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 御書の拝し方その2
 
Aこの経は相伝無く信解することは不可能
【一代聖教大意】(新編92頁8・全集398頁3)

『此の経は相伝に有らざれば知り難し』

【立正観抄】(新編770頁6・全集530頁15)
『当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり』


【四恩抄】(新編268頁7・全集938頁11)

『僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬えば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習い伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云て是を悩ますは、此の人仏法の大灯明を滅せんと思え」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。』

【本因妙抄】(新編1684頁12・全集877頁9)、

『血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。』

【百六箇抄】(新編1702頁6・全集869頁9)
『但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり』
第二祖日興上人【佐渡国法華講衆御返事】
『案(あん)のごとく聖人(しょうにん)の御(おん)のちも、末(すえ)の弟子どもが、誰(たれ)は聖人の直(じき)の御弟子と申す輩(やから)多く候(そうろう)。これらの人、謗法にて候なり』(歴全1−184頁)

●経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御 書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る。
(第65世日淳上人『日淳上人全集』1444頁)
●仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1442頁)

B同じ御文を拝しても、信心がおかしくなれば真逆にとる今の創価学会は、「信心の血脈論」について
【生死一大事血脈抄】(新編515頁3・全集1338頁9)の一部分のみを抜粋引用し、
 『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』

のみを以て、「信心さえあれば、血脈(相承)も関係ない」と言い張る。しかし、であれば、「信心さえあれば、誰でも日蓮大聖人の直属の弟子である」と公言し得ることにもなります。
 一方を非難し、結局は自己の矛盾を安易に曝け出す。創価学会が抱える「永遠の矛盾」です。

 かつての、池田大作の指導では、
 
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じにみえるが、それらには唯授一人・法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈がない。法水瀉瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持(たも)つも無益(むやく)であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである」(『広布と人生を語る』第八巻二二八頁)
と話す。


C御書直結は邪義
 玄妙日什(正和三年・1314生)は、天台宗僧でしたが、六十七歳のある時、『開目抄』と『如説修行抄』とを読んで改宗を決意し、名を日什と改めたとされる。

 以後、日蓮宗系の寺院を巡(めぐ)って研鑽(けんさん)し、この間、大石寺に来たとも言われている。
 しかし、日什は、大石寺に伝わる大聖人の正義を理解できず、唯授一人の相承を蔑(ないがし)ろにして、「大聖人の教えは、御書を読めば悟ることができる」という「経(きょう)巻(がん)相承」「直授日蓮」という邪義を主張するに至ったのである。そして、明徳三年(1392)二月二十八日、七十九歳で没した。
 日什が開いた顕本法華宗は、血脈相承を否定し「経巻相承」「直授日蓮」を主張する。「御書直結」「大聖人直結」を主張する愚(おろ)かな宗旨の先駆けとなる邪宗教である。 仮に、多くの優秀な人が、個々に、御書と法華経を読んで自分なりに理解したとしても、誰一人として、日蓮大聖人の教えを真に理解することはできない。恐らく、多くの人は、一つとして同じもののない多くの異なる考えを、「これが日蓮大聖人の教えだ」と主張し合うことであろう。
 また、多くの人が協力して御書と法華経を勉強したとして、難解なところは多数決を取って解決したとしても、大聖人の教えをすべて正しく理解することは不可能である。 また、勤行に『方便品』『寿量品』を読み、お題目を唱えることを御書で理解しても、それを何人かの人にさせたところで、大聖人と同じ勤行をできる人が、はたして一人でもいるであろうか。
 善知識ということ一つを揚げても、御書によって異なる。善知識無くして、我々は成仏出来ない。

 『守護国家論』善知識は「法」(御書149頁6・全集66頁6)
 『富木殿御返事』「悪人」が善知識(御書584頁・全集962頁9)
 『持妙尼御前御返事』「亡き夫」が善知識(御書1045頁5・全集1482頁15)『御講聞書』「善知識と申すは日蓮等の類の事なり」(御書1837頁2・全集823頁17)

 また、『新池御書』には、
 「今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし(中略)何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし」(御書1461頁6・全集1444頁1)
とも仰せである。ここまでくると、浅薄な、浮動的な教義では理解できないはずである。 日蓮大聖人が善知識であり、大聖人が、「この弟子は御法門を心得ている」とお認めになった僧侶も、また善知識なのである。
 御法門を最も御理解されている最も優秀な御弟子に法を付嘱(ふぞく)されることも、また、当然の結論となるのである。

 大聖人から、時間・空間を超越して直接相承したと主張する、「経巻相承」「直授日蓮」の義を唱えること自体が邪宗教の証である。
 『一代聖教大意』に、
 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書92頁8・全集398頁3)
 『顕仏未来記』に、
 「伝持の人無ければ猶木石の衣鉢(えはつ)を帯持せるが如し」(御書678頁2・508頁6) 
 『三大秘法稟承事』に、

 「此の三大秘法は二千余年の当(その)初(かみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口(く)決(けつ)せし相(そう)承(じょう)なり」(御書1595頁10・全集1023頁6)と仰せのように、正しい血脈相承があって、初めて法華経も御書も理解することができるのである。私たち凡夫が、凡智を振り絞って法華経や御書を研鑽すれば、難信難解の御法門を悟ることができると主張する輩と、大聖人以来の血脈相伝を根本に教学を学ぶ日蓮正宗と、どちらが正しいかは、大聖人の御本懐たる御本尊に対し奉る姿が如実に物語っている。

 かつて池田名誉会長自身が、次のように語っていました。
 「日蓮大聖人の御書を拝するにあたっては、あくまでも御法主日顕上人猊下の御説法を中心として、よくよく拝していかなければならない」
(広布と人生を語る 第一巻118頁)

 第2祖日興上人は、御義口伝において、
 「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(御書1884頁15・全集1618頁4)と、唯授一人血脈相伝の「極理」に基づいて御書を拝するよう誡められています。
 しかし、現在の創価は、唯授一人の血脈を否定しており、彼らのいう「御書根本」とは、正当な血脈相伝によらず、我見によって、都合よく御書を解釈することに他なりません。
 池田名誉会長の「御義口伝講義」や「開目抄講義」にしても歴代御法主上人の研究・講義されたものを、参考にしてはいるものの、そこに自分の考え方を入れています。
 その歴代御法主上人の血脈を否定しているのですから、かつての自分の著書をも否定する、自語相違、自己矛盾、言語道断の大うそつきです。
 前述のように、日蓮大聖人が末法の御本仏であると、御書のどこに明言されているでしょうか?
 創価員のように「御書に書いてあることを、そのまま読めばいい。」では解らないのです。
 それで解れば、日蓮宗他派、御書を読む新興宗教団体、仏教大学の教授も、全て正しく成仏できるということになります。
 日蓮大聖人が末法の御本仏であるということは六老僧の中で、日興上人以外には分からなかったのです。
 だから日蓮宗他派(五老僧)は三宝を、
 仏宝=釈迦
 法宝=法華経
 僧宝=日蓮聖人
とし、日蓮正宗のみが、
仏宝=日蓮大聖人(本因妙の教主釈尊、末法下種の御本仏).
法宝=本門戒壇の大御本尊(三大秘法総在の御本尊)
僧宝=日興上人(血脈付法の御法主上人)
と立てるのです。
 特に「唯授一人の血脈層相承」を否定していては、なぜ「僧宝」が日興上人なのかも、判らないでしょう。
 だから「極理を師伝して」「相伝に非ずんば知り難し」といわれているのです。  
 日蓮正宗では、御書の講義は御法主上人猊下、それを伝える教師(住職)に限られ教師の資格を持たない僧侶は、伝達することしか許されていません。
 当然、在家である法華講員が、御書を勝手な解釈をして講義をすることなどできません。

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