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化儀即仏法

 《化儀を自分の都合に合わせクルクル変える学会員》


 仏の衆生に対する化導において、化法と化儀とは欠くべからざるものであります。化法とは、仏が衆生を教化するための法、化儀とは、仏が衆生を教化するための儀式、形態という意味です。
 これをわかりやすく説明するために、医者と病人と薬の譬(たと)えが用いられます。
 すなわち、医者とは仏、病人とは衆生、そして、病人に与える種々の薬が化法であり、またその薬をどのように調合し服用せしめるかという処方箋(しょほうせん)に当たるのが化儀、という関係です。
 釈尊の仏法においては、衆生の素養に応じて、蔵教・通教・別教・円教という四つの法(化法の四教といいます)を、頓(とん)教・漸(ぜん)教・秘密教・不定(ふじょう)教という四通りの化儀(化儀の四教といいます)を用いて、一代五十年間にわたって説法し、衆生を教化されました。
 その一々を本項で説明することは、紙面の都合上省略させていただきますが、この釈尊の仏法における化法の四教と化儀の四教は、本已有善の衆生の機根を整えるために用いられた内容であります。
 一方、大聖人の下種仏法においては、化法とは下種独一本門の法体とそれに基づく教義・教学であり、化儀とは下種仏法の執行、表明を意味します。
 究極の化儀とは、本尊受持の一行であり、化法の執行に当たる。この化儀によって、化法の究竟たる法体の本尊と冥合し、妙法の当体蓮華の実果を得るのです。すなわち、化儀によらなければ化法を執行、表明することはできないのです。

 第九世日有上人は当宗の化儀について、
 「当宗は第一化儀なり」(富士宗学要集一ー一九八頁)
と仰せられ、第三十一世日因上人はこれについてさらに、
 「第一化儀とは当宗化儀即仏法なるが故に」(同)
と釈されています。これはまさしく当宗の化儀がそのまま仏法であることを御教示されたものです。
 また日顕上人は、
 「日蓮正宗においては、日興上人様が相伝の上から大聖人様の御振る舞いを真の仏弟子の化儀として伝え、それが六十七代の私に至るまで正しく伝わっておるのです。それが現在の日蓮正宗の姿であり、本宗の化儀なのです」(大日蓮 五六六号)
と御指南あそばされています。
 日蓮正宗の化儀とは大聖人の御振舞いそのものを伝えたものであり、そのまま仏法なのです。池田大作が何と言おうと、唯授一人の血脈相承とともに、その化儀は誰人も揺るがすことはできないものなのです。
 日亨上人は『有師化儀抄註解』に、
 「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり」(富士宗学要集 一ー一一二頁)
と仰せられています。
 池田大作は、すでにこの第一尊厳の化儀を破って、「ニセ本尊」を製造販売しているのです。
 彼がどのような言い訳をしようと、大聖人の尊い仏法を破壊した大罪は決して許されるものでは有りありません。
 創価学会は、もはや日寛上人の『当流行事抄』の御文のごとく、大聖人に名を借りるといえども、大聖人の門弟に非ず、勝手な新義を打ち立てた新興宗教であり、大聖人からの伝統を踏みにじる「ニセ本尊」や三色数珠を作り、観念文を改変し、池田大作の思うままに操られる大謗法団体となり果てたのです。
 日蓮正宗における儀式法要・修行等の一切の化儀は、ことごとくが化法であり、その表明でありますから、けっして軽んじるようなことがあってはいけません。
 私達は、化儀の方式に信順するところに、おのずと大聖人の仏法に則(のっと)った信心を行じていくことができ、利益を頂戴(ちょうだい)することができるのであります。
 池田創価学会では、日蓮正宗の信徒団体であった頃より、寺院で奉修される法要を軽視していました。事実、大聖人に対し奉る御報恩のために奉修されている御講も、また宗門で最重要の法要である御会式も、その意義もさることながら、そういう法要が奉修されていることすら知らない会員が、数多くいたのです。
 このように化儀を軽んじていた在(あ)り方が、大聖人の甚深の化法を軽んじることになっており、そのなれの果てが今日の大謗法化である、ということを思えば、納得がいくというものであります(今では、朝夕の勤行式まで、自分達の懈怠〈けだい〉の心に任せて簡略化してしまっています)。
 また、化法を、その時代に即した形で御指南されるのは、唯授一人の血脈を受けられた時の御法主上人であります。
 たとえば、日興上人が『遺誡置文』に、
 「若輩(じゃくはい)たりと雖(いえど)も高位の檀那より末座に居(お)くべからざる事」(御書一八八五頁)
と仰せられ、「たとえ若いお小僧さんやお所化さんであっても、高位の檀信徒より末座に座らせてはいけない」と示されていることや、また、日有上人が『化儀抄』の中で、
 「貴賎道俗(きせんどうぞく)の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何(いず)れも同等なり、然れども竹に上下の節(ふし)の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(聖典九七三頁)
と仰せられて、「信心に励む人は貴賎道俗の差別なく、平等に成仏できる。しかし、僧俗には立場の違い、上下関係があり、それを乱してはいけない」と定められているのも、その立場からの御指南です。
 それを、池田創価学会では、
 「信心している人は本質的に平等であることが示されている。これは化法に該当する」「(『竹に上下の節のあるがごとく』の御文について)これは、化儀の上での区別を示したものである」「化儀の上での区別は化法の不変に比べて、第二次的なものであり」云云。
と、自分達の都合に合わせて化法と化儀を切り離し、また「化儀は二次的なもの」と軽視する論を展開した上で、「あくまでも僧俗は平等である。差別があると説くのは、権威主義である」という暴論をもって日蓮正宗を誹謗(ひぼう)してきました。
 しかし、先程から述べているように、日蓮正宗の化儀は、化法に裏打ちされたもの、化法を現実化したものであり、化法から独立した化儀というのはありえません。
 当宗の化儀は、悉く法体の深義の表明に意義が存するのです。これが化儀即法体です。
 したがって、同一の仏具法式であっても、爾前、迹、本、文底と、宗旨によってそれぞれ示される意義に違いが存するのです。日蓮大聖人の仏法においては、その化儀の法式が、全て下種仏法の深義の表明なのです。
 樒を例に挙げれば、──その常緑樹の常の義は、転じて仏身の無始無終、すなわち永遠常住の生命を意味します。しかも、その根拠となる寿量品でも、当宗においては、内証の寿量品による──というごとくであります。
 信行者は、化儀の法式に信順するところ、おのずと法体の深義に契合し、下種仏法の利益を享受するのです。故に、化儀は、根本的には、凡夫僧としての宗祖日蓮大聖人の、一期の御化導に由来します。
 この本仏大聖人の一期の御化導は、また唯授一人の法体の血脈相承によって、御当代日如上人へと継承されているのです。
 したがって、たとえ時代の変化にともなって、化儀形式に表面的な変化がみられても、それは下種仏法から一歩も出ることはない。なぜならば、化儀形式の決定は、必ず唯授一人の血脈に基づくからです。
 その化儀を軽んじること自体が、大聖人の仏法に対する誹謗となることを、よくよく肝(きも)に銘(めい)ずるべきであります。

 私達は、大聖人の甚深の仏法を、七〇〇年来変わることなく、儀式法要の上に顕わし、またその時々において御法主上人が御指南くださっていることに、心から感謝申し上げ、日蓮正宗の化儀に則った正しい修行に精進していきたいものです。
 峻厳たる因果の理法に照らせば、このような謗法団体には必ず厳しい仏罰が下ります。
 今や、その兆しが現れ始めています。遠からずして、池田創価学会は世間からも厳しい処断を被ることでしょう。


【かつての創価学会の化儀の説明】
 化法に対する語。仏が衆生を化益、化導する儀式をいい、その説法の形式、仕方を言う。釈迦仏法では、頓・漸・秘密・不定を化儀の四教という。(中略)今われわれの化儀は、勤行の仕方、御本尊の取り扱いに関すること、儀式等に関することを言う。日蓮正宗の化儀は、第九世日有上人の「化儀抄」等にさだめられており、もっとも正しい清純なものである。(仏教哲学大事典二ー三〇頁)


【「化儀抄」を拝する基本姿勢について】
 「化儀抄」は、南条日住師が、常日頃、日有上人より拝聴した御指南を筆録し、まとめたものです。
 しかし、五十九世日亨上人は、
「有師の寂年に其の資・日鎮上人尚弱冠にて、日乗日底の両師先つて遷化せられて居るから、日住兼て聴き置きて深く心底に納めたる聖訓を記して鎮師に奉呈せしこと、左京日教の六人立義私記の序文の如し」
また、日達上人も同様に、
「第十二代日鎮上人は、文明四年、十六歳で血脈相承をうけられているので、日有上人が御入滅の時は、ちょうど二十六歳であった。そこで、南条日住も老年で、すでに自分の死の近きを知り、かねてからの日有上人から聞きおいたことを、年若き日鎮上人に法主貫首としての教訓として、書きつかわされたのである」
と、その成立縁起をお示しになられています。
 すなわち、「化儀抄」述作における、南条日住師の基本的な考えは、まず第一に「法主貫首としての教訓」、すなわち法主への指南書というところに存するのであって、「諸国から大石寺に登山してくる学僧のため」というのは、第二義以降のものなのです。
 このことは、「化儀抄」拝読における基本的態度に関わる問題であり、我々僧俗にとっても、細心の注意を払う必要があります。


【僧俗平等を声高に叫ぶ学会員】
 今の学会員は、「僧俗平等」「信徒僧宝論」のみを、総別を弁えず強弁していますが、謗法の念慮から考え出されたものであります。
 すなわち、僧俗平等に名を借りていますが、最終的には信徒、とりわけ池田名誉会長は絶対である・尊極無比の存在であるという、最初から結論の決まっている論なのです。
 故に、僧俗は平等であるといいつつも、その役割が「時代によって変わりうるもの」と、信徒が役割の上で主導権をにぎるとの本音を、言外に洩らしているのです。さらにいえば、「時代によって変わりうるもの」とは、「四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って」云々との御文を曲解し、それを依拠とした池田本仏論を根底としているのです。
 そもそも、
「みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけほか拝んでんのかよ。」
との、池田名誉会長の発言が、僧俗の礼儀を忘れた不遜なものであることは、論をまちません。この発言について、「お尋ね」文書では、日有上人の「化儀抄」第一条の御指南に基づいて、
「このように、御本尊を拝する姿においては、一応平等でありますが、そこには当然僧俗の区別があり、礼儀をわきまえなければなりません。」
「野卑な言葉で、あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものであると思いますが、どのように弁明されるのでしょうか。」と教導し、反省釈明を求めたのです。
 ところが、学会側では、反省など全くせずに、「このようなご指摘、また僧と俗とは『一応平等』というような表現からは、本質的には、僧侶が上であり信徒が下であるという権威主義的な考え方が感じられてなりません。大聖人の仏法においては、信心の上では僧侶も信徒も全く平等なのではないでしょうか。」などと、「お尋ねに対する回答」で、僧俗平等論を述べて抗弁してきたのです。
 この時から、僧俗平等をやみくもに強調した論が、次々と随所で展開されるようになったのです。

 創価学会教学部長の佐久間氏は、日興上人の「弟子分帳」に僧俗男女の全てを弟子と称されたことなどを挙げて、僧俗平等を強調してみたり、
「仏教の歴史をたどってみると、もともとは、出家と在家の差別はなかったのである。」
とか、
「法の上では、僧も俗もともに同じ人間であり、全く平等なのである。」
などと述べ、最後は、
「日蓮大聖人の御心に適う信心に立つ時、我々は妙法蓮華経の当体となる。そこには僧俗の差別はない。」
と、結論づけています。
 しかし、日有上人の御指南は、
「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」
と仰せなのです。
 これを佐久間氏は「そこには僧俗の差別はない」と述べているのです。一体、どのように拝すれば、「上下」「位」の語が、差別を意味しなくなるのでしょうか。
 この「化儀抄」の御文が、もう少し長い文章ならばいざ知らず、これほど短い一目瞭然の文を、どのように牽強附会しようとも、それは無理というものです。なぜならば、この御文は、平等と差別の両面を、明らかに示されているからです。

 ただし、ここに示される僧俗の差別とは、法の上の筋目をいうのであって、佐久間氏や学会首脳のいう「信徒蔑視」などを意味するのではありません。創価学会では、あえて差別という語を強調し、宗門を非民主的イメージに仕立て上げているのです。
 ここに示される差別とは、まさに区別を意味するのです。つまり、主従、師弟、親子の関係に、平等性と同時に上下の区別という筋目があるのと同様、僧俗にも平等性と同時に法の上の上下の筋目が存するのです。
 これらを否定すれば、仏法の上の秩序はもちろん、社会秩序すら否定することにつながってしまいます。このようなことでは、それこそ世間に通用しません。学会が、社会一般から顰蹙を買う理由は、正法流布によるものだけではありません。
 その言動の、非常識さにあるということを多く聞きます。このように、社会秩序を破壊するようなことまで言い出せば、学会の生き残る道はどこにもありません。

 もとより、成仏の成否が、本人の信力行力にあるという点では、池田名誉会長が、
「みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけほか拝んでんのかよ。」
というように、僧も俗も、当然平等です。
 しかし、法の上の上下をいえばそうではないのです。たとえ、一切衆生が成仏したとしても、仏界大聖人が上で九界信徒が下であることは、論ずるまでもありません。それが、大聖人御入滅後においては、唯授一人血脈付法の御法主上人が上で、一切の大衆は下となるのです。
 僧侶を師匠とすることは、大聖人の代理としてであり、御法主上人の代理としてであります。このことを「化儀抄」第4条には、
「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」
と説かれており、日達上人は、
「師匠は、三世諸仏や大聖人いらい、歴代の法主上人のお心がぬけられて、師匠の所に来ているのであるから、もし出家して師匠に著くには、よくよく、善き師匠を選定して、その師匠の弟子となり、信心をしなければなりません。また自分が弟子にたいしても、自分が信頼されていることを忘れないで、弟子に大聖人の仏法を授けていかなければなりません。」
と解説されています。
 したがって、僧侶に対する敬意は、本来、全てが御法主上人を通して、大聖人に帰趣するのです。これを師弟相対の信心というのであります。
 その信心には無量の功徳がある故に、僧俗の筋目としての差別をいうのです。
 この「化儀抄」の御文には続いて、
「又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし」
と仰せられ、「また、我が弟子は我(日有上人)に対し、この道理をもって、信を取りなさい」と御教示されているのです。
 このように、僧侶間においても師弟の差別は存するのですが、それは、師となる者の権威などではなく、ただただ三世諸仏や大聖人以来、歴代の法主上人のもぬけられたるところとの意義に拠るのです。故に、「化儀抄」には、
「本寺住持の前に於いては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振舞うなり、信は公物なるが故なり云云」
とも説かれ、また日達上人は、これを、
「本山の法主上人の前では自分の弟子であっても、自分と同輩、同僚のような行動をすべきであります。それは信心の上からは、平等でありますから。」
と解説されているのです。つまり、御法主上人のお立場からみれば、一切の大衆は平等となり、師弟の差別もなくなるのです。
 それを、池田氏擁護に腐心するあまり、あたかも僧侶が信徒を蔑視しているかのように宣伝して、大切な筋目である師弟相対の信心を破壊し、化儀即法体という化儀の重要性を、平然と否定しているのです。何たる無信心であろうか、無慚無愧の極みであります。 


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