
 私達は強盛に折伏を行じていけば、様々な難が競い起こることは必定であります。しかし、それは大聖人様の仏法が正しいからであり、間違った教えでは、魔も驚きませんし、騒ぎもしません。
 私共が正しい信心をしているからこそ、様々な難が蠢動し、難が襲ってくるのであります。
 (中略)私どもは「魔競わずば正法と知るべからず」との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる難が競い起きようが、それを奇貨とし、決然として障魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を遂げることが出来るのであります。
                    大日蓮 平成28年10月号第848号
 
   〈十月〉
  大聖人様は『十法界妙因果抄』に、「慳貪無き諸の善人も謗法に依り亦謗法の人に親近し自然に其の義を信ずるに依って餓鬼道に堕することは、智者に非ざれば之を知らず。能く能く恐るべきか」
 と仰せられていますが、謗法の人に親近して、いつの間にか影響を受けて謗法に与同してしまうことが間々ありますが、それを避けるためには、とにもかくにも法華経を強いて聞かせることが肝要であります。なぜなら、信ずる人は仏に成り、謗ずる者も毒鼓の縁となって必ず成仏するからであります。
 また、己自身も与同罪受けることなく、成仏得道の道を歩むことができるのであります。
 もちろん、ここで「法華経」と仰せられているのは、法華経の肝心たる本門寿量品文底秘沈の南無妙法蓮華経のことであります。
 平成28年8月度広布唱題会の砌 
 
 〈九月〉 
  大聖人様は『最蓮房御返事』に、
「信心に退転無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行洗馬、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願も成就すべき成り」(中略)と、懈怠や詐りのない純真なる信心をもって、一切を大御本尊様 へ任せて、御金言のままに自行化他の信心に励むところ、後生は申すまでもなく、今生においても「息災延命」すなわち、災いをとどめ寿命を延ばし、災難や障害のない、幸福にして揺るぎない最高の境界、生活を送ることができ、広宣流布の大願も必ずかなうことが出来ると仰せられているのであります。全文はこちら
 平成28年唱題行(7月1日)の砌 於総本山

 
  〈八月度〉

 『世の中が混迷する原因は、その思想の乱れから起こるのであります。しかし、その思想の乱れは、なぜ起きるかと言えば、結局、間違った宗教によって起きるのであります。
 されば今、我々は、創価学会をはじめ間違った信仰によって不幸に喘ぐ多くの人々に対し、一日も早く、一切衆生救済の秘法たる日蓮大聖人様の正しい仏法を勧め、折伏していかなければならないのであります。
 『女説修行抄』には、「されば末法今の時法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(御書673)と仰せであります。

全文はこちら
 平成28年6月度 広布唱題会の砌 於 総本山客殿

 
  〈七月度〉
  『立正安国論』の聖意に照らすならば、正報たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依せば、その不可思議広大無辺なる妙法の力用によって、我ら衆生一人ひとりの生命が浄化されます。それが個から全体へ、衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて依報たる国土世間をも変革し、仏国土と化していくのであります。(中略)大聖人様の御聖意を体し、真の世界平和と仏国土実現を目指して、一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。東日本決起大会の砌・・以下全文掲載
 本日は、地涌倍増大結集推進東日本決起大会が、ここ、さいたまスーパーアリーナにおいて、御隠尊日顕上人猊下の御臨席を仰ぎ奉り、関係僧俗各位多数の出席を得て、このように盛大に開催され、まことにおめでとうございます。特に、東北方面の方々には、昨日の岩手・宮城内陸地震による被害の影響を受けながら、万難を排して参加され、心から有り難く存じます。まことに御苦労さまでございます。

 さて、この大会は、いよいよ明年に迫った『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節における御命題、すなわち「地涌倍増」と「大結集」、そして「記念総登山」の達成を期して執り行われるものであります。このうち地涌倍増と大結集の御命題は、平成14年に日顕上人猊下より賜った御命題であり、一天広布の途上において、我らが必ず達成しなければならない、極めて重大なる目標であります。されば、我らはこの決起大会を機に、改めて『立正安国論』正義顕揚の意義と、今なすべきことを確認し、御命題達成へ向けて、なお一層の精進をしていかなければならないと存じます。

 御承知のとおり、『立正安国論』は今を去る748年前、文応元(1260)年7月16日、宗祖日蓮大聖人御年39歳の時、宿屋左衛門入道を介して、時の最高権力者・北条時頼に提出された国家諌暁書であり、国家の興亡治乱を透視し、兼知し給う明鏡にして、過去・現在・未来の三世を照らして曇りなく、まさしく、「白楽天が楽府(がふ)にも越へ、仏の未来記にも劣ら」(御書1055ページ)ざる書であります。

 今、その概要を申せば、大聖人は正嘉元(1257)年8月23日の大地震をはじめ、近年より近日に至るまで、頻発する天変地夭・飢饉・疫病等の惨状を見て、その原因は世の中の人々が皆、正法に背き、悪法を信じていることにより、国土万民を守護すべきところの諸天善神が所を去り、悪鬼・魔神が便りを得て住みついているためであるとし、正法を信ぜず、悪法を信ずることによって、三災七難等の災難が起こると、仁王経・大集経・薬師経等を挙げてその理由を述べられ、これら不幸と混乱と苦悩を招いている原因はすべて謗法にあり、この謗法を対治して正善の妙法を立つるとき、国中に並び起きるところの三災七難等の災難は消え失せ、積み重なる国家の危機も消滅して、安寧にして盤石なる仏国土が出現すると仰せられ、しかし、もし正法に帰依しなければ七難のうち、まだ起きていない「自界叛逆難」と「他国侵逼難」の二難が必ず競い起こると予言され、こうした災難を防ぎ、仏国土を建設するためには、一刻も早く謗法の念慮を絶ち、「実乗の一善」に帰するよう、諌められているのであります。

 実乗の一善とは、文上の法華経を指すのではなく、法華経本門寿量品文底独一本門の妙法蓮華経にして、三大秘法の随一、本門の本尊のことであります。すなわち「実乗の一善に帰せよ」とは「立正」と同意であり、万民一同が謗法の念慮を断ち、三大秘法の大御本尊に帰依することが、国土を安んずる絶対不可欠な要件であると仰せられているのであります。

 しかるに今、国内の状況を見ると、人心は極度に荒廃し、為に先日の秋葉原や茨城での無差別殺人事件をはじめ、残酷で悲惨な事件や事故が多発し、政治・経済・教育・医療等、いずれも混乱・不況・腐敗・不信等、混迷の度合いを深め、また昨日の岩手・宮城内陸地震をはじめ、大地震の前兆とも思われる群発地震は各地で頻発しております。

 一方、国外では、死者7万7千余人、行方不明者5万5千余人と言われるミャンマーでのサイクロン。死者6万9千余人、行方不明者1万7千余人と言われる中国四川省での大地震。そのほか内戦、テロ・暴動・飢餓・地球温暖化問題をはじめ地球規模での環境破壊、抗体のない新型インフルエンザの脅威、時節はずれの洪水や干ばつなど、まさに『立正安国論』に示された悪世末法の世相そのままの姿を顕しているのが現状であります。

 しかしながら、世間の多くの人達はこうした混乱が何によって起きるのか、その原因が解らず、いたずらに喧噪を極めるばかりであります。もちろん、各分野においてそれぞれが原因を究明し、解決のための方策が講じられていることは認めますが、しかし残念ながら、根本的な解決には至っていないのであります。

 大聖人は『諸経と法華経と難易の事』に、「仏法ようやく顛倒しければ、世間も又濁乱(じょくらん)せり。仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲がれば影なゝめなり」(同1469ページ)と仰せであります。

 悲惨な事件や事故、戦争や飢餓、天変地夭などをはじめ、世の中が混乱する原因は、一にかかって仏法の乱れ、すなわち正法を信ぜず、悪法を信じているが故であります。故に『頼基陳状』には、「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見へ候」(同1129ページ)と仰せであります。すなわち、悪法を信ずれば人心が乱れ、人心が乱れれば国土世間にまで大きな影響を及ぼすことになるのであります。この仏法の原理が解らなければ、真の解決は図れないのであります。

 大聖人は『瑞相御書』に、「夫(それ)十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし」(同918ページ)と仰せであります。すなわち、仏法においては依正不二の原理が説かれ、主体たる正報とその依りどころとなる依報とが一体不二の関係にあることを明かされているのであります。よって、正報たる我ら衆生の六根のあらゆる用きが、そのまま依報たる国王世間へ大きく影響を与えているのであります。

 例えば『瑞相御書』には、「人の眼耳等驚躁すれば天変あり。人の心を動かせば地動す」(同919ページ)と仰せられ、また、「人の悦び多々なれば、天に吉瑞を表し、地に帝釈の動きあり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す」(同920ページ)と仰せられているのであります。

 この依正不二の原理は、凡夫の智慧をもっては到底、計り知ることのできない仏の透徹された智慧であり、三世十方、すなわち無限の時間と空間を通覧せられて、宇宙法界の真理を悟られた仏が明かされた知見であります。したがって、宇宙法界の根源の法たる妙法に照らして示されたこの依正不二の大原則を無視して、今日の如き混迷を極める惨状を救い、真の解決を図ることはできないのであります。

 すなわち『立正安国論』の正意に照らせば、正報たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依すれば、その不可思議広大無辺なる妙法の力用によって、我ら衆生一人ひとりの生命が浄化され、それが個から全体へ、衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて依報たる国土世間をも変革し、仏国士と化していくのであります。反対に、我ら衆生の生命が悪法によって濁れば、その濁りが国中に充満し、依報たる国土の上に様々な変化を現じ、様々な天変地夭となって現れるのであります。

 これが『立正安国論』に示された原理であり、この『立正安国論』に示された大聖人の御正意を体して、真の世界平和と仏国土実現を目指して一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。

 大聖人は『安国諭奥書』において、「之に準じて之を思ふに、未来も亦然るべきか」(同420ページ)と仰せであります。すなわち、大聖人が『立正安国論』において予証せられた自界叛逆難と他国侵逼難の二難は、のちに「蒙古来襲」と「北条時輔の乱」となって的中したように、御本仏日蓮大聖人の予証は必ず的申し、現実となって顕れるのであります。同様に、大聖人が『立正安国諭』において示された仏国土実現も、必ず現実となって顕れることは間違いないのであります。

 ただし、我々の努力なしでは仏国土は実現しません。ここに、今日、我々が日顕上人猊下から賜った地涌倍増と大結集の御命題、なかんずく地涌倍増の達成へ向けて、全力を傾注していかなければならない大事な意義が存しているのであります。

 『立正安国論』の末文には、「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(同250ページ)と仰せであります。『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節まで、いよいよあと一年。今こそ、この御金言を胸に、私ども一人ひとりが立ち上がり、「立正安国」の御理想実現のため、折伏を行じていくことが、今なすべき最も大切なことであることを心肝に染め、今月ただいまより、御命題達成へ向けてさらなる大前進を開始されますよう、心から願うものであります。

 特に東日本の皆様は、本日の大結集の成果とこの感動をもって、広布の先陣に立ち、必ずや御命題を達成し、もって仏祖三宝尊と、御命題をくだされた日顕上人猊下の御前において、晴れて御報告できますよう心から願うとともに、皆様方のいよいよの御健闘をお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。(題目三唱)

 
   〈六月度〉
「叶い叶わぬは御信心により候べし。全く日蓮のとがにあらず」(御書1519)
という御文があるのです。ここはしっかりと覚えなくてはなりません。朝夕の勤行もしない。お寺にも行かない、折伏もしない。にもかかわらず、たまたま十年に一回くらい御本尊様にお願いしてみようか、といったところで、それはだめなのです。やはり信心がなければならないのです。御本尊様の功徳は、信心の二時をとおして初めて体得することが出来るのであります。ですから、有名な御文として、「仏法は海の如し、唯(ただ)信のみ能(よ)く入る」(御書1388)という御言葉がありますように、仏法というのは広大無辺なる慈悲の上に立っているわけであります。(中略)
 仏法という海には、信心という入り口しかないのです。この信心がない状態でも、祈れば何でもかなうのいうと、けっしてそうではないのです。そこに、朝夕の勤行をはじめ普段の信心が大事だという所以(ゆえん)があるのです。・・・全文はこちら
 
   〈五月度〉
  『聖愚問答抄』には、
 「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書403)
と仰せのように、かかる時にこそ、私どもは大聖人様の御金言のままに、身口意の三業にわたってしっかりと題目を唱え、その功徳と歓喜をもって、一切衆生救済の大願に立ち、いかなる障魔が競い起きようとも一歩も退かず、決然として破邪顕正の折伏を行じていくことが肝要であります。
 自らの幸せも、他の人々の幸せも、勇気と確信を持って力強く折伏を行じていくなかにこそ実現することを、けっして忘れてはならないのであります。・・全文はこちら
平成28年3月度広布唱題会の砌 於 総本山客殿  ( 大日蓮 平成28年4月号 第842号 転載 )
 
   〈四月度〉
   講頭・副講頭指導会の砌(平成二十七年五月二日 於総本山大講堂)
 本日は、講頭・副講頭指導会に当たりまして、皆様方にはお忙しいところを御登山いただき、まことに御苦労さまでございます。
 先に宗門は、第二祖日興上人御生誕七百七十年を迎えるに当たり、法華講員五〇パーセント増の誓願を立て、挙宗一致して戦ってきましたが、お陰さまをもちまして、めでたく達成することができました。
 また、先般、行われました奉祝大法要、続いて奉祝記念法要ならびに達成記念大会、さらに海外信徒による奉祝記念法要ならびに達成記念大会も、世界各国から多数のメンバーが参加して盛大に奉修することができました。
 これもひとえに、国内外を含め、各講中の皆様が、僧俗一致・異体同心して寸暇を惜しみ、昼夜を分かたず、勇猛果敢に折伏を実践して勝ちえたものであり、皆様方の御奮闘に対し、心から厚く御礼申し上げるものであります。まことにおめでとうございました。
 私どもは、引き続き、次なる目標である平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向けて、勇躍として出陣をいたしましたが、各講中にあっては、このたびの戦いで得た様々な経験と教訓を活かして、全支部誓願達成へ向けて、いよいよ勇猛精進くださるように心から願うものであります。
 さて、各支部の指導教師ならびに講頭、副講頭の皆様は、今回の戦いを通して、いかに異体同心の団結が大事であるかを身をもって知ったものと思います。
 大聖人様は『異体同心事』に、
 「異体同心なれば万事を
(じょう)じ、同体異心なれば諸事(かな)ふ事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候。(いん)(ちゅう)王は七十万騎なれども同体異心なればいくさ()にまけぬ。周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ。一人の心なれども二つの心あれば、()の心たが()いて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成す。日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成して、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書 一三八九頁)と仰せであります。
 また『生死一大事血脈抄』には、
 「総じて日蓮が弟子檀那等
自他(じた)彼此(ひし)の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る(ところ)を、生死一大事の血脈(けちみゃく)とは云ふなり。(しか)も今日蓮が弘通する処の所詮(これ)なり。()し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か。(あまつさ)へ日蓮が弟子の中に異体異心の者(これ)有れば、例せば城者として城を破るが如し」(同 五一四頁)と仰せであります。
 まさしく、この御金言の通り、異体同心の団結こそ勝利の要諦であります。反対に、異体異心では「城者として城を破るが如し」と厳しく御制誡あそばされているように、自らの支部を自らの手で滅ぼすことになってしまうのであります。
 したがって、中国の『孟子』の言葉のなかにも「天の時は地の利に
()かず。地の利は人の和に如かず」とあります。すなわち、天の与える好機も、土地の有利な条件には及ばず、土地の有利な条件も人の和には及ばない。人の和を得ることが最も大事であると言っているわけであります。
 たしかに、今回の折伏の推進状況を見ても、折伏の盛んな支部は誓願達成へ向けて、講中が皆、異体同心して一丸となって戦い、講中挙げて折伏に取り組んできた経過が見られます。直接、折伏に参加できない人でも、折伏達成を祈って唱題する人、皆が誓願達成の思いを込めて行動し、心を一つにして戦ってきた結果があります。
 しかし、これと反対に、講中が団結に欠け、各自パラパラで、思い思いに勝手な意見ばかりを言って、統一性のない行動をとっている場合は、願いをかなえることはできません。つまり、異体異心では、いくら努力しても願いはかなわず、誓願は達成されないということであります。
 故に、大聖人様は『弁殿御消息』に、
 「
なづき(頭脳)くだ()きていの()るに、いまゝでしるし()のなきは、この中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ」(同 九九八頁)
と仰せになっています。
 「なづき」を砕くほどに、いくら祈りを込めて、祈りに祈っても願いがかなわないのは、そのなかに「心のひるがへる人」すなわち、異体異心の者がいるからだと仰せになっているのであります。
 まさに、我々の広布の戦いにとって、異体同心の団結がいかに大事であるかを、先程の『異体同心事』ならびに『生死一大事血脈抄』の御文をよくよく拝読し、まず講中の中心者である講頭、副講頭の方々がこのことをしっかりと認識して、異体同心の固い絆で結ばれた強い講中構築を目指していただきたいと思います。
 そもそも、異体同心の同心とは志を一つにすることであり、したがって、その志がパラパラで異体異心であれば、願いがかなわないのは当然であります。であれば、まずは指導教師ならびに講頭、副講頭の方々が、自ら僧俗一致・異体同心の見本を講中に示していくことが最も肝要であります。
 つまり、講中活動の中心たるべき指導教師ならびに講頭、副講頭が異体異心であれば、講中の人達は迷うばかりで、付いてきません。したがって、信心活動もパラパラで、折伏も思うようにいきません。強い講中構築の要諦は、まず、異体同心の団結であることをよくよく銘記していただきたいと思います。
 しこうして、その異体同心の団結は、一人ひとりが大御本尊様への絶対的確信を持ち、一切衆生救済の大願に立って、共に励まし合い、助け合い、折伏を実践していくなかに、真の異体同心の団結が生まれてくるのであります。つまり、理屈ではなく、互いが広布への戦いを実践するところに、真の団結が生まれてくることを忘れてはなりません。
 故に、大聖人様は『
土篭(つちろう)御書』に、
 「法華経を余人の
()み侯は、ロばかりことば()ばかりは()めども心はよまず。心は()めども身に()まず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(同 四八三頁)
と仰せられているのであります。
 具体的に言えば、講中の人々が共に誓願達成を祈り、共に唱題に励み、その唱題の功徳と歓喜をもって共に折伏に打って出ていけば、おのずと異体同心の団結が生まれ、結果も必ず付いてくるのであります。
 そして、相手がいかなる人であろうが、折伏を行じていけば、「一切衆生に悉く仏性あり」(涅槃経)と仰せのように、人は皆、仏性を内在しているのでありますから、妙法に結縁することによって必ず仏性が開かれ、仏性が仏性としての
(はたら)きをすることになり、やがてその人は必ず成仏得道に至ることを確信して折伏を行じていくことが大事であります。この確信こそが折伏に必要なのであり、この信心をしていけば必ず幸せになりますということを、心と身体をもって相手に伝えることが大事なのであります。
 そもそも「一切衆生に悉く仏性あり」とは、一切衆生は本来、仏性を必ず
()しているということであります。この「一切衆生に悉く仏性あり」の文意について『爾前二乗菩薩不作仏事』には、天親菩薩の言葉を挙げて、
 「仏は、衆生から五種の
過失(かしつ)を除いて、衆生に五種の功徳を生じさせようとして、一切衆生に悉く仏性ありと説かれたのである」(同 一八二頁取意)
と仰せられています。
 「五種の過失」とは、一に
下劣(げれつ)心、二には高慢心、三には虚妄執(こもうしゅう)、四には真法を(ぼう)じ、五には我執(しゅうちゃく)を起こす、の五つであります。
 また「五種の功徳」とは、一に
正勤(しょうごん)、二に恭敬(くぎょう)、三に般若、四に闍那(じゃな)、五に大悲、の五つであります。
 すなわち、五種の過失のうちの「下劣心」とは、仏性を生ずることはありえないと疑う故に、大菩提心を起こさないことを言うのであります。
 「高慢心」とは、高慢な心をもって、もともと自分には成仏の性があるから菩提心を起こすことができると思い上がることであります。
 「虚妄執」とは、
()に執着することであります。
 「真法を謗ず」とは、真実の法を誹謗すること、すなわち一切諸法の清浄の智慧、功徳を誹謗することであります。
 「我執を起こす」とは、ただ己れのみに執着して、一切衆生を
(あわ)れむことを望まない無慈悲な心を言います。
 この五種の過失に対して、五種の功徳とは、
 一に「正勤」すなわち、衆生が仏性を顕す五つの条件の第一で、正勤心を起こすことを言い、正しい精進の行を勤めることであります。  
 二の「恭敬」とは、
(つつし)み敬うことで、仏・菩薩が衆生を救うための振る舞いや説法などを慎み敬うことであります。
 三の「般若」とは、悟りを得る真実の智慧のことであります。
 四の「闍那」とは、智と訳し、世俗智より仏智に至る智のことであります。
 五の「大悲」とは、大慈悲心のことで、一切衆生の苦を救う慈悲心のことであります。
 天親菩薩の『仏性論』には、この五種の功徳は「一切衆生
悉有(しつう)仏性」という法を聞き、仏性が開発されるのであると説かれています。つまり、衆生は仏の「一切衆生悉有仏性」という法を聞くことによって仏性が開発され、五種の功徳が生じ、五種の過失が除かれて、菩提を証することができるのであると説かれているのであります。
 まさに、今日の世相を見ますると、創価学会をはじめ邪義邪宗の謗法の害毒によって、多くの人々は下劣心・高慢心・虚妄執・真法を謗ず・我執を起こすの五種の過失によって、
(さいな)まれ、苦しみ、もがき、謗法の害毒から逃れられないでいます。
 こうした謗法の害毒によって
塗炭(とたん)の苦しみに(あえ)ぐ多くの人を、本因下種の妙法をもって救済するのが、大聖人の弟子檀那たる我々の大事な努めであり、そして使命であります。
 大聖人様は『唱法華題目抄』に、
 「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に
()せん事疑ひ無し。同じくは法華経を()ひて説き聞かせて毒鼓(どっく)の縁と成すべきか。(しか)れば法華経を説いて謗縁(ぼうえん)を結ぶべき時節なる事(あらそ)ひ無き者をや」(同 二三一頁)
と仰せであります。
 「毒鼓の縁」とは、既に皆様もよく御承知の通り、謗法の者に妙法を説き聞かせることは、かえって妙法に縁することとなり、成仏の因となることを言い、逆縁とも言います。
 つまり、一切衆生には皆、仏性が具わっており、正法を聞き、発心・修行することによって成仏することができるのでありますから、たとえ逆縁の衆生であっても妙法を聞かせることによって、正法と縁を結ばせ、必ず救済することができるのであります。
 よって、天台大師は、
 「法華折伏破権門理(法華は折伏して
権門(ごんもん)の理を破す)」(学林版玄義会本下 五〇二頁)
と仰せられ、法華の思想は折伏にして、権門の理を破折することであると仰せられているのであります。
 されば『如説修行抄』には、
 「然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。
()の時は闘諍(とうじょう)堅固(けんご)白法(びゃくほう)ruby>隠没(おんもつ)の時と定めて権実雑乱(ぞうらん)(みぎり)なり。敵有る時は刀杖(とうじょう)弓箭(きゅうせん)を持つべし、敵無き時は弓箭兵杖(ひょうじょう)なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の()の時は権教有って敵と成る。まぎ()らはしくば実教より(これ)を責むべし。(これ)摂折(しょうしゃく)の修行の中には法華折伏と申すなり。天台云はく『法華折伏破権門理』と、(まこと)に故あるかな」(御書 六七二頁)
と仰せであります。
 今、宗門は、第二祖日興上人御生誕七百七十年、法華講員五〇パーセント増の誓願を僧俗一致して達成し、いよいよ来たるべき平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向かって、勇躍として出陣をいたしました。
 この時に当たり、各講頭、副講頭の皆様には、講中の先陣に立ち、誓願達成へ向けて、
 「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同 五七九頁)
との御聖訓を拝し、率先して折伏に立ち上がり、もって法華講員八十万人体勢構築へ向かって、いよいよ御精進されますよう心から念じ、本日の話といたします。  大白法 平成27年5月16日刊(第909号)より転載
 
   〈三月度
  五濁にまみれた末法の本未有善の衆生を成仏に導き、救済する方途はただ一つ、末法の御本仏大聖人がお唱えあそばされた一切衆生救済の秘法たる本因下種の妙法を、一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていく以外にはないのであります。
 すなわち、末法本未有善の衆生は、妙法の最高の仏縁に触れてこそ成仏得道がかなえられえるのであって、今こそ、順縁・逆縁を問わず、私たちは妙法を下種し、折伏することが大事なのであります。・・全文はこちら  
広布唱題会の砌大日蓮・平成二五年一二月号
 
   〈二月度〉
   講中が一決するというのは、みんなが広宣流布の一点
に心を合わせていくことです。(中略)大聖人様は「桜梅桃李」(御書1797頁)ということをお示しになっているように、桜は桜、梅は梅と、それぞれが長所をしっかりと伸ばし、広宣流布という一点に力を合わせていくところに真の団結が生まれてくるのです。
 これが一番大事なことであり、これはしっかりとお題目を唱えていると、そういう心になるのです。お題目の功徳というのは、それほど広大無辺なのです。 ・・全文はこちら

大百法・平成27年10月1日号
 
   〈平成二十八年一月度〉 
 本年は「折伏躍進の年」であります。
 「躍進」とは辞書によれば、「踊りあがってすすむこと。勢いよく突進すること。目ざましい勢いで進出すること」等とあります。
 即ち、本年「折伏の年」は、全講中が僧俗一致・異体同心の団結のもと、身軽法重・死身弘法の御聖訓を奉戴(ほうたい)し、地涌の菩薩の眷属としての自覚と誇りを持って、一天四海本因妙広宣流布を目指し勇猛果敢に折伏実践を急躬行(きゅうこう)して誓願を達成すべき誠に大事な年であります。
 その折伏誓願達成の為の絶対要件は、僧俗一致・異体同心の団結であります。
・・全文はこちら 
大日蓮二十八年一月号(新年の辞)
 

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