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 信心の原点(改訂版) 東中国布教区編より抜粋
 
所作仏事(宗化儀の理解のために)

 合掌

合掌の意義=方便品世雄偈(せおげ)に、「合掌し敬心(きょうしん)を以て具足の道を聞きたてまつらんと欲す」とあり、私達の合掌の意義もここに求められます。「具足の道」とは円満真実の法である妙法のことで、妙法の悟りを得たいとの一心で御本尊に向かう、その我々の一念が外に現れたのが、合掌の姿です。よって、合掌の姿は十指を真っ直ぐ伸ばし、胸の上できちんと合わせ、両肘(ひじ)を両脇に軽く付け、正しい形であらねばなりません。

合掌の所表(しょひょう)=十指は十界三千を表し、左右の十指が合するところは十界互具です。そして胸に当てる所、胸中心性(きょうちゅうしんしょう)の白蓮華《仏性》に通じ、かくして色心の二法をして御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱える私達の姿は無作三身(むささんじん)・事行(じぎょう)の一念三千・当体蓮華仏(とうたいれんげぶつ)の相となるのです。

 勤行  

勤行の意識=仏の悟られた法《成仏の法》を、衆生が自身の上に体現(たいげん)するために修行があります。修行を励み行うのが勤行であり、特に日々御本尊に向かって読経唱題する修行を勤行と言い慣わしております。
 『諸法実相性』に
 「行学の二道を励み候べし、(乃至)行学は信心よりをこるべく候」(六六八頁)
と、一信二行三学の当宗の信仰の要諦(ようたい)を示されております。もって、勤行を基本とする修行の大切さを知るべきです。

水火の信心=勤行は川の水の流れて絶えざる如く、常に同じ調子をもってすべきで、あたかも火が勢い良く燃え立って、すぐに消えてしまうような、自分の都合やその時の気分次第で、やったりやらなかったりではいけません。(御講聞書一八五六頁 上野殿御返事一二〇六頁参照)

「朝々(ちょうちょう)仏と共に起き、夕々(せきせき)仏と共に臥(ふ)す」=『御義口伝』(一七四九頁)にある中国僧傅(ふ)大士の言葉です。
 毎日々々我が家の御本尊と共に朝を迎え、また御本尊と共に一日を終える。その為には、毎日勤行を欠かさず行じることが大切です。

正行(しょうぎょう)・助行=勤行は正行と助行とに意味が別れ、文底下種・事の一念三千・本因妙(ほんにんみょう)の題目を唱えるのが正行であり、方便品・寿量品を読誦(どくじゅ)するのが、助行です。
日寛上人は
 「助行とは方便・寿量の両品を読誦し、正行甚深(じんじん)の功徳を助顕(じょけん)す。譬(たと)えば灰汁(かいじゅう)の清水を助け塩酢(えんそ)米麺(べいめん)の味を助くるが如し」《當流行事抄(とうりゅうぎょうじしょう)》
と示され、正行である題目の功徳を助け顕すのが助行であるとのことです。例えば洗濯の時、洗剤を加えて水の助けとする、また主食の味を調味料で補うようなものとの意味です。  

二十八品が納まる題目=本宗の寺院では御本尊の御前と、導師の前には法華経一部八巻二十八品をそれぞれ置きますが、二十八品すべてを読むことはしません。それは方便・寿量の二品を読誦するだけで全部を読んだことになるからです。また、寿量品自我偈と題目だけでも、或いは題目を唱えただけでも、全てを読んだことになります。 そのわけは、神力品に「皆此の経に於いて宣示顕説(せんじけんせつ)す」とあり、この文を日有上人は「寿量品文底の題目に、法華経二十八品全てが納まっている故」と教示されているからです。(化儀抄三十二条趣意)
 しかしだからとい言って、題目さえ唱えさえすれば、読経は必要無いなどと考えてはなりません。方便品は所破(しょは)・借文(しゃくもん)のため、寿量品は所破・所用(しょゆう)のため読誦すべきことを、日寛上人が『常流行事抄』に説かれています。勤行は自らの修行であることを忘れてはなりません。

勤行の姿勢=家の中だからと言って、乱れた服装や、行儀の悪い姿勢で勤行をしてはいけません。正しい姿勢はそのまま、即身成仏の当体であり、また折伏を行ずる姿でもあります。
 日有上人は、「当門徒御勤(おつとめ)の事一大事也」として、声は静かに、長短高下なく、振るわす事なく終(おわ)り強(づよ)に出すこと。また目遣(づか)い・体の姿勢・手《合掌》の形や足の組み方にも注意を払うべきことを示され、「余事余念(よじよねん)なくして唱える所の題目を事行の妙法蓮華経と申す、即身成仏の当体なり」と仰せです。(富要一巻二四〇)
 声を終り強に出すという事は、広宣流布への願望と確信を示します。 余事余念なくというのは、謗法の念慮(ねんりょ)を廃すと共に、雑念を交えないこと。
 御本尊は、妙の御文字を中心に拝します。

導師の意味=勤行では導師は大切な役割があります。九界所具の仏界、則ち人中の仏の立場で、一座の人々を仏界へ導くという役割です。
 故に誰が導師となっても、同座の人々は、導師に心を合わせなくてはなりません。また導師になった人も、自分の立場を自覚する事が大切です。 
 よく導師よりも大きな声で読経を早くしたり、自分勝手な調子であげて、唱和を乱す人がいますが、これは導師の位を奪うという科(とが)に墜ちいります。同座の人は導師の妨げにならぬよう、その声を始終聞いて、唱和すべきです。
 このような導師の意義をよくふまえ、家族での勤行は、一家の主人等導師に立てて、なるべく家族一同で行うのが望ましいあり方です。家の主人を導師と仰ぐことは、日常生活の上でも、妻子等が家長を貴ぶ姿につながり、良い結果をもたらしましょう。
 会合等での勤行の場合も、導師の意味は同様で、しかるべき立場の人を導師に立て、異体同心の勤行をすべきです。

題目三唱の事=日達上人の次の御指南があります。「皆、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と三つとも切ってしまいますが、そうではなくて、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と二つ続くんです。そして、ちょっと息を切って、南無妙法蓮華経と、こうしなければいけないんです。」
 当宗は相伝(そうでん)の宗旨であり、題目三唱をとっても、正しく先師の伝えられる通りに唱えるべきです。
 また身延日蓮宗では題目を、「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱えますが、本宗は「ナンミョウホウレンゲキョウ」と唱えます。

理行の題目と事行題目=同じ南無妙法蓮華経の題目でも、当宗で唱える題目と、五老僧の跡を引く日蓮宗のそれとでは、意味が全く違います。五老僧の門流にあっては、天台沙門(しゃもん)と名乗った位ですから、大聖人様が末法の仏であることも知らず、釈尊在世並びに正像時代の理行(りぎょう)の題目を唱えているのです。これに対し当宗は、「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、事行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(一五九四頁)の御金言の如く、大聖人様の所持される、自行化他、事行(じぎょう)の題目を唱えているのです。
 (御本尊には、南無妙法蓮華経 日蓮在御判(ざいごはん)とあり、これこそ大聖人様の建立遊ばされた人法一箇(にんぽういっか)の御本仏の当体です。当宗ではこの御本尊に帰依帰命して唱える題目である故に、事行の題目となるのです。五老僧門流の本尊には、南無妙法蓮華経とだけあり、その下に自分の名前を書いたりしていますから、宗祖御内証の人法一箇(にんぽういっか)の意味も表されていません。)
 
       

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