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 御書の拝し方その1
 

 @御書を拝読する時、時代背景や対告衆を考える            

 謙虚な信仰心を持って正直に御書を拝し、御書・御文の前後の脈略、又は別の御書との相互関係等を包括し、その全てを包括した上にこそ、大聖人様の真の意が初めて汲み取れるのであり、自己の我見・我欲を持って拝したところで、何の役に立たないどころか、かえって危険な思想へと転じていくことも事実であります。

 大聖人や日興上人の御指南といえども、対告衆の機根や時代状況、著述の目的などを正しく把握しなければお書きになられた真意を把握することはできないのです。しかし、我々は大聖人や日興上人にお目通りし、御真意をお伺いすることは出来ません。そこにこそ、大聖人の御内証を其のまま伝持された時の御法主の存在意義があるのです。

 
 『当然、文証は、基本は御書に依るべきだが、しかし、御書だけでは、日蓮大聖人の御真意を正しく拝しきることはできない。
 たとえば、日蓮大聖人は、直裁的に御自身を「末法の御本仏である」とは、御書のどこにも仰せられていない。末流の人々は、日興上人が大聖人を拝された信心を通じて、それを知ることができるのであって、逆にいえば、日興上人の御指南を拝さなければ、大聖人が御本仏であられることすら誰も知ることができない、ということである。

 それは、今に至る他門流の日蓮宗を見れば、何の説明も要(い)らぬであろう。
 この、大聖人の御真意を正しく拝された日興上人の信心、それを唯授一人で受け継がれ、時々に応じて解釈(げしゃく)を示された御歴代上人方の御教示に依らなければ、下種仏法の深義には到達できないのである。
 学会も、かつて、戸田会長自ら「教学は日寛上人に還れ」と叫び、日寛上人の『六巻抄』に基づいて教義体系を学ぼうとしてきたではないか。それとも、今となれば、「御書ではないから」と、日寛上人の御指南をも捨てるのか。
 日興上人も捨て、日有上人や日寛上人も捨てて、「御書だけ」などと言っていると、日蓮宗と同じになってしまう、と知るべきである。(『慧妙』H9.7.16)


 大聖人の御書を拝する上での基本は【文・義・意】を以て拝し、特に「意」を確実に理解する為には、自分の都合に合わせた「切り文」のみをもって解釈理解することは、けしてあってはならないことなのです。
「文」とは仏の言葉、すなわち経文の面、文相をいい、「義」とはその経文上に示された教え、道理をいいます。そして「意」とは文義の奥底に存する仏の本意をいいます。
※「文」に囚われて「本義」「仏意」が見えない
※一往、附文・再往、元意による読み分けを知らない、あるいはできない
◎大聖人の御文を読み解く場合は「文」→「義」→「意」へと通じる拝し方をしないと途方もない誤読となるのです。


 【釈迦一代五時継図】(新編1660頁13・全集646頁8)
「像法決疑経に云はく「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して十二部経を宣説し、文に随って義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速やかに我が法を滅せん」
→仏の真意を解せず、自己流の解釈をする悪い坊主は、三世の諸仏の怨となる。また、これによって、正法は消え去ってしまう。


 【教行証御書】(新編1108頁5・全集1281頁3)
「邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。」
→「文証を出せ、文証を。」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる謗法者の常。


 【女人往生抄】(新編341頁6・全集ナシ)
「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。
→正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われる。

 そもそも仏法を体得していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのです。
 道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす者は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳なのです。

古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽(ゆるが)せにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救うべからざるに至る、誠に嘆ずべきである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』45頁)

<佐前・佐後>
●又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ(『三沢抄』御書1204、5行目 全集1489頁)
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御書の中に佐前と佐後の別があり、それを踏まえて解釈しなければならない。


<権実、本迹、種脱の所対>
大聖人様のたくさんある御書の中の一方面における顕れ方としては、やはりお釈迦様の教えの方便と真実を整理するという意味があるのです。これはまた同時に天台大師の教学を整理する意味にも通ずるのです。そこに内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対等のけじめからの従浅至深、破邪顕正があるわけです

(第67世日顕上人『大白法』H16.11.16)


<附文・元意>
●日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めし(『寂日房御書』御書1393頁15・全集903頁5)
●我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく(『開目抄』御書542頁4・全集203頁13)
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『御義口伝』『百六箇抄』なども本来は唯授一人の口伝である。これは後に公開されたが、相伝・口伝を無視すれば、大聖人=末法の本仏、ということさえ分からない。「人本尊開顕の書」とされる『開目抄』でさえ、附文の辺からは「上行菩薩開顕の書」に過ぎない。
●本門の教主釈尊を本尊とすべし(『報恩抄』御書1036頁8・全集328頁15)
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 血脈相伝の深義を知らざる他門下においては熟脱の教主たる色相荘厳の釈尊像を本尊とする。池田創価学会も「御書根本」を標榜し、それ以外の血脈相伝を無用のものとするならば、他門下と同様に、当文を文字づらだけで判断して、金ピカの釈尊像をもって本尊とするのが順当であろう。 池田創価学会がそうしない理由は何か、それは、口では「御書根本」と言って独自の見解を立てた如くに述べるも、その実、歴代御法主上人から学んだ相伝による判釈を用いているからである。(『大白法』H14.7.1)

<四悉檀>
●予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか(『太田左衛門尉御返事』新編1222頁16・全集1015頁7)
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大聖人様の御書の内容には、根本の確固たる筋道がありますが、また僧俗の種々の機根に応じて世界・為人・対治・第一義という四悉檀の上からいろいろな段階における御指南があります。(第67世日顕上人『大白法』H16.11.16)


<口伝・相伝に勝劣あり>

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◆伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」
(『聖愚問答抄』御書389頁13・全集482頁2)------------------------------------------------------------
 御文は、「仏説に違背する口伝は信じてはいけない」という意味であって、「口伝」そのものを否定しているのではない。
 その証拠に、日蓮大聖人の仏法において、「口伝」は厳然とある。
 まず、学会版の御書全集にも収録されている『御義口伝』は、題号からして、そのものズバリ「口伝」であるし、やはり全集に収録されている『百六箇抄』『本因妙抄』の両巻血脈、あるいは『産湯相承事』等も、金口相承とまではいかないが、大聖人から日興上人への「口伝」を筆受された法門である。
 なお、そのうち『産湯相承事』の末文には
 「聖人の言(のたまわ)く此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決・唯授一人の秘伝なり」(御書1710頁7・全集880頁5行)
と、この法門が、大聖人から日興上人への口決の秘伝―すなわち「口伝」であることを明記されているのである。(『慧妙』H9.7.16)

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